ケニー・バレル&ジョン・コルトレーン
ケニー・バレルとジョン・コルトレーンの1958年共演作品『ケニー・バレル&ジョン・コルトレーン』を取り上げましょう。
ケニー・バレルとジョン・コルトレーン二人の名前を冠した作品ですが、当時のニュー・ジャズ〜プレスティッジがよく行っていた、レーベル所縁のミュージシャンを頭に掲げたセッションの一環、組み合わせの妙を提供しています。
バレルのカルテットにコルトレーンが加わった形と言えますが、ここではコルトレーンにとって肩の力の入らない、通り掛かり的に演奏を楽しんでいる風を感じます。
当時急成長を遂げたコルトレーン、ギター界の王道を行く演奏を信条とするバレル、50年代に互いにサイドマンとして何度か共演を遂げていますが、水と油とまでは行かずとも音楽的に密なスタイルを共有していた訳ではありません。
コルトレーンのバップ〜ハードバップの枠から飛び出さんばかりの猛烈なブロウ、斬新なアイデアに富んだ独自で緻密なフレージング、一方のバレルはチャーリー・クリスチャンからの影響を受け、本作にも参加している同郷のトミー・フラナガンやミルト・ジャクソンらとデトロイトで切磋琢磨し、50年代に既に自身のスタイルを築き上げ、その手法を守りつつのプレイ。
オーソドックスに淡々と自己のストーリーをギターで語る手法と、テナーサックス表現の限界に挑みつつ、楽曲に新たなテイストを織り込むべく取り組むプレイでは、平行線を辿らざるを得ません。
しかし本作では選曲の良さ、ポール・チェンバース、ジミー・コブらマイルスのバンド・メンバーを含む共演者の適切な人選が光り、随所にスリリングな展開を聴かせます。
当時のジャズシーンでは珍しいギターとテナーのデュオによるバラード収録も魅力のひとつです。
そして演奏的にはバレルの重厚な低音域を生かしたプレイと、コルトレーンの高音域を中心としたハスキーな音色とが丁度対を成すように、バランス感を織りなしています。
次第にコルトレーンの音楽性が異なって行ったのも有るでしょう、本作以降二人の共演は遂げられませんでしたが、ギターとテナーは音域、音色、サウンド的にも相性が良く、例えばジム・ホールとソニー・ロリンズ、ウェス・モンゴメリーとジョニー・グリフィン、時代は飛んでマイク・スターンとマイケル・ブレッカーやボブ・バーグ、パット・メセニーと同じくブレッカー、ジョン・スコフィールドとジョー・ラヴァーノ、カート・ローゼンウィンケルとマーク・ターナー等のチームが挙げられます。
時を経てギターとテナーのプレイがよりテクニカルになればなるほど、音楽性が深まれば深まるほど、両者の関係はより親密さを増して行きました。
コルトレーンが61年9月のモンタレー・ジャズ・フェスティヴァルで、ウェス・モンゴメリーを自分のクインテットに参加させた話は有名です。ここではギターのサウンドが欲しかったからと言うよりも、ウェスの個性的なプレイを評価したコルトレーンが、ソロイストとして招いたと見るのが妥当です。
それでは収録曲について触れて行く事にしましょう。
1曲目フライト・トレーン、ルイス・ポーター著『ジョン・コルトレーン・ヒズ・ライフ・アンド・ミュージック』、本作録音日のクロノロジーに興味深い記述があります。
サックス奏者グレッグ・ウォールが著者ポーターに次のように指摘しました。
フライト・トレーンはダイナ・ワシントンが1949年に録音したブルース・ナンバー、ドラマー・マンにて同じテーマが演奏されており、その作曲者は不明と。
本作ではフラナガンが作曲者としてクレジットされていますが、自身はフライト・トレーンを作曲していないとポーターに語ったそうです。
バレルもポーターに、その曲はデトロイト周辺で演奏されていたが、我々は誰が書いた曲かを知らないとも述べています。
実際にワシントンの歌うドラマー・マンを聴いてみると、彼女のヴォーカルの前奏部分にコード進行こそ異なりますが、フライト・トレーンと殆ど同じメロディが丸々1コーラス、アンサンブルを伴いつつ管楽器によって演奏されています。
この演奏が元になりデトロイト辺りで演奏されるようになったのか、昔から存在したメロディをこのテイクで用いたのか全く分かりませんが、本作のレコーディングに際し同郷の二人が、昔デトロイトで演奏したあのブルースを取り上げてみようか、くらいのノリで発案したのでしょう。
