人はなぜ海を渡るのか?
―― 人はなぜ海を渡るのか? ――
・Information
@『Tinys Yokohama Hinodecho』
ゲスト:拓海広志 氏 The Albatross Club 代表
ファシリテーター:福岡達也 氏 Tinys Yokohama Hinodecho マネージャー
・Theme
『自由と移動』
・他の環境への移動
・手段・技術(船、航海術)
・環境適応
>福岡
初めまして。今日のファシリテーターを務めます、福岡(たっつん)です。タイニーハウスと呼ばれる車輪付きの小屋で移動しながら自由に暮らしたいと思って活動しています。1989年生まれ、現在28歳です。
>拓海
たっつんは、1989年生まれなんだね。僕は1963年生まれなんですが、自分が25歳だった1989年に、アルバトロス・クラブというNPOを作ったんです。もう28年前になるんですね。でも、詳しくは後ほど(笑)。
>福岡
僕は「Delphinus」というヨット(クルーザー)のメンバーでして、そこで代表の拓海さんから「一緒にイベントやらないか」との声掛けをいただき、今日の会があります。
>拓海
はい。ヨットの名前の「Delphinus」は、ラテン語でイルカもしくは星座のイルカ座を意味します。また、「Delphinus」のメンバーは三浦市で「あえり庵(Aérien)」という名前の洋菓子店&海の仲間たちの交流サロン兼シェアハウスも運営しているのですが、たっつんはその仲間でもあります。
5月27日だったかな? この会場「Tinys Yokohama Hinodecho」でたっつんの結婚披露パーティがありました。僕は「The Hyper Bad Boys」というバンドで音楽活動をしているのですが、たっつんからはそのパーティーに向けて歌を作ってほしいという依頼をもらっていました。ところが、作詞を担当することになっていた金子拓矢君、彼も「Delphinus」と「あえり庵」の仲間なんですが、彼から原詩が届いたのが何と5月25日の夜でした。そこで、僕が翌26日に三崎口に向かう京急電車の中でその詩を基調にして作詞をし、その後に「Delphinus」で城ケ島沖をセーリングしながら洋上で作曲をするという慌ただしさの中で、歌が完成しました。タイトルは、『魂の赴くままに』です。
『魂の赴くままに』と聞くと、「あー、好き勝手にやる事だな」って誤解する人もいるかも知れませんが、僕が伝えたいのはそういうことではありません。全てのこだわりを捨て去ってもなお、自分の魂の奥底から湧き上がってくる、止むに止まれぬとても根源的な思い。それに対して素直に耳を傾け、その思いを押さえ込まずに生きていくのがいいんじゃないかということ。僕は、たっつんにはそういう生き方をしてほしいなと思い、この『魂の赴くままに』という曲を作りました。今日はウクレレも持ってきてますので(笑)、話をする前にちょっとその曲をやってみていいですか?(拍手)
『魂の赴くままに』(作曲:拓海広志 作詞:拓海広志&金子拓矢)
見上げていたよ
朝焼けの君を
へこんだ僕には
眩しすぎて
かすかに微笑み
君は飛び立つ
海風に舞って
僕を誘う
今日は何処へ 行こうか
明日は何を 歌おうか
過去の彼方の
未来を見つめて
魂の赴くままに
生きていこう
Wo~
星のささやき
波の歌声
月に曳かれて
潮も語るよ
君を求めて
僕も飛び立つ
二枚の帆となり
風をつかもう
今日は何処へ 行こうか
明日は何を 歌おうか
二人の彼方の
未来を見つめて
魂の赴くままに
生きていこう
Wo~
今日は何処へ 行こうか
明日は何を 歌おうか
宇宙の彼方の
未来を見つめて
魂の赴くままに
生きていこう
Wo~
※参考:『魂の赴くままに』(「The Hyper Bad Boys - 重陽の海Live@TheGlee2018」より)
https://www.youtube.com/watch?v=vU3PgKFewt8
福岡達也さん、梓さん、ご結婚おめでとうございます!(拍手)
さて、ここから少し話をしていこうと思います。今日のテーマは「人はなぜ海を渡るのか?」ですが、これはたぶん様々な角度から語ることができるものだと思います。
