ダンシング・オン・ザ・テーブルス/ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセン
ベース奏者ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセンの79年録音リーダー作、『ダンシング・オン・ザ・テーブルス』を取り上げましょう。
ペデルセンは1946年5月27日デンマーク、シェラン島生まれ、幼少期にピアノを学び、13歳でアップライト・ベースを習い始めます。
折しも60年代初頭は大勢の黒人ジャズマンが米国から仕事を求めてデンマークやフランスに移住し、その中にはジャズのレジェンドも多く、楽器を始めたばかりのペデルセンは欧州に居ながらにして米国第一線のミュージシャンと共演、恵まれた環境下真髄を学びます。
音楽大学で学ぶ事も有益ですが、本場のミュージシャンとライヴでクローズにギグをこなすのは、また別格です。
欧州は元々クラシックが盛んで、優れた弦楽器奏者が多く育っています。血筋としてコントラバスを巧みに操る素養を持ちつつ、身近にいる渡欧ミュージシャンからジャズのフレーヴァーを浴びるように学ぶ事が出来ました。
チェコスロバキア出身のジャズ・ベース奏者たち、ミロスラフ・ヴィトウス、ジョージ・ムラーツも同世代ですが、彼らはクラシックをしっかりと学び、よりアカデミックな環境でベーシストとしての才能を開花させます。
地理的、人材的にも東欧チェコよりデンマークの方がニューヨークのジャズに直結しており、ペデルセンは現場でジャズを学び続けた”叩き上げ”タイプのミュージシャンと言えます。
コペンハーゲンの老舗ライヴハウス、カフェ・モンマルトルにて彼は61年の大晦日にベーシストとしてデビューを果たしますが、その時弱冠15歳、以降ホームグラウンドとして事あるごとに出演します。
17歳でカウント・ベイシー・オーケストラに参加したのを皮切りに、渡欧組ミュージシャンほか、ツアーで欧州を回った米国ジャズマンとも共演を果たし、レコーディングの機会も持つ事ができました。
ソニー・ロリンズ、デクスター・ゴードン、ラサーン・ローランド・カーク、スタン・ゲッツ、ビル・エヴァンス、ベン・ウェブスター、ブリュー・ムーア、バド・パウエル、ロイ・エルドリッジ、ディジー・ガレスピー、ジャッキー・マクリーン、エラ・フィッツジェラルド、ジャン=リュック・ポンティらの名前を挙げることができますが、中でもケニー・ドリューとは特に親密な関係を築き、30作近くのトリオ、デュオでの共演アルバムを残しています。
ドリューは50年代のハードバップ然としたプレイから、渡欧後ペデルセンとの共演により、タイムやビートの提示感、そして表現方法そのものが変わり、より洗練されたテイストを発揮するようになったと認識しています。
本作と同じスティープル・チェイス・レーベルからリリースされた『デュオ』『ダーク・ビューティ』等ドリューのリーダー作では、ペデルセンとの絶妙なコラボレーションを聴く事が出来、いずれも大ヒットとなりました。
76年4月10日、今は無き新宿コマ劇場で行われたオールナイト・ジャズ・コンサート、ペデルセンとビリー・ヒギンスを擁したケニー・ドリュー・トリオ、ジャッキー・マクリーン・プラス・マル・ウォルドロン・トリオ、日本を代表するプレイヤーも出演し、彼らとの共演も行われたイヴェントを聴きに行きました。
70, 80年代にはオールナイトのジャズ・コンサートが盛んに行われていたのが、今では懐かしい限りです。
当時既に絶大な人気を誇っていたドリュー・トリオの来日とあれば話題沸騰、前評判から確かチケットはソールドアウトでした。
オープン前の劇場は開場を心待ちの聴衆で溢れており、入場を待っていると、何とベースを抱えたペデルセンが我々の前を通り過ぎ、正面入り口から入ろうとしているではありませんか!
