自分史 2000/03/23〜2024/11/10
初めて自分史を書いてみました!
今後振り返れるように、AIの力も借りながら思い出深いことは全て書きだしました!
14,308文字とこれまでの人生で1番長い文章を作成しましたが、とても良い経験になりました!
【保育園編】
2度の引っ越し、とにかくみんなの輪に入りたかった
(0〜5歳)
私は2000年3月23日、神奈川県大和市の愛育病院で誕生しました。
育ちの地は大和市の隣にある神奈川県相模原市です。
家族は、母親、父親、1つ上の姉、そして私の4人家族です。
私は1歳から2歳の間、1年間「あいあい保育園」に通いましたが、この期間についての記憶は全くありません。
その後、同じ相模原に引っ越しをし、2歳から3歳の2年間は「星の子保育園」に通いました。
この時の唯一の思い出は、音楽発表会で練習した振り付けが本番でうまくできず、他の子ばかりを見てしまったことです。その帰り道、母親に厳しく叱られました。車での帰り道の光景だけは鮮明に覚えており、なぜ叱られたのか最初は理解できませんでした。しかしその時に初めて、練習したことは本番でもやらなければならないことであり、やらないと叱られるのだと学びました。
そして2度目の引っ越しをし、同じ相模原に引っ越してきた私は、4歳から5歳の2年間「ひよこ保育園」に通いました。
当時の記憶では、覚えている友達はけいすけ君1人だけ。けいすけ君についても今考えると、私がただついてまわっていただけかもしれません。私が誘われたことを覚えているわけではありませんし、一緒に遊んだこともありません。ただ単に一緒にいるだけで楽しいと感じていました。私たちは布団で秘密基地を作ったり、大縄跳びをしたり、バトル鉛筆をしたり、泥団子を作ったり、アリを食べたりして遊びました。しかし、これらの遊びは私が好きだったわけではなく、みんながやっているからやりたかったのだと思います。(泥団子とアリを食べるのは、1つ上のお姉ちゃんがやっていたので私もやりたかったの覚えています)特に、布団での基地作りは、基地ができた後は遊ぶことができず、(基地が完成した後に遊んだ記憶はありません)ただ単に頼られることが嬉しくて、私はよく基地作りに行っていました。振り返ると、他の子と比べて私の発育は遅かったため、遊んでいても必死についていくような感じがありました。
当時の口癖を母親に聞くと、「母ちゃん、母ちゃん」と母親に言って、母親と目が合うと笑って、その後は安心して遊んでいたそうです。当時を思い出すと、お迎えが来るのを待ちわびていたという感覚があります。おそらく保育園での居場所がなかったんだろうと思います。それで母親が迎えに来てくれるのがとても嬉しかったのだと思います。今でも一人で帰るよりも誰かと一緒に帰りたいと思ったり、大勢で遊びに行く時も一人で集合場所に向かうことができるのに、誰かと一緒に行くことが多いのは、この時の影響を受けたからかもしれません。
さらに、当時の自分がどんな行動を取っていたのか母親に聞いたところ、母親は色々と教えなくても、私が1つ上の姉を見てまねして、色々なことを覚えていったと言っていました。今の仕事でも私が他の人を真似することが得意なのは、この時から来ているのかもしれません。
【小学生編】
サッカー小僧になる。
サッカーを通して友達ができたが、同時に挫折も味わう。
(6〜12歳)
私は小学1年生の頃、母から漢字ノートを毎日1ページ書くように言われる生活を送っていました。これは学校の宿題ではなく、母の独自の課題でした。遊ぶ前には必ず漢字ノートを1ページ書くという制約がありました。
漢字ノートを学校に何回か忘れることがあったのですが、母親に怒られ自分で取りに帰らなければならず、職員室に行くことも怖かったため、渡り廊下から教室に忍び込んで回収していました。漢字ノートを回収できないと母から怒られます。しかし職員室に入ることも怖かったですし、放課後の見回りの守衛さんに見つかるのも避けたかったのです。誰からも叱られたくない気持ちの中、かくれんぼをしながら必死に漢字ノートを回収していました。