人類は東アフリカの大地溝帯で生まれたと言われています。原人や旧人も結構各地に拡がりましたが、約20万年前にホモ・サピエンスが登場すると、人類は文字通り野山を越え、河を下り、海を渡って、世界中に拡散していきました。その中で、時には凄い冒険もするわけですが、やがてたどり着いた新たな土地の環境に適応して暮らしていく。
僕たちはそういう生き方をしてきたホモ・サピエンスなので、このテーマについては、民族移動といった観点からも話ができます。一方、個人の生き様として渡海について語ることも可能です。なので、今日は会場に来ていらっしゃる方々の問題意識によって、話が自然に多方面に展開していき、「あっ! そういう捉え方もあるんだ」みたいに自由に感じていただける場になれば良いと思います。
では今日の前半では、僕が20歳代の頃にやった「アルバトロス・プロジェクト」の話をします。もっとも、それはあくまでも今日の題材に過ぎませんので、梓さんが作ってくださるナシ・ゴレンを食べた後の後半に皆でディスカッションして、話がアッチコッチへと拡散していくことになるかと思います。
※参考「ナシ・ゴレン・イカン・アシン」のレシピ(拓海広志「キラキラ料理帖」より)
https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20061209/p1
最初のスライドは、全部インドネシアの船の写真ですね。僕はかつて4年ほどジャカルタで生活したことがあり、その間にインドネシア各地を訪ねて回りました。インドネシアには島が1万3千個以上もあるのですが、民族の数は250くらいあると言われていて非常に多様性に富んだ国です。それだけに、そこで使われている船も、その環境や用途に応じて非常に多様です。そして、船の形をよく観察すると、その船がどんな環境の海において、どんな目的・用途に使われているのかがわかってきます。つまり、船を通して人と自然の関係性が見えてくるということですね。
次のスライドの写真は、僕が学生の頃乗っていた日本丸という帆船です。僕はこの船で神戸~サンフランシスコ~ハワイ~東京をセーリングしたのですが、実に愉しかったです。もちろん風の力だけで太平洋を渡るわけですからそれなりに大変なこともたくさんありましたが、毎日六分儀を使って星や太陽の高度などを読み取って船の位置を出していくのは面白かったですね。と聞くと、GPS万能の時代に生きている皆さんは「何と原始的な」と思うかもしれませんが、これは立派な近代航海術です。近代航海術において重要なことは、そこに既に海図があり、どこに何があるのかが分かっているという事。また、コンパスや六分儀、クロノメーターなどの航海計器を使うことによって、海図上で自分の居場所を知ることができるということ。これは近代の科学の成果であり、素晴らしいことだと思います。
もう一つの写真は、ミクロネシアのシングル・アウトリガー・カヌーです。これは僕らが20歳代の時にヤップ島で建造してパラオとの往復航海を行った、「ムソウマル(Methawmal)」という名のカヌーです。ミクロネシアの人たちが太古からやってきた航海術は海図も航海計器も使用しません。自分の身体を計器の代わりにし、自然が発している様々なサインやメッセージを五感で読み解いていくわけです。それに口伝の知識や推測を組み合わせることによって、自分の居場所をつかみ、進むべき方向を見出していく彼らの航海術は、近代航海術とは異なるパラダイムのサイエンスです。
航海術というものを突き詰めていくと、それは3つのことから成ります。1つ目は自分の場所・位置を知ること。次は自分が目指す方向・針路を決めること。そして、船を操ること、マネジメントすることですね。この3つの事ができれば航海は成り立ちますが、どれか1つでも欠けるとうまくいきません。これは近代航海術であろうが古代の航海術であろうが同じですが、僕は同時にそれを企業やNPOなどの組織経営におけるメタファーとしても考えています。