通常出演ミュージシャンは楽屋口から出入りの筈です。彼は何を勘違いしたのか、慌てた係員に誘導されていましたが、いきなりのペデルセン登場、彼の姿を間近で確認出来たファンが歓声をあげ、盛り上がっていたのを覚えています。
ホールでのギグであれば、昼間に必ずリハーサルが行われます。彼はリハ後に一度宿泊先に戻ったのでしょう、ベースを携えていた事から徒歩圏内のホテルに違いありません。
練習に余念のないペデルセンはホールに楽器を置かずにホテルの自室に持ち帰り、しっかりと日課である基礎練習や当夜の楽曲の確認を行い、その後は本番に備えて仮眠をしたかも知れません、深夜12時スタートのオールナイト・コンサートですから。
時差ボケもあるでしょう、寝過ごした可能性は否めず、それゆえ入り時間を過ぎて焦った彼が思わず観客口から入ろうとしたと考えられます。
大学1年生の私は、その時出演者がどうして一般の入場口から入ろうとするのだろうと、漠然と捉えていましたが、この仕事に長く携わっているとその背景が見えて来るのが面白いです。
緻密で大胆な演奏を信条とするペデルセンですが、彼の慌てん坊な側面に触れられ、親近感を覚えました。
欧州、米国のミュージシャンとの共演からその実力を認められたペデルセン、数多くのギグをこなしスター街道をまっしぐら、前任者レイ・ブラウンの推薦もあり、ペデルセンはオスカー・ピーターソン・トリオのベーシストを72年から87年まで務めました。
74年にはジョー・パスを擁したピーターソン・トリオでグラミー賞を、81年には雑誌ダウンビートの批評家投票でベスト・ベース・プレーヤーを受賞します。
ペデルセンのベース・プレイの特徴として、驚異的なテクニックを駆使した端正なピッチ感、強力なビートでバンドを牽引します。アルコプレイの巧みさは特筆すべきで、いわゆる華のあるミュージシャンの代表格です。
ミュージシャン達との会話からたびたび話題に上るペデルセンのプレイ、感情や情緒を封じ込めたマシンのようなプレイに終始する事がありますが、同業ベーシストは異口同音に「あれだけベースという楽器を操れるのは信じられない」と称賛します。
反してラインの組み方にペデルセン節とも言える個性を感じ、金太郎飴的な表現に陥る場合があります。チャーリー・ヘイデン、またエレクトリック・ベース奏者ですがポール・ジャクソンの様な瞬発力を感じさせ、不定形なアプローチを信条とするプレーヤーとは、ある種対照的なテイストです。
例えば前述のピーターソン・トリオにヘイデンが加わった演奏が実現していたなら、是非とも聴いてみたかったです。一、ニ度なら互いに新鮮さを覚え、演奏は成り立つでしょうが、三度目以降は確実に水と油でしょう。
同じ音楽性を持つペデルセンとピーターソンは、抜群のコンビネーションを示していました。
ペデルセンのリーダー諸作中、本作は異彩を放ちます。まず選曲ですが、リーダー、コ・リーダー作では殆どスタンダード・ナンバーを題材としていますが、本作ではペデルセンのオリジナルとデンマークのトラディショナル・ナンバーを取り上げています。
ペデルセンのファンはいつものスタンダード演奏の心地良さを楽しみにしていた事でしょう、突然の異なった音楽性、演奏内容に戸惑い、さすがに売り上げの方は芳しくなかった模様です。
共演者に関して、二人の鬼才デイヴ・リーブマン、ジョン・スコフィールドをフロントに、ドラムにはリーブマンの盟友ビリー・ハートを擁します。
リーブマンとジョンスコは当時バンド仲間、互いのリーダー作〜リーブマン『ドゥイン・イット・アゲイン』、ジョンスコ『フーズ・フー?』〜に招き入れ、アクティヴに共演していました。
本作録音に先立つ4月、やはりスティープル・チェイスからリリースのトランペッター、ジョン・マクニールのリーダー作『フォーン』ではリーブマンとハートが参加し、素晴らしい演奏を繰り広げており、この延長上で同レーベルには珍しい人選が行われたと推察できます。
それでは収録曲について触れて行く事にしましょう。
1曲目ダンシング・オン・ザ・テーブルス、アップテンポのユニークなオリジナル、本作白眉の演奏です。ペデルセンが幼少期に聴いた童謡をモチーフにしたと言われています。
可愛らしいメロディ・チューンを、リーブマンとジョンスコがいつものダークでエグいテイストをもって演奏することに、始めは違和感がありましたが、聴き進めて行くに従い寧ろある種の快感を覚えました。言ってみればミスマッチの美学、クセになります(笑)。
導入部はテーマに施されたコード進行のユニークさとギターのハーモニーの巧みさ、リーブマンのテナーの枯れた味わいとベースのピチカート、加えてギターとのスリー・ヴォイスによるアンサンブル、ハートの施すカラーリング、実に個性的なサウンドに仕上がっています。
ソロの先発はベース、エッジーでスピード感溢れるフレージングは一聴ペデルセンと認識出来ます。それにしても良くもまあこれだけ軽々とコントラバスを操れるのでしょうか。日頃の鍛錬は言うまでもありませんが、本人に備わった音楽観とテイストの表出、逆に渡欧組米国ジャズマンから一体何を、どの様に学んだのかさえも考えさせられます。渡欧組には彼のような超絶奏者は存在しませんから。
ギターソロに続きますが、ベースソロ時に縦横無尽にハイパーなバッキングを施していたにも関わらず、一転してシングルトーンでのアプローチ、この事によりジョンスコのエッセンスが凝縮して現れます。