そんな時、帰りの会になってもその日の漢字ノートが返ってこなかったた時がありました。漢字ノートを返して欲しくて私は担任の先生を泥棒呼ばわりしてしまいました。それが人生で初めてみんなから笑いをとった瞬間でしたが、その後大好きな先生には厳しく叱られました。ただ嘘をつくくらい当時の考え事の半分は漢字ノートに占有されていました。
当時は漢字ノートをやる意味が分からなかったけれど、母から怒られるのを避けるために漢字ノートを書いていました。しかし、漢字を書くことの目的は1ページを埋めることだけだったため、必然的に少ない文字数のものばかり書いていました。結果、本番の漢字テストではあまり良い成績を残せませんでした。
この漢字ノートの影響か、無駄なことをしたくないという思いが強くなりました。今の仕事でも、施策の意図や仕組みの目的を自身が納得するために、マネージャーや事業部長でも背景説明を求めています。また若いうちの意思決定をより良いものにするために、ファイナンスや健康を引き換えに、知識と経験に全て捧げている自信があります。
さらに、私にとって最もストレスのかかる言葉は「早くして」という言葉でした。これは、全ての文脈でストレスを感じるわけではなく、やる意味が分からないことや、やりたくないけどやらなければならないことに対して強烈なストレスを感じます。ちなみに現在は、コーチングセッションを通じて、その言葉を自己肯定感を高めるための言葉に変えることが出来ました。
また、小学1年生の頃は背が1番小さく、背の順で行う前に習えの姿勢がみんなと違うのがとても嫌でした。注意されても上手くバレないようにだらけた姿勢をしていました。
小学校2年生の時、背の順を決める際に、背伸びをして1番にならないようにしました。(前に習えのポーズが本当に嫌だった)
アサヌマ君と仲が良くなりたかったので、彼がサッカーをしていたので私もサッカーを始めました。
ただし、試合に出ることはできず、後から始めた子が私よりも試合の出場時間が長かったため、母親から叱られたことを覚えています。試合に出られないのであれば、チームを変えた方がいいと言われましたが、仲の良いみんなと離れるのは嫌でしたので、必死に練習することにしました。
たまに出た試合では点を取られるといつもキーパーのせいにして試合中に喧嘩をして交代させられてました。
学校ではクラスにいるお金持ちの子が人気でなんでもおもちゃを持っていました。僕がうるさいのもあってその子に目をつけられました。移動クラスなどでもなぜかみんなから避けられてしまいました。みんな彼の言いなりになっていました。みんなと遊んでいるのにその子が私の悪口を言うとみんなも同調するのです。2年生の間はそんな生活を過ごしました。
小学校3年生の夏休みには、母親に連れ出されて毎朝リフティングを始めました。さらに、別のサッカースクールにも通うようになりました。そのおかげで、チームで1番リフティングがうまくなり、チームで一番テクニックのある選手になることができました。
この時からレギュラーの座を掴むようになり、母親からチーム脱退の話はなくなりました。
学校ではやたら姿勢を褒められる子がいました。当時私も褒められたかったので背筋を伸ばして座っていましたが、長時間同じ姿勢を取ることができず油断していると、また彼が褒められていました。何度も横目で羨ましかったのを覚えています。
小学校4年生の時、私はチームで1番上手いと思っていましたが、地域の選抜に落選しました。そして、私のチームからは2人、身長の高い選手が選ばれました。
当時は、自分よりも身長が高いだけで下手なのにと思っていましたが、今考えると、実力に差はそこまでないのであれば身長が高い人が選ばれるのは当然だと理解しました。
ただ、この経験が私の人生で初めての挫折でした。私はチーム内で一番努力をしていると自負していたのですが、結果に反映されないこともあると学びました。
さらに、これを機に勝ちたいと強く思い、通っていたサッカースクールの数を増やしました。(平日の夜に2つのサッカースクールに通い、土日は地域のサッカークラブに所属し、サッカー漬けの日々を送っていました。)
この時から、英語と算数の塾にも通っていましたが、サッカーとは関係ないと感じていたため、塾に行くふりをして近くのTSUTAYAで時間を潰していました。ただし、算数の授業は学校で活躍できるため楽しく受けることができました。英語は当時の小学校では月に1回程度しか授業がなかったため、受ける意味がないと感じていましたし、不規則動詞をひたすら復唱するのがとても嫌でした。