さて、ここで少しアルバトロス・クラブについて紹介させてください。たっつんが1989年生まれとのことでしたが、僕はその当時25歳で、仲間たちと一緒にアルバトロス・クラブを立ち上げました。アルバトロスとはアホウドリ(信天翁)のことです。風に乗って大海を渡るアホウドリのさまは実に勇壮で、船から見ていても凄く格好いいんですが、陸にいるときのアホウドリはその名の通りのおぼつかない歩きざまで、猟師にも簡単に捕まってしまいます。アホウドリはヨーロッパでは海で死んだ水夫の生まれ変わりだと言われていますが、それはたぶん帆船や帆船乗りからの連想なんだろうと思います。風があると帆船は颯爽と走るけど、無風だとチャプチャプ無力に海に浮かんでいるだけ。帆船乗りは海にいるとさまになるけど、陸に上がると河童で使い物にならないといった感じですね(笑)。
アルバトロス・クラブは、「人と自然とモノの関係性について関心を持ち、その関係性をより豊かなものとするための社会的活動を行っている人たちのサロンとして、交流と活動の場を提供すること」を目的とし、「Give & Share」をモットーとした、当時としては珍しいネットワーク型&サロン型のNPOです。今では誰もがパソコンやスマホを持っており、FacebookなどのSNSを使えば人と人は簡単に繋がることができますが、当時はそうではありませんでした。例えば研究者だったら学会でというように、同業者間でしか人は繋がりにくかったりしました。そこで研究者や芸術家、NPOの活動家、企業人、第一次産業に従事する人、あるいはアウトドア・スポーツを通して自然と関わっている人たちなど、前述のテーマに合った活動をされている人々を繋げていくプラットフォームとなること。それが、アルバトロス・クラブが目指してきたことです。
ちなみに、アルバトロス・クラブのメンバーだった鶴見良行さん(故人)は、ベ平連をはじめとする様々な市民運動やNPO活動に関わってこられた方ですが、龍谷大学での授業で「アルバトロス・クラブは全く新しいタイプのネットワーク型&サロン型NPOだ」と学生たちに語ってくださっていました。
アルバトロス・クラブの活動は結構活発で、各種のシンポジウムやイベント、ワークショップ、海や山、川などでの自然体験活動や環境活動などは頻繁に行われていましたし、年に2冊はメンバーの寄稿した文章をまとめた分厚い会報も出してきました。そんな活動を通して様々な人と人が出会って創発が起こり、そこからまた新たな活動やプロジェクトが始まるということが多々ありました。そうした数多くのプロジェクトの中でも、僕自身が20歳代に最も力を注いだのが、今日お話しする「アルバトロス・プロジェクト(ミクロネシアの伝統的帆走カヌーによるヤップ~パラオ間の石貨交易航海再現プロジェクト)」です。
このスライドの写真は、ミクロネシア・ヤップ島の男の子です。赤い褌を着けていますが、ヤップの男性は誰もが褌姿です。女性は腰蓑だけで、胸は出したまま。それがヤップの正装です。男の子の後ろに円形の大きな石があり、真ん中に丸い穴が開いていますね。これが石貨、石のお金です。石貨の原料はパラオの離島にある結晶石灰岩(ライムストーン)です。ヤップの人たちは、かなり古い時代からカヌーで命懸けの航海を行い、南西約500キロ離れたところにあるパラオまで渡ってきました。そこで結晶石灰岩を切り出して石貨の形にして持ち帰ってきたわけです。石貨は結構大きいですから、特定の場所に置かれて、不動産のように流通します。石貨の価値を決めるのはその大きさや美しさだけではなく、島の人々が語り継ぎ共有する物語です。一つは、祖先の誰々がどのような苦労をしてその石貨を持ち帰ったのかという物語。もう一つは、誰々がどのような素晴らしい目的のためにその石貨を使ったのかという物語。そうした石貨をめぐる物語が共有されることによってヤップのコミュニティーは成り立ってきました。
石貨の製造は1931年を最後に行われなくなりました。ヤップの支配者がスペインからドイツに移った時代、オキーフという名のアメリカ人が1872年から1901年にかけて最新の機材をパラオに持ち込んで石貨を大量に作り、それを汽船で運ぶということを行ったため、石貨の価値は下落しました。また、ドイツはカヌーによる遠洋航海を禁止するのですが、その後南洋群島としてミクロネシアを統治した日本も同様のことを行いました。そうした事情から石貨航海が途絶えてしまったわけです。
