ライト・ナウ!/ジャッキー・マクリーン
アルトサックス奏者ジャッキー・マクリーン1965年1月録音作品『ライト・ナウ!』を取り上げましょう。
多作家ジャッキー・マクリーン、ブルーノート・レーベル15作目のアルバムです。
フレッシュでソリッドなアルバムの内容とリンクする、水墨画の如き秀逸かつ単刀直入なジャケット・デザインが光りますが、デザイナーは多くの名ジャケットを手掛けたブルーノート専属、リード・マイルスです。
ニューヨーク出身のマクリーンは、10代から幼馴染のケニー・ドリューやソニー・ロリンズ達と研鑽を重ねます。50年代初頭にはチャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスの寵愛を受け、演奏を共にしながら多大な影響を受けましたが、次第に独自のテイストを発揮すべく彼らの傘下から抜け出し、先鋭的なテイストでシーンを切り開きます。
1956年1月から57年8月の2年弱の間に、プレスティッジ・レーベルに9作ものリーダー作をレコーディングします。
様式美を重んじる、ある種保守的なハードバップ期ではありましたが、彼はそこから飛び出そうとするサウンドを表現し、個性的でニュアンス豊か、哀愁を感じさせるアルトサックスのトーンを携えてのプレイは、多くのオーディエンスを獲得します。
ジョン・コルトレーンともコラボレートしたチューバ奏者、レイ・ドレイパーを迎えた作品57年12月録音『ファット・ジャズ』もユニークな語り口の作品です。
プレスティッジとの契約が切れ、ブルーノート・レーベルでの作品制作が開花する直前、マイナー・レーベルのジュビリーからリリースされた形になります。
管楽器奏者3人がピアニストから提示されるA音で、各々チューニングを行ってから演奏が開始される、アルバム最後に収録されたマイルス・デイヴィス作曲のナンバー、文字通りチューン・アップの洒落たセンスには思わず笑みが溢れてしまいます。
ここでの演奏は特にマクリーンのソロがスインギーで素晴らしく、リズムセクションとの一体感を聴かせます。
そしてラストテーマ演奏後にもピアノが先導して同様にA音を鳴らし、管楽器にチューニングを求めるあたり、ネタの仕込みを感じて一層ユーモラス、低音楽器チューバの際のチューニングには1オクターヴ下のA音を鳴らす芸の細かさも披露します。
気心の知れたミュージシャン同志で演奏を心から楽しんでいるのが手に取るように伝わる、ハードバップ絶頂期ならではのテイクと感じました。
マクリーンは50年代末からコルトレーンのモーダルなサウンドや方法論、オーネット・コールマンやエリック・ドルフィーからのフリージャズの影響をプレイに取り入れ、斬新な内容の作品を世に送り出します。
ドラマー、ピート・ラロカの当時としては革新的なソロを収録した59年5月録音『ニュー・ソイル』、マクリーンの吹くアルトが醸し出す哀愁とフリーキーな咆哮が入り混じる62年3月録音『レット・フリーダム・リング』、当時17歳だったドラマー、トニー・ウィリアムスを発掘し、ボビー・ハッチャーソン、グレシャン・モンカー Ⅲ世らと斬新な演奏を繰り広げた63年4月録音名盤『ワン・ステップ・ビヨンド』、チャールス・トリヴァー、ハービー・ハンコック、セシル・マクビー、ロイ・ヘインズら当時若手の精鋭を擁した64年8月『イッツ・タイム』、尊敬の念を込めながら、メイン楽器のアルトサックスではなく、トランペット奏者(!)としてオーネット・コールマンを迎えた67年3月録音『ニュー・アンド・オールド・ゴスペル』。
マクリーンは時代の流れに即応しつつ自己変革を同時に行い、激動の60年代を真摯に乗り切った感があります。
46年12月マクリーンが15歳の時に生まれた息子リネ・マクリーン、彼はアルト、テナーサックス奏者として現在も活躍しています。
15歳の年齢の違いは親子と言えども兄弟に近い関係であったでしょう、苦悩しながら音楽を探究し、ニューヨークのジャズシーンで活動しながら進化、発展するジャッキーを目の当たりにした息子は大変父親を尊敬していると聞きました。