コルトレーンに演奏させるために、スタジオ内でフラナガンがテーマやコード進行を譜面に起こし、そのやり取りを見ていたプロデューサーやスタッフが彼を作曲者と勘違いしたのではないか、と推測しています。
アップテンポで演奏されるフライト・トレーンはキーがAフラットのブルース、シンコペーションを伴ったメロディ・ラインが魅力的です。
ギターとテナーが下の音域でユニゾンのテーマを演奏しますが、異なったトーンが合わさる事による重厚さが表現に彩を添えます。
通常のブルース進行よりもずっと細かくコード・チェンジが施されており、ここのアイデアはフラナガンの発案ではないかと睨んでいます。
テーマ後ソロの先発はコルトレーン、出だしからいきなりオクターヴ上がり、彼のソロの通常音域でスタートします。しかし唐突感は無く、寧ろコルトレーンのパッションの発露を感じます。
それにしても素晴らしいトーン、前57年とは別人のような太さ、凛々しさ、爽快感、エッジ感。さらには56年当時の抜けないこもり気味の発音とは雲泥の差です。
マウスピースが異なる事に起因するのかも知れませんが、それよりも腹式呼吸〜エアーの使い方を含めた奏法の安定感、音色のさらなるイメージの充実化、明らかに何かを掴んだアーティストによる、イマジネイティヴな表現を受け止める事が出来ます。
様々なⅡm7-Ⅴ7から成るコード進行に、当時彼が用いていたアルペジオを元にしたフレーズを確認する事が出来ますが、新たな展開や異なるテンションを散りばめつつ、スピード感を伴いながら雄々しくブロウする様には確固たる信念を感じさせます。
端正な8分音符によるラインのフレージングはスピード感に溢れスインギー、随所に用いられる16分音符がアクセントとなり、実にウネウネとスリリングにソロを展開しますが、盟友チェンバースのオントップなベースが間違いなく推進力を与えています。
流麗にソロが行われていますが、実は中々の難物なコード・チェンジ、アイデアも尽きかけ、これ以上は蛇足に陥ると判断したかのようにコルトレーンはソロを終えます。
最後のフレーズをキャッチしてバレルのソロが始まります。素晴らしいギターの音色を聴かせますが、ギター楽器本体、アンプ、ピックの厚さ、手の形、指先の太さ、ピッキング自体の奏法、様々な事象が合わさってのプレイですが、拘りの集合体により音色は成り立ちます。
どちらかと言えば保守的なバレル・ワールドの中にあってもチャレンジを怠らず、フレッシュなソロを聴かせます。
続くフラナガンの流暢なプレイには、チェンバースがサポート役を一手に担当するかの、アクティヴなアプローチを確認出来ます。
引き続きチェンバースがアルコを用いてソロを行いますが、ピアノはバッキングせず、バレルによるカッティングが聴かれます。
その後コルトレーンが率先して4小節のバッキング・リフを吹き始め、ピアノが4小節ソロ、ドラムが4小節ソロから成るフォームを計2コーラス行います。チェンバースとフラナガンが2コーラス目の5, 6小節目に一瞬ドラムソロと勘違いしたのでしょうか、ここでプレイすべきかを躊躇します。恐らくヘッドアレンジで行われたトレードですが、彼らは柔軟に対応しています。
その後バレルとコルトレーンふたりの4小節トレードが行われます。本作のハイライトの一つ、音楽性豊かなフレーズの数々が応酬されますが、互いのフレーズを拾ったカンヴァセーションは特に成り立っておらず、用いる言語の違いと会話のシステムの差異を感じました。
4コーラスに及ぶ掛け合いの後、ラストテーマへ。エンディングはテーマの11, 12小節目を3度繰り返しFineです。
2曲目はスタンダード・ナンバー、アイ・ネヴァー・ニュー、ピアノのイントロから始まり、小粋なメロディラインを有したテーマをギターが演奏します。
ブラシを用いていたコブがピックアップソロ後スティックに持ち替えますが、その際のバレルのフレージングが鯔背です。
フライト・トレーンのプレイ時よりもよりウタを感じさせ、バレルの本領発揮です。
その後のコルトレーンのプレイにも、リラクゼーションに由来するナチュラルさを感じ、58年当時のコルトレーン・フレーズ、アプローチ、魅力的なトーンをしっかりと味わう事が出来ます。
フラナガン、チェンバースのピチカート・ソロと続き、ギターが1コーラスをプレイし、ラストテーマへ。すかさずチェンバースが対応しツービートで演奏し始めます。フラナガンはソロとテーマの際のバッキングを上手く使い分けているとも感じました。