第二次世界大戦後、ミクロネシアはアメリカを受任国とする国連信託統治領となりました。1979年に憲法が発効してミクロネシア連邦は主権を回復し、1986年には国防と安全保障をアメリカに委託した自由連合盟約国として独立を果たします。しかし、かつてのアメリカのミクロネシアへの関わり方にはいわゆる「ズーセオリー(動物園理論)」的なところがあり、島民に教育や福祉を施すのは良いのですが、それによってアメリカへの依存を高めさせるという側面もありました。過度の援助は元々あった経済や生活の仕組みを壊します。ヤップでも狩漁や生産といった活動がなくなっていき、消費生活だけが近代化するといった現象が起こっていました。
次のスライドはミクロネシアの地図です。太平洋には、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアという3つのネシアがありますが、ミクロネシアの一番西の方にあるパラオはフィリピンのミンダナオ、インドネシアのハルマヘラやスラウェシ、イリアンジャヤから近いですね。
インドネシアやフィリピン、そしてインド洋の島々のカヌーのほとんどはダブル・アウトリガー・カヌー、つまり船体の両舷側にアウトリガーが取り付けられているタイプのカヌーです。そのアウトリガーはたいてい竹で作られていて、浮きの役目を果たします。東南アジアの多島海など風向きが変わりやすいところで船を安定させ、また帆返しが容易いという点においては、ダブル・アウトリガー・カヌーは非常に扱いやすい船だと言えます。ただし、竹製のダブル・アウトリガーが起こす抵抗は大きいので、長距離航海にはあまり適していません。
僕の友人で、ニュージーランド人の探検家ボブ・ホブマンは、最初のカヌーはスラウェシ~ミンダナオあたりの海域で生まれたのではないかと言います。その真偽はともかくとして、幾つもの移民の波があった島嶼東南アジアにおいて、人々はそのあたりを通って新たな地へと移動し、拡散していったと思われます。一つはメラネシアへ向かい、そこからポリネシアに移動・拡散する流れで、もう一つはミクロネシアへ移動・拡散する流れです。
ミクロネシアへ向かった人々は、シングル・アウトリガー・カヌーを生み出しました。シングル・アウトリガー・カヌーとは、船体の片舷側だけにアウトリガーが取り付けられているタイプのカヌーです。シングル・アウトリガー・カヌーのアウトリガーは浮きではなく、風上側に据える錘です。これによってカヌーが風下に流されたり、転覆するのを防ぎます。一方、メラネシアからポリネシアに向かった人々は、双胴船のダブル・カヌーを生み出しました。ダブル・カヌーはシングル・アウトリガー・カヌー以上に安定性があり、より多くの人や荷物を積むことが出来ます。いずれも、ダブル・アウトリガー・カヌーよりも長距離航海向きですね。
次のスライドは、ヤップ島の写真です。大学時代の僕は日本丸などの練習船に乗って航海について学んでいたのですが、大学を卒業してからは企業で働くようになりました。しかし、海への想いが止むことはなく、特に学生時代から関心のあったポリネシアやミクロネシア古来の航海術についてはずっと調べていました。そしてたどり着いたのがヤップでした。ヤップの東方にはカロリン諸島と呼ばれる小さな島々が浮かんでおり、そこにはそうした航海術を今に伝える人たちがいるのですが、彼らは割と頻繁にヤップを訪れてしばらくの間マドリッジと呼ばれる地区に滞在するんです。なので、ヤップへ行くと離島の航海者たちとも会えることがあります。
「アルバトロス・プロジェクト」は1989年に開始されたのですが、石貨航海が実現するまでに5年かかっています。ただカヌーを造って航海するだけならばそんなに時間は掛かりませんが、僕らが何故5年もの時間を掛けたのか、そしてその中でどんな人たちとの出会いややり取りがあったのかが、このプロジェクトで一番大事なところだと思っています。