リネは86年に奨学金を得て日本に定住し、日本の伝統文化を研究しながら演奏活動も行います。私も彼のプレイを何度か目の当たりにした事がありますが、父親譲りのテイスティで艶やかなトーンと、知的なプレイが印象的でした。
マクリーン自身もモダンジャズ先達の寵愛を受けながらシーンに参入した経緯があり、若手育成、新人発掘に余念がありませんでした。
前出の『ワン・ステップ・ビヨンド』でのトニー・ウィリアムスに至っては録音当時僅か17歳、前人未踏のドラミング・テクニック、スピード感、カラーリングの絶妙さ、斬新な個性を携えた驚異の新人、ジャズドラムの概念を根底から覆したと言っても過言ではありません。
トニーは未成年だったので、マクリーンは彼の自宅にまで行き、両親を説得し彼をプロとして雇う事の承諾を得たそうです。
しかし手塩にかけたにも関わらず、『ワン・ステップ・ビヨンド』レコーディング直後にマイルスに認められ、トニーは彼のクインテットに引き抜かれてしまいます。
当時の慣わしとしてメジャー・ミュージシャンのバンドを掛け持ちする事は難しく、スケジュール的にも困難なため事実上専属状態になります。
トニー・ロス、革新的ドラマーと音楽を創り上げて行くマクリーンの夢は破れ、後釜探しは間違いなく難航した事でしょう、彼ほどの新感覚を有するドラマーは存在しませんでしたから。以降ロイ・ヘインズ、ビリー・ヒギンズ、ジャック・ディジョネットらを採用します。
本作『ライト・ナウ』のドラマー、クリフォード・ジャーヴィスはレコーディング時24歳でした。トニーと同じくボストンで育ち、その後バークリー音楽院で学びます。トニーほどの明確な個性はありませんが、シャープでレスポンスの良い、音楽的なプレイを聴かせています。
マクリーンとの共演は本作だけですが、フレディ・ハバード、バリー・ハリスらの作品に参加し、サン・ラ(バンドには62年から76年の長きに渡り在籍)を筆頭にフリージャズ系のミュージシャン、ファラオ・サンダース、アーチー・シェップ、アリス・コルトレーン達とも活動し、レコーディングを残しています。
そして同様に参加ピアニスト、ラリー・ウィリスは録音時23歳になったばかり、フレッシュなコード感、グルーヴィーなタイム、フレージング、バッキングのセンスを有する期待のニューカマーでした。
ニューヨークで生まれ育ち、マンハッタン音楽院で学んだ後、本作がジャズ演奏のファースト・レコーディングになりますが、脱力した演奏に余裕を感じます。
作曲の才能に天賦のものがあり、本作のみならず以降も自身の作品等で発揮する事になり、名曲を世に送り出します。
彼のプレイからはハンコックの打鍵を想起させますが、コンポーズを含め、同じくハンコックの影響を受けたピアノ、キーボード奏者ケニー・カークランドを連想させます。
ベーシストはブルーノートのハウス・ミュージシャン、ボブ・クランショウです。いかなるミュージシャンとの共演でも確実なプレイを発揮する、職人肌でハートウォームなプレイヤー、膨大なレコーディング数を誇り、本作でもリズムセクションの纏め役として、時折ラッシュするバンドプレイを的確にサポートしながらオントップにプッシュし続ける、カルテットの推進役を担っています。
収録バラードに於けるアルコでのプレイの他、曲想を理解した上での闊達なベースワークには、音楽を熟知したプレイヤーならではの深い表現を感じます。
多くのジャズミュージシャンに愛され、生涯いちベース奏者として活躍しました。
テナー・タイタン、ソニー・ロリンズのレギュラー・ベーシストとして50年近く演奏を共にした事も特筆されます。
生前リーダー作を1枚も発表しなかった点が悔やまれますが、どんなスタイルでも至極自然にプレイ出来ただけに、特に自身の音楽を発せずとも良かったのかも知れません。
クランショウとマクリーンの共演はこの作品だけの模様です。
それでは収録曲に触れていく事にしましょう。