算数の先生は東大出身で、東大に進むよりもサッカー選手になる方が断然難しいと言っていましたが、「大丈夫です!僕はサッカー選手になるので」と答え、ほぼ確実にサッカー選手の夢が叶うと考えていました。
この時、流行ったおもちゃでベイブレードというおもちゃがありました。どうしても買って欲しくて、親にどれだけ面白くて飽きずにやり続けられる自信があるかをプレゼンをしたのを覚えています。費用も掃除や食器洗いを手伝い、金額も都度親に交渉して、最終的に1300円稼いで買ったのを覚えています。
小学校5年生の時、サッカースクールで上手い人だけが参加できるスペシャルクラスの試験に合格しました。
試験内容はリフティングや基礎的な技術が中心であり、以前のリフティングの努力が報われた瞬間でした。
そして、このスペシャルクラスには地域の選抜に集まるような優れた選手たちしかいなかったため、非常に誇りに思いました。
この時、学校のクラスメートたちと一緒に放課後にサッカーをしていた4人の子供たちをサッカークラブに入団させることができました。この時は、「なんでみんなサッカー選手を目指さないの?」と本気で思っており誘うのが簡単だったのを覚えています。「サッカー選手になったらカルピスのプールに入れてあげる」となった時の想像話も周りに言っていました。
さらに、フィールドプレイヤーを希望していた背の高い子に、チーム内でキーパーが1人しかいなかったこともあり、キーパーに彼がどれだけ適正があって試合に出れるチャンスがあるかを練習や話し合いを通して納得してもらい、結果、キーパーとして入団してもらいました。
小学校6年生の時、人生2度目の挫折が訪れました。
サッカーチームの先輩が所属しているクラブチームの試験に落選しました。
この時も背の高く足の速い子供たちだけが受かっていました。4年生の時よりも、ほとんどの時間をサッカーに費やし努力していたため、身体能力に関して非常にコンプレックスを感じるようになりました。
学校では、人生で初めての告白をしました。
方法は、ラブレターです。はっきりした内容はもう覚えてないですが、解答がYesであれば自分の下駄箱に入れ返して欲しいという内容でした。
告白当日、彼女が休みなのを確認し前日の放課後にセッティングしました。
すると翌日彼女は回答し忘れてると勘違いをしていて、私に何回か話しかけようとしてくれましたが、私は恥ずかしすぎて無視をし続けてしまいました。そのまま自然消滅しました。変な告白の仕方を周りに広めない良い子で本当に良かったと安心してます。
後日談で成人式でその子と話す機会があり、聞いたところあちらもとてもモヤモヤしていたそうです。あれはなんだったのかと。ただお互いにあの時の話を出来てとても安心したのを覚えています。
【中学生編】
サッカー小僧が本気でサッカー日本代表を目指す。
(13〜15歳)
中学1年生の時、私は落ちたクラブチームにいる先輩に憧れ、彼がクラブチームと陸上部の両方に所属していたため、自分もクラブチームとサッカー部の両方に所属することを決めました。
毎朝、サッカー部の練習に参加し、放課後はクラブチームでサッカーをし、どちらかが休みの日には参加できる方の練習や試合に参加し、サッカー漬けの毎日を送っていました。
しかし、サッカー部では同学年の選手たちによる中途半端に所属している私への扱いが良くなく、クラブチームでは試合に出場する機会が少なかったです。約5年ぶりに試合に出れない日々が続きました。
私たちの中学校は、4つの小学校が集まっている中学校であり、おそらく私たちの小学校の下ネタの文化が進んでいなかったため、中学校に入って友達に聞いたり情報を集めるなどして、そのような話題についていくように努めた記憶があります。
中学2年生の時、私はブラジルのサッカー選手であるネイマール選手のプレーを見て、彼の足技を学び、急速に成長しました。
ただし、この時、クラブチームの監督に練習中に「身長なし、スピードなし、キック力なし」と言われ、身体のコンプレックスがさらに強くなりました。
