マッコイ・タイナー・プレイズ・エリントン
1964年12月録音マッコイ・タイナーのリーダー作『マッコイ・タイナー・プレイズ・デューク・エリントン』を取り上げましょう。
マッコイ・タイナー第6作目のリーダー・アルバムです。彼の作品は全てインパルス・レーベルからのリリースでしたが、本作が同レーベル最後の作品になります。
次作67年4月録音、名盤『ザ・リアル・マッコイ』からブルーノート・レーベルに移籍しました。
本作『プレイズ・エリントン』では幾つか特筆すべき点があります。
まず全曲マッコイが敬愛するデューク・エリントンのナンバーから選曲されており、特に凝ったアレンジを施すこと無く比較的ストレートに演奏しています。
ドラマー、ベーシストにはエルヴィン・ジョーンズ、ジミー・ギャリソンと言う、ジョン・コルトレーン・カルテットのピアノ・トリオで編成され、曲によってプエルトリコ出身ウイリー・ロドリゲス、ドミニカ共和国生まれジョニー・パチェコらラテン・パーカッション奏者が2名加わります。
そしてコルトレーンの代表作にしてモダンジャズの金字塔である、『至上の愛』録音の前日にレコーディングが行われました。
この事は単なる偶然ではなく、幾つかの要素や思惑が絡んでいます。
コルトレーンはインパルス・レーベルの筆頭アーティストでした。レコーディング・スケジュール的には全てのアーティストを差し置き、最優先で日程が決まったと考えられます。『プレイズ・エリントン』『至上の愛』両作は同一メンバーを内包するので、引き続きのスタジオ入りが良しとされたのでしょう。
ヴァン・ゲルダー・スタジオはコルトレーン・カルテットのメンバーにとって足繁く通った言わばホームグラウンド、演奏し慣れた音空間です。
とは言え連日の演奏であればドラマーはドラムセットをセットアップ、そして片付ける必要がなく、日にちを跨いで連続したシチュエーションで気楽に演奏に臨めます。
ベーシストもコントラバスを搬入搬出する必要がなく、そのままスタジオ・ブース内にキープ出来ます。何も出し入れする必要の無いピアニストですが、同じコンディションでピアノを打鍵出来る訳です。
ジャズクラブ・ギグやコンサート・ホール、ツアーとは異なり、レコーディングはとりわけ集中力と創造力、ミュージシャン同士のコミュニケーションが要求されるデリケートな状況下にあります。少しでもリラックスした環境で演奏に臨むべきです。
そしてこう考える事も出来ます。コルトレーンのインパルス・レーベル諸作は作品を経る毎にその内容、音楽性が深まりました。特に『至上の愛』前作64年4月27日、6月1日録音『クレッセント』はそれまでに無い境地に達した、言い換えればフリー・フォームに突入する直前のコルトレーン・カルテット、その頂点と言える演奏を披露します。
インパルスのプロデューサー、ボブ・シールはじめ首脳陣は、さぞかし次回作の仕上がりに胸を膨らませた事でしょう。
どの程度まで彼らが自覚していたかは分かりませんが、ジャズ史、音楽史、いや、これらを通り越した純粋芸術誕生の現場に居合わす事が出来る、言わば歴史の証人になる訳です。
レコーディング前にはタイトルは決まっていなかったでしょう、私のイメージの世界ですが、仮題『至上の愛』のリハーサルに立ち合ったレーベル首脳陣は、カルテットの纏まり具合、音楽的進化の度合い、組曲として崇高なまでに気高く練られた楽曲から放出されるスピリットに、さぞかし圧倒された事でしょう。
結果以下の様な想いを巡らしたのではないかと思います。
「素晴らしい作品が出来上がるに違いなく、歴史的価値のあるレコーディングになるだろう。録音には万全の態勢で臨むべく、コルトレーン・カルテットのリズム・セクションにはウォームアップを兼ねたトリオのレコーディングを行うべきだ」と。
もう一点『至上の愛』の録音が一日で仕上がっている点に着目してみると、こうも想像する事が出来ます。
当初は『プレイズ・エリントン』レコーディングの日程を合わせた三日間が『至上の愛』録音のスケジュールでした。
コルトレーンとデューク・エリントンの62年9月26日録音共演作『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』で受けたエリントンからのアドヴァイス、それまで完璧主義を貫きテイクを幾つも重ねたコルトレーンが、エリントン共演当日もワン・モア・テイクをトライしようとして、エリントンから「何故そんな必要があるんだ?」と言われます。
その一言でコルトレーンは目から鱗が落ち、ファースト・テイクの重要性に開眼するのです。
因みにコルトレーンの名演奏の一つ、59年5月録音『ジャイアント・ステップス』は演奏を重ね、テイク8に至り、やっと採用テイクが仕上がった経緯がありました。
こちらも私のイメージの世界ですが、プロデューサー、ボブ・シールがコルトレーンに、新作のレコーディングには3日間を用意してあり、マッコイ、ジミー、エルヴィンのスケジュールを既に押さえている旨を伝えたところ、コルトレーンは「新しい作品は大作になるが、我々は一日の録音で充分だ」と言い切ります。
