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大人の学びの支え方

一口に教育といっても、子どもと大人(この括り自体が大雑把ではあるが)では関わり方が異なるのは言うまでもない。
言葉の使い方はもちろん、大人に対して「手取り足取り」教えることってそうそうないだろう。

今、大人の学びが注目されている。
これまでは小学校〜高校・大学と学び、就職してから定年まで勤め上げるのが一般的なライフスタイルであった。
「学び」と「働く」が分断されていたといえる。
しかし社会は変わった。
社会は凄まじい勢いで変化し、これまでの知識はあっという間に古くなったりする。
さらにテクノロジーによって、より知的に働くことが求められるようになった。
つまり、「学びつつ、働く」そんな時代となってきた。

ところが大人の学習を支援することは、これまで注目されてこなかった。
「教育の対象者は子ども」という前提があったからである。
その前提が崩れた今、大人の学習支援=成人学習が注目を浴びるようになった。
ただ肌感覚としては、僕の周りで成人学習に関心がある人はまだまだ少ない印象だ。
かくいう僕もしっかり学んだわけではなく、改めて成人教育について学んでみようと思った。
そこで手に取った本がこちら。

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本書の目次は以下の通り。
成人教育に関心がある方はぜひ一読してみてほしい。

目次
・はじめに
・成人学習理論の理解と適用
・成人学習の理論を効果的なトレーニングの設計に活用する
・成人学習者の違いを効果的に活用する
・ベビーブーマー、X世代、Y世代の学習者との関わり
・学習者の文化の違いに対応する
・成功の鍵となる学習環境作り
・学習におけるテクノロジーの活用
・学習の促進に必要なファシリテーション技法を活用する
・成人学習の未来を予測する

網羅的でありながらも、そこまでボリューミーではなく読みやすい。
僕が印象に残った内容をいくつか書いてみたい。

なぜ成人の学び方を知ることが大切なのか

そもそもなぜ成人の学び方を知る必要があるのか。
はじめに述べたように、社会の変化によって大人になっても学び続けることが求められる社会となった。
「言われたことだけをやっていればOK」な仕事はテクノロジーによって代替されるため、人間は「知」を活用して価値を生み出すことが重要となったと解釈している。
そのような前提の上で成り立つ社会において、本書ではその理由を以下のように述べている。

医学が人間の生体に関する基礎的な理解の上に成立しているように、職場の学習とパフォーマンスは、人間の学習に関する基礎的な理解の上に成立するものです。

教育や人材開発に従事している人々が、成人の学び方を理解していないのは医師が基本的な解剖生理を理解していないのと同じことだと述べられている。
なかなか厳しい内容ではあるが、学習したことが仕事のパフィーマンスに直結するからこそ、成人の学び方を知らないでは済まされないということを感じさせる一文である。
経験や直感も時に大切ではあるが、プロフェッショナルである以上、理論に基づいた実践をしていきたい。

成人学習の理論

成人学習といっても、扱われる理論はたくさんある。
本書でもいくつか紹介されていたが、中でも印象に残ったのがジーン・ピアジェ(Jean Piaget)の理論である。
ピアジェは、学習者が知識を内面化する手段を説明した研究者である。
「知識を内面化」というのはどういう意味かをまずは考えてみた。
知識を内面化するというのは、「自身の経験の文脈の中で消化し、解釈された状態で知識として獲得すること」というのが私的解釈である。
ただテキストを読むだけで知識となるわけではなく、本当の意味で「知」となるにはもう少し複雑なプロセスがあるのだということが言いたいのかもしれない。
ピアジェ曰く、学習者は調節と同化から知識を構築していくのだという。
調節とは新しい経験を取り入れるために、個人が外界に対する物事を再構成するプロセスとされている。
本書の中では「失敗から学ぶメカニズム」と理解することもできると書かれていた。
仕事を覚えていくプロセスは調節のウェイトが大きいのではないだろうか。
先輩や指導者のフォローを受けながらも、数々の失敗を経て段々とできることが増えていく。
ただできることが増えていくだけでなく、物事の見方も変化してきたりする。