しかし、その時テレビで見たワールドカップの試合で、誰もが本田圭佑選手が真ん中にキックすることを読んでいたが、本田選手は自身の信念を曲げずに真ん中にPKを決め、鳥肌を立ったのを覚えています。
国を背負った試合で、こんなにも勇気ある行動が出来るのかと。私もこんな選手になりたい。
その時私は本気で日本代表になりたいという決意をしました。
学校生活では、髪にワックスをつけ始めました。数学の授業中には、いつも先生に髪をぐちゃぐちゃにされるという苦労もありましたが、誰にも迷惑をかけず、かっこいいと思ったからワックスを使っているのに、なぜ注意されなければならないのか、ずっと疑問に思っていました。
そのため、毎日ワックスをつけて数学の先生と戦っていました。
また、私はテストやノートの提出などでほぼ満点の成績を残していながら、5段階で5の評価を受けることなく、非常にストレスを感じていました。
中学3年生の時、私はまだ試合に出ていないベンチの選手でした。ただ日々の練習の成果もあり、レギュラーの選手と比べても実力がさほど変わらないまで成長しました。
チームも非常に実力のあるチームであり、関東大会にも出場したため、ベンチでも自信を持っていました。
Jリーグの下部組織のクラブチームの試験を3つ受けましたが、どこも受かりませんでした。
ただ、その時のインターハイで私が所属していた神奈川県から全国大会に出場していた2つのチームの選考は合格しました。
中学1年生の時には明らかな差があったチームメイトが不合格になり、私だけが合格していたことから、努力すれば報われるということを強く感じました。
そして、全国大会の出場回数やサッカーのプレースタイルを考えた結果、私は麻布大学附属高等学校に進学することを決めました。私立学校であったため、親に意思決定の背景を説明し、進学を決めました。
この時、初めて彼女ができたのですが、自分がサッカーに集中したいというわがままな理由で別れました。話し合いもせず相手の気持ちも考えず一方的に別れを告げました。
学校では、社会の成績に納得がいかず、本来は最低でも4を貰える成績を残しているにも関わらず評価が3で放課後先生に説明を求めにいきました。正当な理由もなく納得はいきませんでしたが、もう変更できないことから諦めたのを覚えています。
【高校生編】
朝から夜までサッカー漬けの毎日を過ごす。
(16〜18歳)
私は高校1年生の時、サッカー部の先輩にツーブロックは許されないと言われていました。しかし、学校の髪型検査では耳にかかっているのもダメだったので、ダメな理由が分からず無視してツーブロックをしていました。
友達の誕生日を顔面シュークリームでお祝いをしましたが、それが先生にバレてしまい、1週間部活動が停止になりました。その結果、私は「シュークリーマー」というあだ名をつけられることになりました。
さらに、部活停止期間中、毎日死ぬほどきつい罰走メニューの遂行と学校の廊下掃除もしました。
なぜあれほど走らされ、掃除をさせられたのかは未だに謎です。
怒られる際には、サッカー部の監督に「クソガキゴラァ」と蹴られかかる一歩手前まで寸止めされました。
サッカーに関しては、最初から上のチームに呼ばれていましたが、1年生ではスタメンではありませんでした。しかし、順調な滑り出しをしていました。
学業に関しては、テスト前には最低限の勉強だけをして、授業時間は休憩時間として体を休めていました。
担任の先生との進路相談でも、有名な大学に入るべきだと言われましたが、私はサッカー選手になるつもりだったので、それは必要ないと思い、耳を貸しませんでした。当時なぜあの人は有名な大学に行ったことを誇っているのか、本当に不思議でした。
私は高校2年生の時、彼女が欲しくて、学年で可愛いと言われている女の子全員(4人)にアタックしましたが、うまくいきませんでした。
その時、ベスト6位くらいの女の子と親しくなり、付き合いました。
サッカーでは、ネイマール選手のドリブルに憧れていましたが、高校2年生になってやっと、同じドリブルでは相手を抜くことができないことに気付きました。
そこで、私は自分自身が考案した絶対に相手を抜けるドリブルを開発しました(新ドリブルと名付けました)。
私はフィジカルがなかったため、相手に触れられる間合いに入るとボールを失い、スピードもなかったので相手が停止していない限り抜くことができませんでした。