プロデューサーとしてはせっかくキープしているリズム隊のスケジュールを活かすべく、ならば2日間マッコイをヘッドにレコーディングを企画し、仮題『至上の愛』とは全く異なるコンセプトで一枚アルバムを制作しようとしました。
シールはマッコイに以下のように提案したと想像しています。
「今度レコーディングするジョンの新作はかなり重厚なものになりそうだね。どうだいマッコイ、ユーのアルバムではジョンと全く違う方向性を目指すのは。例えばパーカッショニストを参加させる、聴き易くするために演奏時間も短く収めて誰かの曲集にする、そうだ、マッコイの大好きなデューク(エリントン)のナンバーを選ぶのが面白そうだと思うよ。コルトレーンがデュークを招いて作った作品、素晴らしい出来だったし」
実際にレーベルサイドからマッコイの作品に対するコンセプトのオファーがあったかどうかは全くの推測ですが、『プレイズ・エリントン』『至上の愛』は連続してレコーディングされた兄弟作でありながら、真逆の内容を呈します。ここにはレーベルの采配が為された形跡を感じずにはいられません。
それでは作品の内容について触れていく事にしましょう。全てエリントンのペンによるナンバーです。
1曲目デュークス・プレイスはCジャム・ブルースと言う名前の方が有名なナンバー。
本作のプロデューサーであるボブ・シールが50年代半ば、この曲に歌詞を追加しようと考え、ルース・ロバーツ、ビル・カッツのソングライター・コンビに依頼し歌詞が出来上がりました。本作1曲目の収録にはこの事が作用しているかも知れません。
Cジャム・ブルースは通常キーがCで演奏されますが、タイトルが改変されたためか、ここではキーをBフラットで演奏しています。
冒頭ベースとパーカッションによるイントロから始まります。エルヴィンのシャープなスネアロールに導かれ、マッコイによるテーマが開始されます。
ごく普通のミディアム・テンポのスイング・ナンバーですが、エルヴィンはサポートに回り、パーカッションにリズムキープを任せます。
エルヴィンのドラミング自体、一人での演奏にも関わらず複雑なポリリズムが内包されるリズムの饗宴状態、パーカッション奏者との共演は如何なるものかと危惧しますが、寧ろエルヴィンはパーカッション二人が繰り出すリズム、ビートを楽しんでいる様に感じます。
後年エルヴィンは69年7月録音『ポリー・カレンツ』、70年7月録音『コアリション』自身の2作でキューバ出身パーカッション奏者キャンディド・カメオを招き、フィーチャーしていますが、本作でのパーカッション奏者との共演が元となっていると推測します。
更に73年7月録音『ザ・プライム・エレメント』に至っては、上記キャンディドに加えリッチー・ランドラム、オマール・クレイら計3人のパーカッショニスト参加による盛宴を設けています。
ここでのエルヴィンのドラミングはパーカッション奏者達からのインスパイアもあるでしょうし、数多くの演奏経験から習得したポリリズム、溢れんばかりの誰よりも長い拍の長さ、ビート感、グルーヴ感全てが一層際立っています。
テーマ後マッコイのソロへ。美しいピアノタッチと4度のハーモニーを生かしたコードワークが印象的に響くプレイはリラックス感満載、『至上の愛』の激しく激情的なサウンドとは真逆の世界です。
短くもアルバムのコンセプトを明快に語ったテイクに仕上がりました。
マッコイの強力な左手ははっきり言ってベーシストのプレイとぶつかりますが、従順なギャリソン(フリー旋風吹き荒ぶ後期コルトレーン・バンドに最後まで温順に在団し、キャラクターとしてはリーダーに仕える執事に例えられるでしょう)は意に介さず淡々とグルーヴィーなビートを刻み、エルヴィンはパーカッショニスト達にリズムを一任しますが、ここぞと言うときのフィルインの猛攻は存在感を新たにします。
2曲目キャラヴァンはエリントンと彼の楽団のトロンボーン奏者、ファン・ティゾールの共作によるナンバー。エキゾチックなテイストから成り、8分の6拍子によるラテンとスイング・ビートが交錯するリズムにはパーカッションのサウンドが見事に合致し、パーカッショニスト参加の意義を強く感じます。
ここでもエルヴィンはラテンリズムでパーカッショニストに場を譲りますが、サビに於けるスイングでのシンバル・レガートはエルヴィンの独壇場で、ギャリソンとのコンビネーションも完璧です。
マッコイのソロが始まります。ドラムとラテンパーカションのプレイ同時進行は実にスリリング、計5人のプレイヤーによるリズムのつづれ織りは重厚にしてスピード感が半端ありません。
これは後年CTIレーベル一連の作品で聴かれたドラム、パーカッションとのフォーマットの先駆けとも言えましょう。
ソロはコンパクトに1コーラスだけ行われ直ぐにラストテーマへ、冒頭テーマと同じ構成で主題部分はリズムキープをパーカッションに任せ、エルヴィンはサビでプレイしますが、サビ後半から主題部分に入る際の、スネアとバスドラのフレーズから始まる、10小節近くかけてじわじわとクレッシェンドするフィルインのドラマチックなまでの凄まじさと言ったら!