次のスライドの左上写真の人は、ベルナルド・ガアヤンさんです。ヤップのマープという地区の総酋長で、当時でもう70才くらいでした。ガアヤンさんの世代は日本の教育を受けており、太平洋戦争にも兵隊として駆り出されています。なので、僕らがこの世代の人たちと話すときは日本語になります。でも、若い世代と話すときは英語を用います。ヤップには100個くらいの村があり、それぞれに酋長がいます。ガアヤンさんはマープ地区ウォネッジ村の酋長です。非常にお酒が好きで、昼間からウォッカを浴びるほど飲む人ですが、酔って乱れることは決してありません。頭脳明晰な人で、ヤップ以外の世界にはほとんど出たことがない割には、世界のことをよく知っています。新聞やテレビがあるわけではないのに、いろんな人から聞く話をとてもよく理解し記憶していて、本当に物知りな賢人です。僕はガアヤンさんととても仲良くなりました。
当時僕が何度かヤップを訪れた中で、森で怪しげなパーティーに偶然遭遇したことがありました。マリファナ・パーティーだったかもしれません。その会場を抜け出して帰る途中に、僕はいきなり1人の若者に襲われました。彼は「殺すぞ」と叫びながら僕につかみかかってきたのですが、僕は柔道の心得があったので彼を袈裟固めで押さえ込みました。やがて誰かが呼んだのか、警官がやって来て事なきを得たのですが、ガアヤンによるとその若者はとても優秀なシステムエンジニアで、アメリカの大学を卒業してヤップに戻ってきたのだそうです。ところが、帰国後にうまく環境適応できなくなり、それから少しおかしくなっちゃったんだそうです。
ガアヤンは、ヤップを訪れる旅行者はここが楽園だと言うけれど、実はヤップには様々な問題があり、中でも厄介なのはアイデンティティの問題だと言います。アメリカが援助という形で、彼らのプログラムに基づいて英語で学校教育を提供しているわけですが、そこでは学生たちはヤップの歴史や文化はほとんど学びません。また、ヤップにはやたらと公務員が多くて、人々はその仕事によってお金(米ドル)を貰えます。でも、そうすると昔ながらの海や森、畑での仕事をしなくなってきて、ヤップ人としてのアイデンティティが曖昧になってくるとガアヤンは言うのです。
ガアヤンは、ヤップの魂を取り戻したい。だから何か象徴的なことをやりたい。それは、カヌーであり、もう1つは石貨なんだ。そこにヤップの魂が全部あるんだ。だからそれを再び実現したいと、そう熱弁します。カヌーを原木から作り上げるのは大変なことなんですが、ガアヤンはそれをやりたいし、かつ100年ほど途絶えてしまっている石貨航海を再現してみたい。僕は彼の情熱にほだされて、アルバトロス・クラブとしてこれに全面協力することを約束しました。僕自身は、古代航海術を実際に体験できる場がほしくてヤップに足を踏み入れたのですが、いつの間にか彼らの社会課題にも関わることとなってしまいました(笑)。
しかし、そこからが大変です、ヤップには100個くらいの村があるので、ガアヤンだけが決めてもうまくいかず、それぞれの村の代表が集まる酋長会議での合意が必要です。また、日本を含む様々な国のメディア、特にテレビ局がヤップを秘境扱いして取材した番組を作る際には、ある特定の村の酋長と仲良くなって、そこにだけお金を落とすようなことをする。そうすると、その村の酋長と村人だけが豊かになる、みたいなことが時々あるわけですね。それで僕らも誤解されて、「あいつらは日本のテレビ局の関係者で、どうせガアヤンのところにお金が落ちるんだろう」とか、すぐにそういう話になりがちです。だからそうした誤解を解いて信頼関係を築き、ヤップの中のコンセンサスをとるのに実は3年かかったんです。そして最終的に、酋長会議の代表者であるケネメツさんという人がしっかり動いてくれて、酋長会議をまとめてくれました。また、ヤップには酋長会議だけではなく、ミクロネシア連邦ヤップ州の議会も存在します。なので、そちらもちゃんと通さねばならず、酋長会議の承認を得た後はそのプロセスでした。
僕は当時ジャカルタに住んでいましたが、アルバトロス・クラブの事務局長・杉原進さんはソウルに住んでいました。アルバトロス・プロジェクトの事務局(岩崎博一さんと藤本博康さん)は西宮の古野電気内に置かせていただき、京都大学の学生で探検部に所属していた田中拓弥さんは大学を休学してヤップに駐在してくれていました。また、その他のプロジェクトメンバーの多く(柴田雅和さんや奈須督勝さんたち)は東京にいましたので、その5極が連携してプロジェクトは進められました。今のようにインターネットや携帯電話で簡単に連絡が取れる時代ではなかったので、お互いの意思の疎通をタイムリーに行うのは容易ではありませんでした。でも、この5極間での意思の疎通があったからこそ、プロジェクトは実現できたのだと思います。