そのため、私はトップスピードで相手にドリブルを仕掛けにいき、その後、相手に触られる間合い(歩幅3歩分)のギリギリのタイミングで右または左にドリブルで方向転換するとどんな相手も抜けることが分かりました。
朝と夜にはその新ドリブルを繰り返し練習し、体に染み付くまで取り組みました。
当時、日本代表だった柴崎岳選手が高校時代には4時30分に起床していたと聞き、私も同じ時間に起きて練習しました。大事な試合前には2時間のストレッチとイメージトレーニングをお風呂で行いました。今当時を振り返っても、あれだけ何かに全てを懸けた体験はもう無いんじゃないかと思うくらい全てをサッカーに捧げました。
私は高校3年生の時、試合には出場する機会がありましたが、引退試合ではベンチ外でした。
実績も試合にも出場していなかったため、関東1部リーグに所属している大学のサッカー部の選抜試験に応募する資格(全国大会出場)を満たしていませんでした。
そのため、受験すらできませんでした。しかし、関東2部の強豪校は受けることができたため、挑戦することにしました。
その際、私は自分の強みを考え抜き、ドリブルではこの先通用しないと判断しました。
代わりに私がこれなら誰にも負けないと思っていたのは、仲間とのコンビネーション技術でした。具体的には、ワンツーと3人目の動きでした(説明は省略します)。
その一点に絞って徹底的に取り組み、関東2部のサッカー部選抜試験に合格しました。この時、高校のサッカー部で試合に出場していた人々は合格できず、私だけが合格したことから、私の努力は無駄ではなかったと感じました。
大学選択の際も、自身のプレースタイルに合うパスサッカーの大学に進学するため、私は産業能率大学に進学しました。
【大学生編】
サッカー選手を諦め、サッカー以外の世界を知る。
(19〜22歳)
私は大学1年生の頃、人生で最も大きな挫折を経験しました。
初めてサッカーで捻挫をし、その結果、3ヶ月近くもサッカーができない状況になりました。それと同時に、高校2年生から付き合っていた彼女とも別れました。
サッカーと恋愛の両方を同時に失ったことで、全てのやる気をなくしたのを覚えています。
また、食事が2〜3ヶ月間味がしなくなるほど心の底から落ち込みました。
しかし、中学からの親友に救って貰いました。日頃金欠で何も奢らない彼ですが、コーンスープを奢ってくれました。友達のありがたみを強く感じました。それから今でも、友達がいる限りどんな困難でも乗り越えられると心底思っています。
サッカー部の練習は基本的に朝練のみで、4時30分に起きて始発に乗り、朝練に向かっていました。中学校、高校と入学時に同期から調子乗っているというので目をつけられていたので、大学では慎重にいこうと思っていたのですが何故か目をつけられてしましました。当時を振り返ると、勝負の世界なのでどんな人にも勝ちたいという思いから常にピリピリしていたのだと思います。
同期は意外とサッカー選手になれないと思っている選手が多く、近くにドリームキラーがいる経験を初めてしました。
大学2年生になると、大学からプロのサッカー選手が輩出されていくのを見て、ほとんどの選手がJFLやJ3に進むことができる程度で、J2の選手にすらなることはほとんどありませんでした。
そこでプロサッカー選手になっても十分に稼げない現実を目の当たりにしました。
サッカー選手になるのであれば、J2の選手以上になる。それ以外であれば諦めると口にしていました。
あれだけ目指していたサッカー選手を、下のリーグだと稼げないし、影響力を持てないと思い諦めたのです。私は恐らくサッカー選手になりたかったというよりも、日本代表でテレビに映る選手になりたかっただけなのだと思います。
また、たとえサッカー選手になれなくても、就職活動は成功させたいと考え、営業の長期インターンに飛び込みました。
そこは完全成果報酬型のフルコミッションの会社で、toC向けのWi-Fi販売の電話営業の仕事でした。
最初は成果を上げられなかったため、稼働時間は140時間に対して月給6万円と時給約400円の仕事でした。
しかしその環境はサッカーの世界とは全く異なり、今まで会ったことの無い高学歴の大学生が集まる場で新鮮でした。初めてサッカー以外の様々な考えに触れる機会を得ました。