冒頭テーマの同じ部分でのアプローチを遥かに凌ぐインパクトだけに尚更です。
ここを本作ハイライトの一つと捉えていますが、まさしくエルヴィンの面目躍如、ここぞと言うときに個性を発揮する彼ならではのプレイです。
エルヴィンは時に音数多く派手なプレイをする場合がありますが、彼の場合は全てに於いて必然ゆえの猛打、猛攻です。メリハリのはっきりとした、ダイナミックにして繊細、真に音楽的なドラマーと認識しています。
3曲目ソリチュードは本来バラードで演奏されますが、ここではミディアムアップのテンポ設定、そしてトリオでプレイされます。
マッコイはスタンダード・ナンバー化しているこの曲に新たな解釈を持ち込んだかの、速弾きを含めたテクニカルかつ唄心溢れた打鍵を行います。ウイントン・ケリー風のこぶしを感じさせるハードバップ的ニュアンスとテイスト、マッコイ流モーダルなフレージング、左手の4thインターヴァルが基本となるコードワークが三つ巴となり、独自の音楽観を呈します。
録音の関係か、ピアノのハンマーが弦を叩く際に生じる倍音成分の豊富さが、ピアノタッチを更に繊細に感じさせます。
エルヴィンは全編に渡りブラシだけを用い、ギャリソンのスインギーなベースワークに寄り添うように、時にリードしながら包容力のあるプレイを行いますが、良く聴けば実に細やかなカラーリングを行っているのが分かります。
バスドラムを用いたアクセントの付け方に、シンバルを用いない分のビート表現を見出す事が出来、トリオ演奏の音量が小さめなのでしょう、エルヴィンがプレイ中に発する声を時たま確認する事が出来ます。
4曲目サーチンは再びパーカッションが加わった演奏、コンガの2拍4拍に入るアクセントとシェイカーがリンクして、リズムの弱拍を補強しているかの如しです。
エルヴィンはパーカッショニストにキープを任せ、本人は程良きところに絶妙なフィルインを繰り出しますが、想像するに3人で分担しながらリズムを発するここでの手法を、とても楽しみながらプレイしているように感じます。
5曲目ミスター・ジェントル・アンド・ミスター・クールはピアノトリオによるテイク、ギャリソンが印象的なベース・パターンを演奏しつつ、3拍目裏の音符にドラムとピアノがユニゾンでアクセントを入れ、リズムを強調しています。
サビでは一転してベースはペダルトーンによるバックビートをプレイ、ピアノがフィルインソロを行います。主題部分に戻りその後ピアノソロが開始されます。
エルヴィンのドラミングはレイドバックしてヘヴィーさを繰り出している様に感じますが、実は大変なスピード感を伴い、推進力に満ちたドラミングに徹しています。相反する事象が同時に行われている訳です。
テーマ時に強調されたバックビートから、シャッフル風のリズムも感じる事が出来ます。
その後ベースソロへ、ストロングなピチカート・プレイは確実にして繊細さを聴かせます。若干テンポが遅くなりましたがラストテーマを迎えFineです。
6曲目サテン・ドールはエリントンの代表的ナンバー、再びパーカッションを迎えルンバ風にプレイされます。マッコイは63年3月録音リーダー3作目『バラードとブルースの夜』で既演しています。
幾分速めのテンポ設定、エルヴィンのドラムを基調としパーカッションが効果的にリズムを強調しつつ、華やかなサテン・ドールを演じています。
7曲目ジプシー・ウイズアウト・ア・ソングはパーカッション奏者不在ながら、ルンバのリズムを用い、ピアノトリオで演奏されます。
マッコイの煌びやかなピアノタッチが顕著になる、ラテン・フレーヴァー満載のテイクです。ピアノにスポットライトを当てるべく、敢えてパーカションを入れずにトリオで演奏したのでしょう、エルヴィン一人によるラテン・ビートはそれ自体魅力的ですが、パーカッション奏者達にラテンを任せ、エルヴィンはカラーリングに徹した方がより色彩豊かに仕上がったようにも感じます。