1曲目オープニングを飾るアップテンポのナンバー、エコはマクリーンのナンバー。冒頭に相応しい印象的な楽曲です。
シンプルなメロディ一つだけがモチーフとしてプレイされ、殆どインプロヴィゼーションとインタープレイで成り立っていますが、サビの部分でグルーヴが変わるメリハリが効果的、楽曲として魅力的にサウンドします。
構成としてはA-B-C-AでBが半音上がり、サビのCが倍の16小節から成ります。
ソロの先発はマクリーン、快調にフレーズを繰り出しますが、いつもの彼のプレイに比してリズムがラッシュ気味、タイムもかなりオントップです。
とは言え斬新な音使いにはインパクトがあり、ハードバップ的なアプローチから抜け出し、新たな自分を出そうとする意欲を感じます。
クランショウのスピード感に満ちたベースワークがリズム隊を主導し、ジャーヴィスのシャープなシンバル・レガート、巧みなカラーリング、レスポンスに際するフィルインがバンドを活性化させます。リズム隊のコンビネーションは申し分ありません。
ウィリスのバッキングは距離感を保ちつつの付かず離れずと、瞬間を捉えて離さないここぞと言う時の閃きが見られ、ソロイストのイマジネーションを鼓舞します。
そのままピアノソロに続きます。脱力した打鍵には余裕を感じさせ、比較的安定したタイム感と味わいを感じさせるフレージング、ソロの構成力には今後の演奏活動への期待を持たせます。
エンディングにも唯一のメロディが用いられ、終止感を得ます。
2曲目プア・エリックはレコーディング前年の1964年6月29日、ベルリンで医療ミスにより客死したエリック・ドルフィーに捧げられた、ウィリス作のバラード。
この曲の演奏が収録された事で作品の価値が格段に向上しました。
前途洋々の天才ミュージシャンが異国の地で非業の死を遂げ、米国中のジャズマンが深い悲しみに暮れた事でしょう。その思いをウィリスが代表して書き上げたと言っても過言では無い、透徹なイメージを湛えた、オリジナリティ溢れる素晴らしい楽曲です。
ドルフィーからニュージャズ・アプローチの影響を受けていたマクリーン、彼が存命していたならばオーネットと同様に、自己の作品に客演させていたのでは、と思います。
想像するにマクリーンは彼の死を俄に受け入れる事が出来ず、生前からひょっこり何処かに行ってしまい、ふらっと戻って来るドルフィーだったので、渡欧前にレコーディングした彼の遺作『アウト・トゥ・ランチ!』のタイトル通り、単に昼休みでの不在と信じたかったでしょう。
しかしアルバムジャケットには暗示されています。ドアノブ横の窓ガラス越に見える、帰宅時間を示す時計盤の長針短針は複数(計7本)存在しながら、各々が任意の時間を指し示し、ドルフィーが二度と戻って来ない事を含意しているのです。
こちらの秀逸なジャケットデザインも、リード・マイルスが手掛けました。
曲は冒頭イントロ無しでメロディが始まります。管楽器2本によるテーマ奏をウィリスは想定して書いたナンバーなのでしょう、ホーンがアルト1本だけなのでベースのアルコにメロディ・プレイの役割が回って来ました。
若しくはウィリスが新たなサウンド表現を狙って、敢えてアルトとアルコ2声のアンサンブルを書いたのかも知れません。
両者のロングトーンによるユニゾンでメロディをプレイしますが、マクリーンのサックス演奏時によくある事象、ピッチが上擦っています。はじめにピアノのコードによるサウンド提示があったにも関わらず。
ここでは二人の間にピッチの葛藤が生じています。どうしたものかとクランショウのボウイングする手が一瞬止まり、その後マクリーンのピッチの方に歩み寄る姿勢も見せ、音程の探り合い、何とかユニゾンを成り立たせようと試みます。
続くセクションでのピチカートでビートを刻む際には、マクリーンのピッチの高さは気になりませんが、再びアルコ奏の際はマクリーン、楽曲のアタマからプレイせずに、ピッチを感じようと8分休符分休んでから、しかも上擦りし難いオクターヴ下で吹き始めます。ここでの音程感は概ね良好で、クランショウのアルコも美しくボウイングされますが、最後の方では再びマクリーンのピッチが怪しくなり、上擦り始めます。