今でも影響を受けているのは、当時の上司の価値観です。彼は当時25歳で、一日に数冊の本を読み、学んだことを毎週火曜日に2時間の無料で研修を行ってくれました。もちろん、彼は仕事の成果も圧倒的でした。
彼は高卒でその会社に入り、そこから3つの事業部を統括する立場にまで上り詰めました。彼を通じて、初めてサッカー選手以外の人物に尊敬の念を抱くようになりました。
当時の私の生活は、サッカー部の朝練のために4時30分起きて、午前の講義だけ自分で受け、午後は友人に代わってクラスを出席してもらい、午後の14時頃からインターンに出勤していました。帰宅時間は終電で、その時の睡眠時間はわずか3時間でした。授業中や電車の移動中に睡眠時間を確保するよう努めていました。
しかし、結果を出すためには自己研鑽が必要であり、睡眠不足の中でもロープレやマニュアルの暗記に取り組みました。3ヶ月目からは成果も出るようになり、初めて月収20万円以上を稼ぐことができるようになりました。
その瞬間に、サッカーに費やしていた努力と成果の関係よりも、営業の方が簡単であることに気付き、サッカーの努力をすべて仕事に注ぐことにしました。
その後、私は成果を上げ続け、リーダーに昇格しました。メンバーの育成もし、最大で8人のマネジメントを行うようになりました。リーダーになってからは、目標達成能力が会社の誰よりも優れていることを感じました。
営業の生産性を示す成果の中でも、リーダーをやりながら私は200人の中でトップ3の成果を残しました。
このインターンを通じて私は自分次第でどんな結果でも得ることができる。また目標の未達は存在意義がないことを意味すると痛感しました。このインターンの経験は、私の人生に最も大きな影響を与えた経験だと感じています。
大学3年生になり就職活動が始まりました。私は、完全に天狗になっていました。「どの企業も必ず採用してくれる」という考えを持ち、さまざまな企業に応募しましたが、全て落選してしまいました。
特に印象深いのは、学生とOBを結びつけるサービスである「マッチャー」を利用していた際に、コンサルティング会社からオファーがありましたが、フォーム入力後わずか2秒で不合格となりました。おそらく、学歴フィルターが適用されたのだと思われます。
しかしながら、私の自信が揺るがされることはありませんでした。
当時、書籍「メモの魔力」を執筆した前田祐二さんへの憧れがあり、オフィスに突撃することを思い立ちました。書類選考では落選することを予測し、アポなしの訪問を試みました。
もちろん、オフィスに入るためには鍵が必要であり、入室できなかったのですが、清掃員が入るタイミングに紛れ込むことに成功しました。
エレベーターの中、心臓はどきどきしていましたが、扉が開いた瞬間コロナ禍によりオフィスの扉は閉まっており、とてつもなく安心しました。
その帰り道、渋谷の道玄坂から渋谷駅に向かう途中でスクランブルスクエアを見つけました。そして、ここで働きたいと思いサイバーエージェントに応募しました。
しかしここでも、サマーインターンのグループディスカッションで落選してしまいました。
ここで、一度しっかりと就職活動の方針を考えることにしました。
当時の私の頭で真剣に考えた結果、インターンで憧れの上司が3つの事業部、マネジメント人数が100人程抱えて仕事していたことを一つの目標として、私も100人の組織を持ちたいと思い、それを就職活動の軸としました。スクランブルスクエアにオフィスを構える「レバレジーズ」との選考が進み、事業フェーズを含めて一番就職活動の軸に合った企業だと感じ、入社を決断しました。
私のインターン先の先輩たちは外資系企業や大手企業に進む中、私はかなり悩みましたが、自身の目標を諦めて他人の目を気にした選択は出来ないと思いレバレジーズへの入社を決心をしました。
当時、就職活動やインターンシップ、またコロナ禍によりサッカー部の活動が休止となるなど、サッカー部の活動は余り行えませんでした。
しかし、大学3年生の終わりに、大学生活最後の1年で出来ることを全うしたいという思いから、親の反対を押し切りサッカー部を辞める選択をしました。