プロジェクトをやると決まった時に、ガアヤンさんは自ら主役の座を降りました。それは、既にヤップ全体を挙げてのプロジェクトになっている以上、そうした方がうまくいくという判断がガアヤンさんにあったからで、替わりに彼が推薦して表に立たせたのはジョー・タマグさんでした。タマグさんは、ヤップの州都コローニアでホテルを経営している企業家で、当然のことながらきちんとお金の計算や管理ができる方です。この種のプロジェクトを行うときはお金の管理をきちんと任せられる信頼できる人が必要で、タマグさんはその意味で適任者でしたが、それだけではなくヤップ内での調整、パラオとの交渉においても非常によく動いてくださいました。
ところで、僕らがヤップへ通う渡航費はもちろん自腹でしたが、それとは別にプロジェクト自体の資金が必要でした。森の奥で巨大なタマナ(テリハボク)の木を切り倒して海岸まで運び出し、それを船大工数人が1年半かけてカヌーを作っていくわけで、当然お金がかかります。また、パラオとの往復航海に伴走船を雇ったりして、結局総額で1,500万円くらい要しました。アルバトロス・クラブからプロジェクトに参画していたメンバーは当時皆20歳代で10名くらいいましたが、まずその全員が100万円ずつ出しました。残りの500万円については、渋谷潜水工業の渋谷正信さんをはじめとする多くの方々からの寄付、またTBSの『報道特集』や産経新聞社が取材協力費ということでお金を出してくださいました。
カヌーの船体の原木は、大人が5人くらい手を繋いで周るくらいの大きさです。原木を切り倒す際には、まず呪術師が法螺貝を吹いてまじないをし、木の精霊をいったん木の外に出します。タマナの木の本来の姿はカヌーであり、木の精霊は元の形に戻して欲しいと願っている、とヤップの人たちは信じています。だから、原木を切り倒す時は鑿を、また原木を削って船体を造る時は釿(手斧)を用いて、ゆっくりと作業を進めます。船大工のジョン・タマグヨロンさん曰く、「木が成長するのと同じくらいの速度で」。カヌー造りに設計図は存在しません。片舷側にシングル・アウトリガーを取り付けるので、カヌーの船体は左右均等ではなくて、敢えて少しバランスを崩すのですが、それも含めて船大工の感覚だけで木を削っていきます。
次のスライドは、1年半の工期を経て完成したカヌーの写真です。右上がシングル・アウトリガーで、材料には重いパンの木を用いています。左の写真のY字型の部分はプルールと呼ばれ、船首尾の両方に付いています。この間から水平線を昇り沈む星を見て、自船の位置をつかみます。真ん中下の写真はプラットフォームで、航海中キャプテンはだいたいここにいます。右下は踏み舵ですね。固定されていない舵なので、航海中はずっと踏んでおかねばならず、なかなかハードワークです。
ようやくカヌーが完成し、いよいよ航海という段階になるとキャプテンとクルーが必要になります。ヤップ本島には伝統的な航海術を用いてカヌー航海をできる人はもういませんので、キャプテンは離島民に頼むしかありません。1975年にアメリカ合衆国建国200周年記念事業の1つとしてハワイで建造されたダブル・カヌーのホクレアは、1976年にタヒチまでの航海を行いました。その時に招聘されたのが中央カロリン・サタワル島の航海者マウ・ピアイルックです。彼はスター・ナビゲーションと通称される太平洋諸島古来の航海術を用い、近代的な航海計器を一切使わずにホクレアを見事にタヒチまで導きました。その「太平洋の英雄」とも言うべきマウが「俺がキャプテンをやってやるよ」と言ってくれました。これは嬉しかったですね。
ヤップの東方に点在する離島は、かつてヤップ本島に従属してきた歴史があります。だから離島民は本島民から下に見られることもあり、ハワイなどで英雄扱いされているマウに対してすら、「何でヤップの伝統的な航海を離島民に任せるんだ?」などと言い出す酋長も出てきます。ですが、これについてはガアヤンさんやケネメツさん、タマグさんが酋長たちをきちんと説得し、キャプテンは正式にマウに決まりました。