ウィリスのアレンジの趣旨としては、アルトとベースのアルコが同じオクターヴで演奏する事によリ、音がぶつかり合った結果の緊張感あるサウンドを得ようとしたのだと思いますが、アルトがオクターヴ下では表現力は弱まります。
レコーディングなので当然リハーサルを行なったと思います。その際にピッチは問題なかったのでしょうか?いざ本番になって急にマクリーンのピッチが悪くなり、上擦ったのでしょうか?同業者として気になるところです。
率直に言って楽曲の崇高な雰囲気を壊しているかの音程の悪さですが、アルコとのユニゾンが無ければいつもの高めにピッチを取るマクリーンのプレイとして、許容される筈です。正確なピッチを提供できるテクニシャン、スタジオミュージシャンとしても仕事をこなしたクランショウとのアンサンブルのため、今回ばかりは音程問題が明るみに出ました。
こうも考える事が出来ます。穿った物の見方ですが、壮絶な死を迎えたドルフィー、本人のアグレッシヴな演奏スタイルも含め、レクイエムとしての楽曲は通常の概念でプレイ出来うる筈がなく、何処かにアヴァンギャルドな要素を提示しなければなりません。ここでは敢えて音程にその意味を持たせたのかも知れないと。
でなければここまでの演奏的な障害を持ったテイクが採用される訳が無いとも解釈しています。
あくまでリーダーはマクリーン、彼の音程感にメンバーは合わせるのが正論ですが、許容範囲を超えたピッチの悪さには対応しきれなかったと言う事です。
この点がマクリーンとクランショウがこの作品だけの共演となった理由の一つであるかもしれません。
アルトソロが始まります。個性的でエッジー、ザーッと言う付帯音を豊富に含んだ音色は比較的広めのメタル・マウスピース使用(恐らくベルグ・ラーセン)、リードも硬めであった模様です。
彼は最晩年にニューヨーク在住のマウスピース職人フィル・バロンに特注したメタルマウスピース、オープニング8☆を使用し始め音色が豊かになりますが、何とサックスのピッチまで改善され、プレイを聴いてマクリーンの影響を受けた誰か別のアルト奏者と勘違いした覚えがあります。
良し悪し関係なく、音程のルーズさがマクリーンの個性の一つでもあったのを再認識しました。
スペースを取りながら淡々とフレーズを重ねるマクリーン、ドルフィーのアプローチのようなアヴァンギャルドさを聴く事は出来ませんが、自身の方法論の範疇で彼に哀悼の意を表しており、ドルフィーの逝去を痛み、本来なら弔意を込めたプレイに徹する筈ですが、比較的ドライにプレイしているように感じます。音程問題が脳裏を過っていたために、今一つ集中力を欠いていたのかも知れません。
ウィリスのソロです。それまで比較的音無の構えであったクランショウのベースがアクティヴになり、リリカルなピアノソロに呼応するように、シンコペーションを基本にして様々な音形を提示し、ウィリスをバックアップします。
クランショウのグリッサンドを用いたアプローチに対し、ジャーヴィスがルンバのようなリズムを一瞬繰り出す場面もあり、多彩なインタープレイを交えながらラストテーマに向かいます。
ここでは冒頭テーマほどにはマクリーンのピッチが上擦るのが気になりません。
再び登場するアルコとアルトのユニゾンでは、冒頭テーマと同様に8分休符分間を置き、ベースのピッチを確認してからアルトを吹き始めます。
ラストのロングトーンはクランショウのアルコにスポットライトが当たったかの如く主旋律として響き、マクリーンのアルトがサイドに回ります。
3曲目クリステルズ・タイムもウィリス作のナンバー、パーカッシヴでリズミックなパターンをピアノトリオがプッシュします。
マクリーンの吹くテーマは幾何学的なメロディラインから成り、リズムのパターンと複雑に合わさり不可思議な世界を構築しますが、ブルースのコード進行が2コーラス続く事がクッションと成り、サウンドの難解さを上手く緩和させています。