大学4年生になり、インターンで得た収入も豊富だったため、自分のやりたいことリストをいくつか叶えていきました。バンジージャンプやヘリコプター、高級な寿司や焼肉など、様々な体験をしました。
また、インターンシップも今しかできないと考え、レバレジーズのどの部署に配属されても成果を出せるようにするため、toCとtoBの営業、電話営業と訪問営業、無形商材と有形商材、全ての営業経験をインターンシップや業務委託を通じて経験しました。
さらには、周囲はコロナ禍で危険だと反対しましたが、私は単身でニューヨークに乗り込みました。この時、コロナ禍により高額な費用がかかりましたが後悔したくないという思いからニューヨークに行きました。
そこでは赤信号を守らない歩行者やハーレー地域での薬物取引、夜中の地下鉄で不審者に追いかけられるなど、さまざまな経験をすることができました。
色々な経験にお金を使いすぎてしまい、入社までの一人暮らしの費用を考えていなかったため、ビジネスホテルであるリブマックスに1ヶ月半住み込みで、金銭面に困っている友人と一緒に住み込みでアルバイトをしました。経済的に苦しい状況だったため、節約食で過ごし、食費は月に2万あれば生活できることを体験出来ました。
【レバレジーズ編】
圧倒的な結果と行動で自分に自信が持てるようになる
(23〜25歳現在)
新卒1年目、まずは最速でリーダーになることが目標でした。入社後の研修期間で、同事業部の新卒20人の中で最も優れた成果を残す事が出来ました。
その後も、現場配属されてから事業部で2年出ていなかった単月1000万の売り上げを達成しました。さらに10〜12月のクォーター期間中には、3ヶ月で2500万円という、過去最高の売上を残しました(現在も更新されていません)。
結果を残すも、自身が何も成長していないことに気付きました。成長を最大化するためには、経験を積む必要があることを認識し、経験を妨げる断りを排除するために、「イエスマン」の生活を2023年に試みることを決断しました。
最初に「ゴールB」というコーチングに出会い、40万円支払いました(今まででは絶対に支払わなかった金額です)。
また、エニタイムのジムにも入会しました。
新卒2年目の「イエスマン」生活中、4月には事業部の歴代最速でリーダーに昇進し、6月には月間売上高1290万円という過去最高の記録更新を果たしました(こちらも現在も更新されていません)。クォーターと単月売上高の両方の記録を持っており、個人営業のやる気が完全に失われました。
ゴールBのコーチングによる2日間のワークを通じて、自身が常に他人と会話している際に、自分自身との優劣を判断していたことに気付きました。
自分よりも下だと思う人を馬鹿にし、上だと思う人には好意的な態度を示し、圧倒的に上だと思う人に対しては逆に悪口を言うなど、人によって態度を変える醜い人間だと認識しました。
2023年6月16日からは、どの人に対しても対等な態度で接することを決め、今でも意識して実践しています。
私にとってこのような気付きができる良い機会だったため、会社で関わりのあった3人の先輩社員を説得してコーチングを受けてもらうことにしました。その中の1人はマネージャーであり、池袋駅前改札で30分話し合いの末にコーチングを受けてもらうことになりました。
また、2日間同じグループワークを行ったメンバーが大阪で飲み会を開くと聞き、 「イエスマン」な私は即座に参加することにしました。
そしてゴールBのコーチングも終了し、次のコーチングとして、リクルートで働きながら副業としてコーチングをしている方からコーチングを受け始めました。
さらに、グロービスの単科生にも入学し、積極的に学ぶ機会を得ました。
そこでは、社外で働いている人々との能力の差を全く感じませんでした。
さまざまな交流会やイベントに参加している中で、起業家マルチに引っかかりました。本物の起業家が関与しているため見分けが最初はつかなかったです。
その時の教訓で、「人生変えたかったら住む場所を変えろ」というアドバイスを受け、埼玉県の大宮駅から東京都港区の田町駅へ引っ越しました。
自身の営業力を活かして友人を何人か勧誘しましたが、入会直前にマルチ商法だと気付いて助かりました。
この期間中に立てた目標で、自信と知識を身に付けるために、1年間毎日1冊の本を読むという目標を2023年9月1日から1月15日までの約140日間、必ず実行しました。