もう一つ乗り越えなければならなかったのは、パラオとの交渉です。ちなみに、パラオはヤップが属するミクロネシア連邦とは別の国・パラオ共和国です。ヤップの人々にとって石貨航海は勇気の象徴ですが、パラオ側から見るとそれはヤップに侵略された負の歴史という側面もあります。そんな歴史的経緯もあってヤップとパラオはあまり仲が良くなく、当初パラオ側は「アルバトロス・プロジェクト」に対して否定的でした。しかし、タマグさんがパラオへ行ってさまざまな働きかけを行ってくれ、パラオの酋長たちや国会議員たちも全面的にプロジェクトを応援するという風に流れが変わりました。
僕らのカヌーにはムソウマル(Methawmal)という名が付けられました。これは、ヤップ語で「(ヤップ〜パラオ間の)航海困難な海の道」を意味します。既にお話ししたように、ヤップ内でコンセンサスを取るのに3年、カヌー建造に1年半を掛けましたが、その後の半年はキャプテンとクルーの選定、航海の練習、ヤップからパラオへの往航、パラオ離島での石貨作り、パラオからヤップへの復航と、かなり慌ただしく時間が過ぎたように思います。
次のスライドの左下の写真は、マウがスターコンパス(星図)を用いてスター・ナビゲーションの考え方を説明しているところです。東から昇り、西に沈む星を船首尾のプルールでとらえるという話を先ほどしましたが、既知の海域においてはA地点からZ地点に至る航路上での星の動きが伝承されています。スター・ソングと通称されるものですが、それを用いて実際に海を渡るためには、自分の頭の中に海という空間のイメージ・マップが必要です。それとスターコンパス(星図)が頭の中で重なるから空間認知ができるわけですね。
スター・ナビゲーションは一種の推測航法なのですが、ミクロネシアの航海術には空間を場所として記憶する技術もあります。つまり、特定の空間に具体的なイメージを持たせることによって場所として記憶するということですが、これはアリストテレスが記憶術の中で場所のイメージを重視していたこととも通ずることで、とても興味深いです。
右下の写真はスティック・チャートと呼ばれる、ミクロネシアの海図です。貝殻が島々の位置を示し、ココ椰子の葉柄は島に衝突することによって変化するうねりの方向を示しています。海を渡る時は、さまざまな自然のメッセージを読み解きながら進んで行かねばなりません。星は非常に重要ですが、それ以外にも風や波、海流や潮流、肌で感じる気圧や湿度の変化、雲の出方、鳥の動き、陸の匂いなど、読み解くべきメッセージはたくさんあります。マウは、カヌーの中で寝ていてもカヌーに当たるうねりがどの方角から来ているかわかると言うので、これには脱帽でした。
さて、キャプテンを引き受けてくれたマウの素晴らしい指揮によって、僕らはヤップ~パラオ間の石貨航海を100年ぶりに復活させることができました。石貨作りのためにパラオの離島・ウロン島に滞在したのは3か月だけでしたので、そんなに大きな石貨は作れませんでした。でも、切り出したばかりの結晶石灰岩(ライムストーン)は本当に綺麗です。特に月の光を受けた時の青白い輝きにはうっとりします。それを見て初めて、かつてヤップの男たちがそれを得るために命懸けの航海をしてパラオまで渡った意味が理解できたような気がしました。
では、ここで「イメージの力で海を渡る」ということでいったん前半の話をまとめ、後半はまず質疑応答をさせていただき、それから全員でのフリーディスカッションへと移っていきたいと思います。
「アルバトロス・プロジェクト」を通して僕が考えたことを1枚の絵にまとめてみました。「人は何故、如何に海を渡るのか?」という問題意識をベースにしながら、「渡海の動機と目的は何か?」「渡海に必要な知識と技術は何か?」「海という環境、そして渡海によって生じる新たな環境への適応とはどのようなものか?」。こうしたことを考えていく中で,以下の4つのことが僕の考察ポイントとなりました。