一方で同化とは、既存の概念の枠組みを変えることなく、新しい経験を包含していくことだという。
???
難しいので、ネットで調べてみた。
例えば、PCに詳しい人がWindows→Macに変えたとする。
OSが変われば細かい操作方法は変わるが、これまでのもっていたPCの見方(既存の枠組みを「シェマ」というらしいです)が大きく変わるわけではない。
つまり自分の枠組みを変更することなく、経験を取り込んでいるといえる。
なんとなく理解できただろうか。
そして同化は間違った理解を修正し損なったり、そもそも間違いに気づいていなかったりする時にも起こる。
この理論を通して言えることが、学習者の学習に対する責任である。
僕にも言えるが、既存の枠組みを変えることは容易いことではない。
プライドが邪魔することもあるだろう。
そもそも最初から変える気がないという人も、中にはいるかもしれない。
でもそれではいけないのだということ。
どんなに優秀な教育者がいても、どんなに素晴らしい学習環境であったとしても、学習者に学習するという気持ちがなければ何も生まれない。
学習は時に痛みを伴う。
他者の言葉を受け入れ、自分の中で消化できるのか。
自分と異なる他者と建設的なコミュニケーションがとれるのか。
学習者が学習に責任を持てるよう関わることも、教員の役割なのかもしれないと実感している今日この頃である。

また近年の教育系の本では「これからの教員はファシリテーション力が求められる」というような一文を目にすることが多い。
それは何故なのだろうか。
成人の学習者は子どもと異なり経験知が豊富であるといえる。
過去の経験から、学習者個々に知的枠組みができているであろう。
知的枠組み内で理解できることもあれば、時に既存の枠組みを変容しなければいけない場面も出てくる。
既存の枠組みは容易に変容できないこともあり、またそもそも変容の必要性に気づいていないこともある。
そんな時、ファシリテーターが変容のきっかけを作っていくことが重要である。
学習者が直面している教材から、既存の枠組みでは捉えきれない「視点」を発問で投げかける。
学習者は戸惑うこともあるだろうが、よく言う「視野が広がった」という言葉は、既存の枠組みが変わったからが故に出てくる言葉ではないだろうか

成人教育とデジタル・テクノロジー

新型コロナウイルスの影響により、日本の教育もICT化が一気に進み始めている。
ただ教育におけるテクノロジーの活用は、1900年代から始まっていた。
「将来教員は必要なくなる!」「学校はいらない!」なんて意見を聴くことがあるが、オンラインや電子デバイスを媒介とした教育には限界があることも明らかとなってきている。
本書によると、一部の専門家はテクノロジーを媒介した教育の学習定着率・修了率を問題に挙げている。
これは実感としてわかる人も多いだろうが、学校に行き、友達や教員と顔を合わせるということが、学習を継続するためには結構重要だったりする。
つまり「双方向性」や「関係性」の中に身を置くということが、学習を継続する鍵となる。
だからなんでもオンラインにすれば良いという、単純な話ではないのである。
今注目されているのが、学校とオンラインの両方の要素を合わせたブレンド型学習(blended learning)である。
双方向性の要素がない講義は動画配信やテキストで学習し、学校ではテクノロジーを活用しながら教員やクラスメートと対話しながら、学習していく流れになっていくのではないだろうか(というか既になっている?)。
むしろブレンド型学習が当たり前となり、その言葉自体が死語になっているかもしれない。

成人学習の未来

僕は成人学習の未来は明るいと感じている。
というのは、これからの社会はより一層「知」が求められるのは明らかであり、子どもであろうが成人であろうが学び続けることの価値は高まるであろうと考えるためである。
そしてテクノロジーの進化に伴い、学習の個別化は一層進むことが予想される。
学習の個別化は教員の役割を変えていく。
前に述べたように、ファシリテーターやメンターといった要素がより強くなるだろう。

個人的には教育におけるテクノロジーの活用に関心がある。
僕がそうであるように、これからの学習者は一層その傾向が高くなるだろう。
まずは自分が学び続けることをやめないこと。
そして教育に携わっている以上は、よりプロフェッショナルな実践ができるよう頑張っていきたい。




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