初めて見たイ・ランに震えた日。
眉をひそめて、顔をしかめてイ・ランは歌っていた。顔をしかめて、というよりは歪めてという方が正しいかもしれない。それは大きな声や、高い声を出す為、というよりは何か他のものを絞り出す為のようにも見えて、そんな風に歌う歌い手を始めて見た。
以前はよく日本に来てたけど、コロナになったり愛する猫ジュンイチの体調がすぐれなかったりで、久しぶりの日本だと言う。イ・ランの東京2days。5人編成のコーラス、オンニ・クワイヤを引き連れて、後はいつものチェロのイ・ヘジ。さらにベースとキーボードとドラムの10人編成。チェロと2人とでも、素晴らしいパフォーマンスができることは知っている。でもきっと今の彼女には、この編成が必要なんだろうと思う。
「最近の私の歌は、シャウトが多くて疲れるです」そう言って彼女は笑った。
後ろのモニターには、ハングルの歌詞と日本語の訳詞が映し出される。メッセージがしっかりと理解できて、それはとても助かるけれど、外国アーティストでは珍しい演出。そして、それもきっと彼女が絶対に必要だと考えたこと。
イ・ランの歌は、一緒に歌うことは想定されていない。音楽とポエトリーの中間のように、言葉と音楽の比重はほとんど等価のように伝わってくる。
最初は一曲歌って、カムサハムニダ。そして拍手。そしてまた次の歌。そんな緊張感が漂っていた。途中から日本語のMCも始まり、少し場も解けてくる。メンバー紹介で、ドラマーを忘れたまま歌に入ってしまい、慌てて曲を中断して紹介する場面。素の彼女がのぞくと少しほっとした気持ちになる。
イ・ランの歌。もしあなたがまだ知らないのなら、ぜひその歌と言葉にふれてほしい。韓国の音楽に詳しいわけではないけれど、きっとそれは特別な歌。言葉と音楽が絡み合いながら静かに、時に激しく流れてゆく。それはポエトリー・リーディングのようでもあり、ケルト音楽のようでもある。いくつかのPVを置いておく。
イ・ランは文筆家でもある。エッセイは、とてもシンプルで読みやすいものではあるけれど、自分の過去や家族関係や性について生々しく語る内容も多く、「どうして、そこまで」と言う気持ちにもなる。
障害のある弟にばかり家族が気を配ることに、やるせなくなったという10代の話や、自己の存在を性行為でしか確認できなかったというような20代の話。生々しい話だけれど、それは汚くはない。彼女にとって、それを書くことは必要な過程だったということが伝わってくる。
でもそれは、どういうことなんだろう。
ライブで圧倒的に響いたのは、コーラスと共に歌う「オオカミが現れた」そして「患難の世代」。どれもPVがあるからそれも見てほしい。特に後者は、苦しみの多い自分たちの世代についての歌。最後のコーラスのサビは圧巻。きっとこれらの歌を届ける為に、彼女はコーラスと共に来日したのではないか。
(字幕あります)
その「患難の世代」(患難は、艱難辛苦のことか)のサビで、思わず涙が込み上げる。
自死について考えることは、僕はない。そいう事と関係なく、僕の中の最もしなやかで柔らかな心の部分をイ・ランは刺激する。僕らが、幾重にも張り巡らせた心や魂の防衛線のその奥。そこにふれる為に、そことふれ合う為に彼女は表現をしているのだ。圧倒的な音楽と言葉の圧力と共に、そんな事が伝わってくる。
斜め前の女性の横顔がふと目に入った。僕と同じタイミングで、女性の瞳から涙が流れ落ちる。とても驚く。でもそれはきっと偶然ではない。
痛みも苦しみも愛も憎しみも、すべてを結晶になるまで突き詰めて歌えば、あらゆる感情はこれほどまでに純粋に美しくなる。そして、そうやって覆いを取り去った剥き出しの部分を表現し、相手の同じような部分と響き合うこと。彼女にとってそれが「表現をすること」であり「表現することの意味」なのだ。きっと。
でも眉を寄せて、顔をしかめて歌う姿からは、その「結晶化」のような作業がどれほど厳しい作業なのかも伝わってくる。きっとそれは一切の妥協を許さない作業。歌にも、言葉にも。美化したり、曖昧にしたりすることなく、歌が生み出された、その産みの作業を、観客の前で繰り返しているよう。
ライブの中盤、彼女は寒いと言い出した。空調が寒すぎる。私の衣装は、布が少ない。そんなことを片言で言って笑わせたけど、もう少しすると、また寒い、と言う。誰か、上着を貸してもらえませんか。そして、客席の女性からシャツが手渡された。暖かいです。それを羽織って、彼女は歌い出した。僕らは、それを見て思った。
良かった、と。
体でも心でも、彼女が感じる冷たさを、誰かの上着が暖めたのなら、それは本当に良かった、と。
歌い終えて、彼女は感謝の言葉と共にシャツを客席に投げ返した。
「あなたのシャツを着て歌ったから、今の歌はあなたの歌です」そう、客席に向かって伝えた。
とても、いいものを見たと思った。