テーマ奏後、アップテンポに対しマクリーンはスインギーにソロを展開し、引用フレーズを交えながら快調にブロウします。応えるかのようなジャーヴィスのカラーリング、ウィリスのバッキングが随所に光ります。
クランショウはメンバー全員が発する音に対し、最も良いリズムのポイントを押さえてウォーキングしています。彼のベースが無ければ演奏はスムーズに行かなかったとさえ思わせます。
ピアノソロに続きますが、ウィリスのソロも快活に行われ、バンド一丸となり楽曲に取り組む様を確認することが出来ます。
割り入るようにマクリーンが再登場します。ウィリスが構築した世界を更に盛り上げ、ドラムソロに導きます。
ここでのジャーヴィスのソロにはサムシング・ニューを表現しようとする意欲を感じさせますが、今一つ結実しておらず、青さを認めざるを得ません。今後の経験、精進により飛躍する将来性を秘めてはいますが。
ラストテーマにはブルース進行は用いられず、リズミック・パターンの上でマクリーンがプレイし、Fade outです。
パターンを交えたモーダル・サウンドと、ブルースのコード進行のナチュラルな融合に、楽曲の魅力を見出す事が出来るナンバーに仕上がりました。
4曲目タイトル曲ライト・ナウはトランペッター、チャールス・トリヴァー作曲のナンバー。トリヴァーは前出の『イッツ・タイム』ほか、マクリーンの作品の幾つかに参加し、何でも佳曲を提供しています。
モーダルなテイストを基本にコンテンポラリーかつ知的な要素を加味した楽曲、同じくトランペッター、ウディ・ショウにも通じるセンスが表出されています。
トリヴァーが率いたバンド、ミュージック・インクでの活動に彼の音楽的ポリシーがよく現れています。
楽曲は1拍半のシンコペーションが元になり、2小節8拍を細分化し3拍子を2小節、4分の2拍子を1小節とする、60年10月録音コルトレーンの『コルトレーンズ・サウンド』収録ナンバー、イクイノックスのリズム・コンセプトが用いられています。
パターンを用いたソロパートから抜け出たかのスイングのリズム部分には、ある種の安心感を覚えます。このフォームでソロが継続、展開されますが、先発のマクリーンはハイテンションをキープし、アグレッシヴな側面を提示、リズム隊を確実に巻き込みながらウィリスのソロに繋げます。
マクリーンはここでもピアノソロ後再登場し、ラストテーマ前にもうひと盛り上がりを企てます。 CD収録ボーナス・トラックのオルタネイト・テイクは本テイクの後に演奏されたのでしょう、プレイは更なるテンションの高さを示し、マクリーンのアルトはフリーキーなトーン発生にまで至っています。
こちらのテイクの方がより盛り上がり、高みに向かっていますが、冗長な側面が感じられたためにオクラ入りし、本テイクが採用されたのでしょう。
最後に本作に纏わる私の思い出話をご紹介します。学生時代アルトサックスを吹いていた頃、実はマクリーンがアイドルでした。特に本作のモーダルさとハードバピッシュが合わさったテイストが好きで、ジャズ喫茶で良くリクエストしたものです。
当時『ライト・ナウ』は廃盤で、レコードを所蔵しているジャズ喫茶は限られましたが、色々な店で鑑賞するのが好きだったので、寧ろ本作を有する店を探しました。ジャズ喫茶巡りですね。
その後CDの時代が訪れます。本作が発売され直ぐに購入しましたが、マスタリングの関係でしょう、ジャズ喫茶で散々鑑賞した音とは全く異なり、ガッカリしたのを覚えています。流布し始めた頃のCDの音質には劣悪なものが多かったですから。
その後随分経ってルディ・ヴァン・ゲルダー自身のリマスタリングCDがリリースされ、そちらの音質はかなりレコードに近かったので、ある程度納得しました。
ブルーノートのオリジナル盤レコードは高価なため買うのは諦めていましたが、たまたま比較的安価でオリジナル盤が販売されていたので即購入、やっとジャズ喫茶で聴いていた音で鑑賞する事が出来ました。レコードの音は本当に良いですね。
CDをリマスタリング含め2種、そしてオリジナル・レコードと同一作を3種類持っているのは本作だけになります。