まず航海術について。それが近代的なものであれ、カヌーのように伝統的なものであれ、航海術の出発点は空間認識です。つまり、自分の位置を知ることと、自分の進む方向を決めること。そして、それに船を操る技術が伴って初めて航海は可能となります。カヌーの航海術はスター・ナビゲーションと呼ばれる一種の推測航法ですが、それについて考えてみました。
次は身体、そして感覚とイメージについてですね。航海者は身体を使ってどのように自然を読み解くのか? また,カヌーの航海者は頭の中にスターコンパス(星図)と海のイメージ・マップを持っているのですが,その際に必要となる「場所の記憶」という記憶術についても考えてみました。こうした身体知と形式知の複合体系が、カヌーの航海術を支えています。
そして文化についてです。人が自然、他者、自然としての自らの身体をどう捉え、それらとどう関わるのか? その関係性を様式化・共有化したものとしての文化について考えてみました。また、「アルバトロス・プロジェクト」はヤップの伝統航海を再現するプロジェクトだったのですが、伝統を守るという考え方がいつでもどこでも無前提に正しいわけではありません。そこで、方法としての伝統の意味や有効性についても考えてみました。
最後は、海のネットワークについてです。中央集権型のグローバルネットワークではなく、むしろ自律分散的に自己組織化された人々のネットワークが海にはあり、それも渡海というテーマについて考える上で重要なことだと思います。また、これはアルバトロス・クラブというネットワーク型のNPOのあり方とも通ずるもので,そうした組織論についても考えてみました。
個は全体の中にあるものですが、個の中にも全体がある。アルバトロス・クラブは、そうしたホロニックな組織のあり方を目指してきました。また、アルバトロス・クラブは創発を繰り返しながら自己組織化していく集団でしたので、「アルバトロス・プロジェクト」においても、自律的なプロジェクト運営が行われたと思っています。
最後に、僕がアルバトロス・クラブの活動を通してこだわってきた事がらについて、そのキーワードをサッと羅列してみました。それを眺めていただきながら前半の話を終了させてください。たっつん、皆さん、ありがとうございました。
>福岡
拓海さん、ありがとうございました。前半はこれで終了です。皆さんにナシ・ゴレンを食べていただいた後、後半のセッションに移ります。
※参考:拓海広志「イメージの力で海を渡る」
① https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20070114/p1
② https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20070115/p1
③ https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20070116/p1
※参考:拓海広志「石貨交易航海の再現」
① https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20061111/p1
② https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20061112/p1
※参考:拓海広志「渡海―人は何故海を渡るのか?」
① https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20080504/p1
② https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20080505/p1
③ https://helloseaworld.hatenablog.com/entry/20080506/p1
※参考:拓海広志『新訂ビジュアルでわかる船と海運のはなし(増補改訂版)』(成山堂書店)
https://www.seizando.co.jp/book/3829/
https://www.amazon.co.jp/dp/4425911253/ref=cm_sw_r_cp_api_i_L6fdFbPP2T2GB