テーマの後半にはコルトレーンも分け入り、メロディをプレイして終止感をもたらしています。
3曲目バレルのナンバー、リレスト、ベースとドラムのバックビートが心地良く響き、ドラムの2小節ソロを含むイントロからスタートします。
こちらはコルトレーンとバレルのユニゾンでテーマが演奏されます。せっかくの魅惑の音色の持ち主たち二人のフロント、そしてチャーミングなメロディを有するナンバー、この曲は二人してテーマをプレイしようよ、とバレルが提案したのでしょう、こうでなければいけません。
ソロの先発はコルトレーン、本作中最も自在にブロウしており、捕らわれるものの無い解放感を示しています。
バレルのソロにも同じ事が言え、タイムのスムースさ、イメージの継続、歌心を感じさせます。
フラナガンのソロ後、ドラムとベースの4小節交換が1コーラス32小節行われますが、ドラムが先発のトレードは珍しい事例です。
ベースソロ最後の小節の1拍目裏から鳴らされるピアノの一音、ドミナントであるBフラット音ですが、この音に呼び込まれるようにラストテーマが始まります。至ってシンプルなプレイなのですが、フラナガンの伴奏に於けるセンスの真骨頂を垣間見る事が出来ました。
魅力的な演奏に仕上がったこの曲が、本作冒頭に収録されても良かったように感じます。
4曲目ホワイ・ワズ・アイ・ボーン?は全編ギターとテナーのデュオで演奏されるスタンダード・ナンバー、この編成はプロデューサーの采配でしょうか、ミュージシャンの発案かも知れません、企画が功を奏した本作白眉のテイクです。
クリシェを感じさせるコードワークから成る、ギターの印象的なイントロから始まります。コルトレーンがメロディを担当、抑揚を交えつつプレイ、ダイナミクスがここまで表現されるのは、一本調子に陥りやすい本作のようなブローイング・セッションでは、得難い場面と言えましょう。
テナープレイの合間に入るギターのフィルインには作品中最も両者の一体感を示し、アルバムのクオリティを向上させています。デュオならではの表現の妙、繊細な音楽性を持つ二人が浮かび上がります。
58年当時にこのようなアプローチでのテナー、ギター二人によるデュオは存在しませんでした。
途中に短いギターソロを挟みつつ、プレイは進行します。コルトレーンはバレルのディープなプレイに影響を受けたのか、いつに無く深めのヴィヴラートと低音域に降りた際のサブトーン使用を聴く事が出来ます。エンディングでの潔さを披露したギターのコードワークも、曲の締めに相応しいと思います。
このフォーマットで一作アルバムが制作されたなら、コルトレーン、バレル互いの代表作になり得たようにイメージしています。
5曲目ビッグ・ポールはフラナガンのオリジナルでキーがCのブルース・ナンバー。
ポールはもちろんチェンバースの事、彼のソロから始まり、1コーラス後ドラム、ピアノが加わり演奏が始まります。テーマらしいメロディは特に提示されず、フラナガンのソロが脱力しつつ延々と展開します。
その後待ちかねたようにコルトレーンのソロが始まります。怒涛のように溢れ出るフレージング、アイデア、反してリズムセクションは彼のテンションへの対応に苦慮しているのかも知れません、淡々とプレイが続きますが、一人チェンバースのオントップさがコルトレーンを鼓舞し続けているように聴こえます。
終盤に差し掛かり流石にコブも熱を帯び始め、コルトレーンの代表的作品であるブルー・トレイン、表題曲でのソロが佳境に入った時の如く、ダブル・タイム・フィールでドラミングし始めます。その時のドラマーはフィリー・ジョー・ジョーンズでしたが。
その後ギターソロが始まりますが、冒頭ピアノのグリッサンドとも判断出来る、ざわめきが背後で聴こえるので、もしかしたらコルトレーンがソロの終わりしなに何やら呟いた、その声かも知れません。
バレルのプレイは間を活かした、本作中最もブルージーなテイストを発揮します。
その後再びチェンバースのピチカート・ソロへ、続いて再登場のフラナガンのソロは先ほどのプレイよりも饒舌に、異なったアイデアを織り込みながら次第にディミヌエンドしますが、エンディングの方法を探りつつプレイしているのを感じ、同じくテーマは提示されずFineとなります。