辞めた理由は、自信が圧倒的についたことと、情報のインプット量があまりにも多すぎて、アウトプットが追いついていないためでした。どんなに眠い時でも本を必ず読むと決めて達成し続けた結果、極度の睡眠不足になりました。何かを成す時には健康でないと出来ないと気づけた良い機会になりました。そして、毎日の積み重ねがこんなにも大きくなるとも実感しました。
この生活の最中10月にある会社の全社総会で、2000人中でベストセールス賞を受賞しました。
2年目の終わりである、1月から3月までの3ヶ月間、起業のために株式会社リードイノベーションの礒谷社長からコーチングとティーチングを受けました。この期間に独立の為のステップや問題解決の思考法を学びました。
ただ、やらない理由ばかり出して独立するまでには至らなかったです。
その時礒谷さんに言われたことが今でも心に残っています。「今井は成功したんだね」と。
今まで成功を目指すのは当たり前だと思って生きてきた私にとっては、無意識で常に成功したいという想いがあるのをそれまでは気付いていなかった為とても心に残りました。
2月には、異動の打診がありました。その中でも、札幌支店が最も推薦されました。札幌支店は新卒比率が50%もあり、かつリーダーも不足していました。しかも単価も低く、成果を上げるのは難しい環境でした。
今までは自身の成果や成長の為だけにしていた意思決定を、事業の為にと変更し、しかも札幌まで行けば強制的に事業の為に働くだろうと見込んで、7月から札幌への異動を決めました。
新卒3年目になった私は、5月に株式会社mindsetのコーチングと出会い、1日の体験ワークショップに参加しました。
そこで、論理的なコーチングに触れ、衝撃を受けました。
ワークで気づけた私の強みである「人をその気にさせる」を生かし、仕事のチーム運営に取り入れました。
例えば、毎週月曜日と金曜日にチームミーティングを行い、チームの意識統一を図っています。この取り組みは5月から現在まで継続していてかつ結果も出ています。身をもって強みを生かして仕事をするとここまで結果が伸びるのかと驚いています。
その日のmindsetのワークショップを終えた後、スタートアップ企業で役員を務める元NIKEのマーケターである大村さん(ひろきさん)にコーチングをお願いしました。
私が受けたコーチングの中でも最もマインドが変わりました。
今までの自分では絶対にやっていなかったであろう、ゴールを立てました。
それは「M-1に出場する」です。色々紆余曲折をしてこのゴール設定になりました。お笑いは大好きでしたが、こんなことをしたら周りからバカにされるんじゃないかと、とても不安になったのを今でも覚えています。
何度もやらない理由を見つけては、自分に言い聞かせていました。やらない方やらない方へと言い訳ばかり上手くなっていたのを覚えています。(これがクリエイティブアボイダンスかと)
まず自分の頭だけでは全く想像がつかなかったので、仲間を誘いました。そしたら、その仲間がなんと、周りに言いふらすのです。言ったことによってやらなければいけない状況になり、期日ギリギリに郵便局に行きエントリーを成功しました。(人にゴールを伝えた瞬間にhave toになる感覚を体験しました)
結果、そこから漫才のネタ作りなどを同僚やテレビ局で働いている人などに教えてもらい、見事出場を果たすことが出来ました。
初めてコーチングをして貰って、現実が変わった経験をしました。
今まで3回のコーチングでなんとなくな取れ高を理解していたつもりでしたが、全く違う変化量がありひろきさんには感謝してもしきれないです。
この経験から、これからの人生何を目指しても自分なら実現出来ると圧倒的な自信を手に入れることが出来ました。
そして現在、このmindsetコーチングの11期生として奮闘中です。
半年間の全てが終わってからこの続きは発信出来ればと思いますが、スタートから結構な地獄を味わっています。本当に辛いです。
ただ伸びしろしかないので、最後までやり切りこっからの人生をぶち上げていきます!
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