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1999年の新庄剛志

大阪局にいた頃、阪神にやってきた野村監督の番組を作りました。初めての本格的なスポーツ取材。最初にインタビューしたアスリートが新庄剛志でした。

選手時代の新庄剛志を取材したのは1999年の沖縄自主トレ。野村克也が阪神の監督に就任して、ダメ虎をどう変えるか。その「ダメ虎」の象徴が新庄だった。誰もが認める才能を持ちながら、それを活かす事ができない。ノムさんは新庄を投手に挑戦させると打ち出し、マスコミの注目を集めていた。

グラウンドの芝生に座り込んでのインタビュー。新庄は驚くほどネガティブだった。「期待しないでほしいんですよ。僕が打席に立ったら、三振か内野ゴロ、そう思ってくれた方がいい」在阪マスコミの過大な注目に傷ついているようにも見えたけど、そんな自分を素直に語る所に好感を持った。

自分は守備の方が好きだと語り、筋トレへのこだわりも教えてくれたけど、その様子は絶対に撮影させてくれなかった。沖縄の空に米軍ヘリが飛ぶと、音がうるさいからと空を見上げて話すのをやめてくれる気遣いもあった。

安芸でのキャンプ。ノムさんが夜に開くミーティング「野村の教え」から新庄が何を学ぶか、注目された。

当然、僕は聞く事になる。
新庄さん、野村監督の教えで印象に残った事、ありますか?
新庄は答えた。

「全部です」

いや、その中であえて一つあげると?

「だから、全部です」

新庄と仲の良かった大豊選手に聞くと、「新庄ね、ミーティング中、落書き描いてて監督に怒られてたヨ」

でも野村監督も、そんな新庄を可愛く思っている事は伝わってきた。籠に囲われた才能を解き放ってやりたい。それよりも自分に才能がある事に気付かせてやりたい。そんな野村監督の気持ちが今になってわかる。

結局はオープン戦までで終わった投手挑戦。

それでも、ブルペンで躍動する新庄の肉体は特別な動きに見えた。今の大谷翔平のようなダイナミックさ。新庄は変わろうとしていた。でもそれをインタビューで引き出す事はできなかった。彼の心にふれたように思えたのは自主トレの時だけだった。

その年の夏、新庄は伸び伸びと躍動した。
敬遠の球をヒットにした試合もあった。
新庄がアメリカ挑戦を決めたのは、その翌々年。
そこからの活躍は、ご存知の通り。
新庄は、僕らが知る新庄になった。

あの日、弱気な目をした新庄を取材できた事は、僕の小さな誇りとなった。誰かが何かを成し遂げる「その前」を取材したいと思うようになった。

1999年。僕が28歳で、新庄が27歳だった頃の話。

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