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叔父さんとラジオ

叔父が亡くなった。まだ55歳、若かった。

僕と会うときは常にニコニコしている、気のいいおじちゃんだった。今日は叔父を供養する気持ちでこの記事を書いてみようと思う。

僕が生まれたとき、叔父はまだ大学生で数年間は同じ家で暮らしていたらしい。というのも、僕には当時の記憶がほとんどがないから。叔父の兄(僕の父)は、僕が物心つく頃から海外赴任なんかも増えていて、家を空けることが多かった。家には祖父母もいたし、寂しいとかはたぶんなかったと思うんだけど、叔父がとにかく僕をかわいがってくれていたらしい。赤ん坊の頃にはオムツも替えてもらったらしく、中高生くらいの頃にその話をされて恥ずかしかった。なぜか、叔父の結婚式に出席したことはハッキリ覚えている。花束を持って、新婦に渡す役だった。とてもきれいな人だった。

父の仕事の都合で海外に何年か住み、帰ってきたころには小学校高学年になっていたが、たまに会うとキャッチボールをしてくれた。家族で唯一の左利きの叔父は「左投げ用のグローブは買ってもらえなかったからこうしてた」と、右投げ用のグローブを右手にはめて、器用に捕っていたのを覚えている。野球選手に憧れていた僕にとって、左利きの叔父は人と違っていてかっこよかった。

いつだか家族が集まったとき、叔父の中学生の頃の美術の話を聞いた。それぞれ自分の手の親指の彫刻を彫るという授業だったのだけど、見たまま彫ったそれを見た教師が「こんな形の指はない、やり直せ」と言った。「でも先生、本当なんです」と親指を見せ、教師を絶句させたとか。所謂マムシ指というやつらしく、教師もビックリしたんだろうか。

僕が中学生のとき、部活の試合会場が遠く、当時都内に住んでいた叔父の家の近くだったので、泊めてもらったことがある。既に離婚していたので、叔父は一人暮らしだった。夜は(おそらく)焼肉を食べさせてもらった。朝起きると、ラジオがかかっていた。実家ではいつもテレビがかかっていたので、なんでラジオなのかと聞くと「テレビだと見なきゃいけないから手が止まる。ラジオなら聞きながら動けるから忙しい朝にちょうどいい」という話だった。「なるほど」と思った僕は、ラジオに興味を持ち、家でラジオを聞くようになった。当時の最新音楽の情報を仕入れたり、受験勉強のお供だったり。当時も今も、メインで聞いているのはFMヨコハマだ。

大学生になって一人暮らしを始めてからは「朝のラジオ」も習慣の一つになった。毎朝決まった時間にラジオがかかるようにコンポをセットして、番組のジングルとともに起きる。めざましテレビのきれいな女子アナが観られないのは少し残念だけど、ラジオがかかってる朝も悪くない。男性DJの落ち着いたトーンだったり、女性DJの明るく元気な声が好きだった。

ラジオについてはなぜか友人と共有することはなかったけど、34歳の今までずっと続く趣味となっている。気になるテーマがあればメールも書くし、公開生放送にも行った。ステッカーをもらったり、DJの声に励まされたり、ラジオで知ったお店に行って素敵な出会いがあったり、シアトル・マリナーズで活躍していたイチロー選手の直筆サイン入りTシャツが当たったり。とにかく数え切れないくらいの思い出ができた。きっと、これからもずっと楽しむだろう。

震災があったり、コロナの影響で世の中が不安に覆われているときでも、ラジオから聞こえてくる声はいつでも優しかった。リスナーにそっと寄り添い、優しい言葉をかけてくれる。ダイヤモンド・プリンセス号が大黒ふ頭に停泊しているときは、乗船中の旅客に向けて英語のメッセージも送っていた。あのメッセージを聞いたときは、誇らしくなるとともに、ちょっぴり泣きたくなってしまった。

テレビやネットでは、不安を煽ったり、ユーザーの興味を引くためのセンセーショナルなタイトルをつけたり、一言でいうと「不誠実」なメディアが増えてきた。とにかく成果、とにかくPV。ビジネスだということはわかってはいるけど、疑問に感じることも多い。

ラジオでは、少なくとも僕が知る限りはそういうことはない。DJ一人ひとりが自分の考えを発信することはあれど、誰かを傷つけようとしたり、不安にさせて数字を稼ごうという意図は全く感じない。僕はラジオこそが「世界一やさしいメディア」だと思っている。

そんなラジオとの出会いのきっかけをくれたのが、叔父だった。

叔父は不摂生が祟り、若くしてこの世を去ってしまった。そこに至るまでに、きっと多くのことがあっただろう。楽しいこともあっただろうし、苦しいこともあったかもしれない。ただ、僕にとっては本当にやさしいおじちゃんだった。

去年くらいから、叔父から気まぐれにLINEが来るようになった。内容はとりとめのない、ふーんで済ませたくなってしまうようなものが多かった。なるべく返信はするようにしたけど、ついつい後回しにしたり、少し素っ気ない対応をしてしまったような気がする。通夜の席で知ったのだけど、叔母曰く、そんな僕の返信を本当に喜んでくれていたらしい。帰って風呂に入りながら涙が止まらなかった。そんなにも喜んでくれていたなら、もっと心を込めて返信すれば良かった、もっと興味を持って話をすれば良かった、もっと、もっと…後悔の念が溢れ出た。

最後に叔父に会ったのは1年半前。本当なら今年の初めに法事で会うハズだったのだけど、緊急事態宣言を受け、法事を延期していた。コロナがなければ…という思いは正直ある。なかったとして、もっと丁寧な対応ができていたかはわからない。悔いの残らない最期なんてなかったかもしれない。でも、最後に一目会うことはできたかもしれない。そんな思いもある。

明日、叔父の告別式が行われる。最後くらい、ちゃんと思いを伝えて、おじちゃんをしっかり見送りたいと思う。

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