情熱大陸「バレーボール 石川祐希」
淡々とした番組だった。それは、いい意味でも悪い意味でも。
イタリアリーグでプレーするバレーボーラー石川祐希を追った情熱大陸。起伏はほとんどない番組だった。でもそれほど悪い気持ちはしなかった。
情熱大陸はドキュメンタリーに関わる人が、どこかで意識せざるを得ない番組だ。憧れる人もいれば、ライバルとして捉える人もいるだろう。でも、どの立場でも認めなければいけないのが「フォーマットの強さ」だ。
番組には確固たる文体があり、文体と不可分となったナレーターの「声」がある。
何気ないコメント。それが心地よく響く。
例えば今回のファーストコメント。
なんて事ないコメント。自分が真似をしたら、一笑に付されてしまいそう。
情報性という価値観からは、ほとんど何も言っていない。しかしそれは、窪田さんの語りによって特別な言葉のように響く。
そんなに撮れていない素材でも、それなりのレベルに到達できるのは長い歳月をかけて作り上げてきた番組フォーマットやブランドの力。「視聴者が番組に求めているもの」と「番組が見た人に与えるもの」それが常に高いレベルで一致しているから、ここまで長く続いてきたのだろう。(今回で1200回目だという)
石川祐希を追いかけた今回の情熱大陸。さぁどうなるかなと、興味深い思いで番組を見た。
石川は決して饒舌なタイプではない。むしろインタビューで景気の良いことを言わないタイプ。面白くない、というのは失礼な話だが、アイドル的な人気にも決して浮つくことなく、チームの為や自分の為に、その時できる事、すべき事を積み重ねるタイプ。
そして、インタビューでもその思いを淡々と語る。
コンプレックスや大きな挫折をその人生に発見する事は難しい。
バレーボールがもっとうまくなりたい、もっとチームの勝利に貢献したい。その気持ちに嘘はないだろうけど「本当にそれだけ?」と疑いたくなる気持ちもある。
取材者からするとかなりの難敵。
それを、情熱大陸はどう料理するのか。
そんな気持ちで番組を見た。
そして、番組は淡々としていた。
淡々とした石川祐希を、淡々と追いかけていた。
自炊する石川。運転する石川。筋トレする石川。チームメイトとのランチ。社会貢献活動で子供たちを教える。
そしてプレーオフの試合。敗北。
悔しさを淡々と語り、仲間と再帰を誓う焼き肉を食べる。
そして番組は終わった。
ハプニングは何もなかった。試合の敗北はもしかしたら想定外だったのかもしれないが、試合展開をフレームアップする事はしない。
おそらくロケの為に設定したであろう、チームメイトとの昼食も温度は上がらない。
あまりに淡々と進む展開に、徐々に違った思いも浮かんでくる。
「制作者は、あえてノットドラマチックに作ろうとしているのではないか」
いや、どうだろう。
でも無理に盛り上げる事をしない構成は、石川祐希の特性である淡々とした部分を、結果的に際立たせる効果を生み出していた。
気になったシーンもあった。車内でディレクターが聞くインタビュー。丁寧な口調でディレクターは聞く。
ディレクターの「本当のところを知りたい」という思いが、唯一感じられたシーンだった。それに石川は答える。
ここでも、温度は変わらない。それでも「バレーボールでバレーボールの悩みを解消する」という言葉に引っかかる。それはそんなに普通のことではない。普通そうに話すから、そう響くのだけど。
そして番組の中で一番印象に残ったシーンにつながる。
それは、バレーボール教室での少女からの質問だった。
石川がイタリア語で答える。
それは日本語でのインタビューでは引き出されなかった本音のように思えた。母国語ではきっと気恥ずかしくて言わない本音。
石川は、本当にバレーボールだけがすべての人間なのだ。
大好きなことがあり、大好きなことにおける才能があり、夢があり、夢の為に努力を続ける情熱があり、チャンスがあり成長がある。
そのことでチヤホヤされるのは何か違うと感じて、
バレーボールに集中できる異国の地を選んだ。
本人はそれを特別なこととは考えていない。淡々と、自分の道を歩み続けている。
制作者にとって、今回の番組が望んだような形にできたものだったのかはわからない。でもおそらく石川はこの番組を見て「本当の自分とは違う自分が描かれた」とは思わないのではないか。
自分なら、どう作っただろうか。
そのことを考えてみたけれど、ちょっと答えは出ない。