途中からスイングビートに変わります。ペデルセンのウォーキングには大変スピード感があり、確実にジョンスコをプッシュし、ひたすら続く先鋭的なラインを、よりフレッシュに彩っています。
突如として現れるギターのコードワークに驚きつつ、再びシングルトーンでのソロ、コンビネーション・ディミニッシュ・スケールを主体としたアプローチを駆使し、アウトしたアドリブのホーンライクなプレイ、アーティキュレーションにサックス奏者のテイストを感じさせます。
その後リーブマンのソロへ、いつに無くトラディショナルな語り口からプレイが始まり、次第に自己のアプローチを色濃くして行きます。
彼はこの録音から暫くのちに、テナーサックス演奏を封印します。理由に関して様々な憶測がなされましたが、ソプラノをメインにした活動を展開し、テナーはごくたまに演奏するにとどまりました。
このままスティーヴ・レイシーのような孤高のソプラニスタとしてプレイを極めるかに見えましたが、90年代中頃からテナープレイを再開し、より色合いの濃くなったエグさをオーディエンスに届ける様になりました。
レギュラー・クインテットによる96年1月録音のスタンダード集『リターン・オブ・ザ・テナー』はテナー復帰のモニュメンタルな作品です。
熟れた果実が枝から落ちる寸前の如きテナーの音色、トーナリティの垣根を確信犯的に取り払ったアウトしまくるライン、駆使するハーモニクスやオルタネート音、その中に時折見せる危ない色気、それらを端正なタイム感が色濃くレイアウトします。
この頃の彼のセッティングですが、テナー楽器本体はH・コフ(旧西独カイルヴェルトの米国向けモデル)、マウスピースはオットーリンク・メタル、フロリダ・モデルを9★程度にオープニングを広げたもの、リードはラ・ヴォーズ、ミディアム・ハードかハードをトクサで調整し、リガチャーはセルマー・メタル用を使っていました。
ジョンスコの付かず離れずのバッキングの妙、舐るようにタイムに纏わりつくペデルセンのベース、しかし楽曲はモチーフとしてデンマークの子供の歌、これらが合わさり摩訶不思議、かつスリリングな音楽をクリエイトしています。
その後テナーとドラムによる8小節交換、ベースとギターは参加せずにデュオとなります。4小節交換を経てドラムソロ、スネアを主体としたフレージングには何処かエルヴィン・ジョーンズの雰囲気を感じさせます。
その後ラストテーマへ、エンディングのコードとギターのハーモニクスには、それまでの演奏を払拭する程の意外性を感じさせます。
2曲目フューチャー・チャイルドは全編ベースソロによる短い演奏、ハーモニクスを駆使するので何処かジャコ・パストリアスのソロベース・ワールドを感じます。同時にミロスラフ・ヴィトウスのアルバム『インフィニット・サーチ』収録の、マウンテン・イン・ザ・クラウズのテイストも聴こえて来ました。テクニシャンならではのモノローグです。
3曲目ある夏の日、小鳥の歌を聴きに出かけたは、デンマーク語でJeg Gik Mid Ud En Sommerdagとアルバムに記載されています。カタカナ表示で記載したかったのですが、自動翻訳機による発音を聴き取る事が出来ません。国内盤の表記に準じたいと思います。
デンマークの民謡ですが、ベースのピチカート・プレイを中心にルパートで演奏され、メンバーがフィルインを施します。リーブマンはフルートで参加、メロディらしいラインは後半に演奏されます。哀愁を感じさせますが、タイトルからイメージするのは難しいです。
4曲目イヴニング・ソング、ベースのイントロから始まるイーヴン系リズムのナンバー、ベースが大きくフィーチャーされ、技巧的なプレイを聴かせます。
続いてのテナーソロ、始めは曲想に合致しつつ比較的メロウに歌い上げていますが、ペデルセンのベースワークにインスパイアされたか、エネルギッシュなアプローチへと変わって行きます。
ジョンスコはレイドバックしつつもスピード感のあるソロを展開、ファンク魂を提示しました。
その後のベースのテーマに該当する部分では、リーブマンがソプラノでフィルインを入れています。
5曲目クラウズもイーヴン系のナンバー、リーブマンはソプラノをチョイスしました。
フェルマータを含んだメロウなテーマの後ろで存分にベースが動き回りますが、自分のリーダー作ならではのプレイ、他人の作品では間違いなくトゥマッチです。
引き続きベースのソロが始まります。本作中最もアクティヴでテクニカルな演奏、明快なメッセージを提示して本領発揮です。
ソロの終了を宣言するかのフレージング後に続くギターソロは、ベースの後ろで弾いた巧みなバッキングの延長線にあり、コンテンポラリーさが堪りません。的確にサポートするハートのドラミングのプッシュ感が良い味を出しています。
スネークインしながらリーブマンのソロ開始、ウネウネとした独自のハーモニーを聴かせるラインの連続はリズム隊をインスパイアします。
ペデルセンは時折ハーモニクスやスラップのような奏法も用い、ハートもリーブマンをプッシュすべく激しく連打を聴かせます。
ラストテーマに入り一度クールダウンします。エンディングに向けてフェルマータ、アテンポの後は案の定激しい盛り上がり、ペデルセンも特殊テクニックを連発し、フェードアウトです。
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