【更新版】 死ぬということ
僕の両親は二人ともガンで亡くなりました。
父は十五年くらい前、母は五年くらい前かなあ。命日も覚えていないんだからヒドイと言えばヒドイ。
でも、僕の中で死なんてそんなもんです。
今までいた人がある日突然居なくなる。
ただ、それだけ。
極論すると海外駐在になって会えなくなったのとそう変わらない。
ま、電話で話せるかどうかくらいの違いはあるけれど。
人生でただ唯一絶対に確実なのは「あなたはいつかは必ず死にます」ということを自覚したのはいつからなんだろう?
子供の時は死ぬのが本当に怖かった。
そりゃ今でも怖いけどさ、死よりはそれに伴う苦痛の方が怖い。
どうせ死ぬならぽっくり死んじゃう方がいいなあ、しかし人間はともかく残された猫たちはちょっとかわいそうかもなあ……
なんて不穏な事を考えながら電車に乗ってインターネットを見ていたら、とっても良い記事を見つけました。
その記事をお書きになった方ははどうやらお医者様みたいで、昔は脳の研究をしていたようです。どおりで医療関係に造詣が深い訳だ。それにどうやら終末医療にも関わっていたみたいで、書いてあることがいちいち深い。
たとえば、
『人は最期にその人の人生の総決算を行うので、一生懸命生きた人は本当に清々しい最期を迎えられます。真面目に生きようと教えられる瞬間です。
一方、最期までバタバタの人もいます。死にたくないと足掻く人、家族が慌てふためき、本人の意思が無視される人 等々本当に様々ですが、このような場面では疲労感を強く感じることが多くありました』
これを読んで、僕は改めて父と母が亡くなった時の事を思い出しました。
僕の父の場合は正直言ってバタバタでした。
父の病気は「多発性骨髄腫」という比較的珍しいガンで、日本での発症率は人口十万人あたり約5人、死亡者数は年間四千人前後なんだそう。
そして有望な治療法はいまだに発見されていなくって、発症したらほぼ確実に5年以内に死亡するというとても怖い病気です(現に父も3年くらいで亡くなりました)。
この病気、実にいやらしい病気で骨がだんだん溶けていく。パンチングというのですが、レントゲンを撮るとまるでパンチで打ち抜いたように全身に穴が開いたような画像になります。この部分の骨が溶けている訳。
溶けた骨がどうなるかというと、カルシウムとして血に溶け込んでいきます。結果として高カルシウム血症を起こすのですが、症状が進むと錯乱、情動障害、せん妄、幻覚、昏睡を伴う脳の機能障害が起こります。
父の場合もそうで、最初のうちは不機嫌な人になっただけでしたけど、だんだん症状が進むうちに錯乱症状も現れるようになりました。
亡くなる直前はもう完全に錯乱状態で、白衣を着た(I C Uに入っていたので面会するときは白衣を着ないといけない)僕に縋り付いて
「先生お願いです、助けてください」
と言う始末。
見苦しいとは思いませんでしたが、僕のことすら認識できなくなってしまった事はとても悲しかった事を覚えています。
一方の母は年に一回の健康診断をサボっていた事が原因で子宮頸がんの発見が遅れ、手遅れになって亡くなりました。
こっちはのんびりした人だったおかげで、最後の最後まで事態の深刻さが理解できず、「なんでこんなことになっちゃったのかしら」って啜り泣いていた事だけを覚えています。
こんな感じだったから、母の場合はあんまりバタバタじゃなかったけど、でもやっぱり清々しい死だったとは思わない、かな? こんな事を言ったらきっと怒るだろうけど、最後までかなり生き意地汚かったように思います。
ついでに言うと、二人とも治療費は莫大でした。足掻けばあがくほどお金がかかる。結局それぞれ二千万円くらいは使っているんじゃないかなあ。
もちろん治療は入院です。全身管だらけになって、最後は痛み止めのモルヒネや意識をトバしてしまう薬を使ってできるかぎり苦しまないようにしましたが、それでも決して幸せな最期ではなかったと思います。
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じゃあ、「一生懸命生きる」ってどういう事なんでしょうか?
この記事を読んでから、僕は思わず考え込んでしまいました。
父は生命保険の営業として頑張って働いていたし、母も変わった人ではあったけど、ちゃんと真面目に生きていたと思います。
でも、そういうことと「一生懸命生きる」って事っておそらく次元が違いますね。
これは完全に私見だし、もちろん同意も求めないけど、「一生懸命生きる」というのは「常に死を意識しながら生きる」ことなんじゃないでしょうか?
先の記事をお書きになったお医者様は以下のようにお書きになっています。
『そのような経験から、果たして「生きる」とは、「死ぬ」とは何かを考える機会は多くなります。誰でももっと真面目に考える必要がありますが、(ほぼ百%嘘をまき散らすマスコミのおかげで)みんな人任せになってしまっている気がします。まさか自分の人生までもアウトソーシングするようなことがスタンダードになってしまうとは、本当に悲しいとしか言いようがありません。』
常に死を意識して生きる。
これこそが一生懸命生きるという意味なのかも知れません。
……そこまで考えた時、僕が思い出したのは某北欧系携帯電話会社で一緒だった友人のことでした。
彼の両親は早くにガンで亡くなっていて、一族郎党みんなガンでなくなったというガン家系の人でした。だからなのでしょう。彼はどうやら自分が長くは生きられないと早くから覚悟を決めていたように思います。
彼は四十過ぎで早々にリタイヤして、奥さんと静岡の函南の山奥に小さなおうちを買ってつましく暮らしていました。買ったおうちは古いおうちだったのでメンテナンスは全部自分。壁にペンキを塗ったり、床下に潜り込んで配管を直したり、そんな生活をしていたようです。
すぐに娘が生まれたのですが、娘の面倒も彼が主導権を握って一生懸命やっていたようです。食卓で勉強を教え、家事や掃除も子供と一緒。娘と一緒に床下に潜ったり、壁を塗ったりしている写真は本当に楽しそうでした。
彼は五年ほど前に肺ガンで亡くなりました。
でも彼は全ての治療を拒否して、最後まで自分のおうちに住むという選択をしました。流石に痛み止めは使ったようですが、入院治療は「お金の無駄」と言い切って最期まで家族と一緒に普通の生活をしていたみたい。
実は亡くなる1ヶ月前位に電話で偶然話したのですが、「肺が原発で、今は脳にも来てるみたい」って冷静に話す声はガンのせいか少し掠れ気味で、でも話ぶりは元気でとてもガンで死にかけの人とは思えない。
「ま、もう長くないです」
やや投げやりに話す口調はいつもと変わらないまさにT君でした。
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最期は小さな家族に囲まれて、彼は苦しむこともなく穏やかに旅立って行ったそうです。
それを聞いた時、いかにも彼らしい最期だなと思うと同時に、それが本来あるべき死の姿なのかもなあとも思いました。
死ぬってどうしても嫌なことだから、なにかと考えるのを避ける傾向がありますが、たまには死について考えを巡らせてもいいかも知れません。
今は医療が進歩しているから、どうも無理矢理生かされてしまう事が多い気がします。
でも呼吸器をつけて、薬漬けにされて、身体中に管を刺して意識もないのに息はしてるし心臓も一応動いているから生きてますってどうなんでしょう?
それって本当に本人にとって幸せなことなのかどうかは良く考えた方がよさそうです。