(240501a) 「神」という言葉から発生する不思議な事など。
「神」という言葉を聞くとどういうイメージを持つだろうか?
何らかの宗教の知識も無く、「神」という言葉を聞くと、
どういうイメージが出来るだろうか?
その僕達から出て来る「神」のイメージこそ、
僕らが「神」とはこういうモノだ。と考えている、「神」の像だと思う。
ヤハウェやアッラーに於いて、
聖典に於いて、「神の像を彫ってはいけない」とされている。
しかし、もし神という言葉が、僕達にとってハッキリと悪いモノだったら、
「神」を名乗る何者かを崇める事すら、しないのではないか?
よくよく考えてみて欲しい。
「私は神である」と名乗りさえすれば、
次の様な事を僕たちは考えていないだろうか?
(※「神」を自称した何者かを、「あの神」と表記します。)
・あー、あの神は、全知全能の筈だ。とか。
・あの神は、僕たちの事を思ってくれて、
僕たちの足りない所を世話してくれるだろう。とか。
・あー、あの神は、もし怒ったらさぞかし怖くて恐ろしいんだろうな。
とか。
・あの神は、僕らに出来ない不思議な奇跡を起こせるんだろうな。とか。
・あの神が居てくれるから、僕たちは不完全で足りなくても、
安穏にこの世を暮らせるのだから、ありがたい話だ。とか。
などなど。
神と名乗るだけで、色々と、
「こんな感じの筈だ」等というイメージが付く筈。
実は、厳密には、これら付いて回るイメージこそ、
僕らが「神」という言葉に対する「像、偶像」だと思う。
これは、いわゆる彫刻や彫像では無いし、絵でも無い。
しかし、これは「神」についてのイメージや像だと思う。
でも、ヤハウェ等は、信者に
「神の像を彫ってはいけない。断じていけない。
いかなる像も彫ってはいけない。
」
としている。
もし、像を彫ってはいけないならば、神とは、実は悪魔かも知れない。
そんな悪いモノならば、なぜ崇めるのか?
そんな役に立たない上に悪影響しか無さそうなモノを?
とは、なって来ないだろうか?
つまり、「あの神」は、「神」という言葉についているイメージ(像)を
利用している。崇拝を自分に集める為に利用している。
しかし、自分(神)のイメージを固定させない様に、
信者にキツク命じている。
そして、
「私(ヤハウェ)は、思いのままに行動する。」
とも言っていた気がする。
人間がこの言葉を言ったらどうなるか?
「そんな自分の意のままにしか行動しない奴は、単なる自分勝手な奴だ。
無視して相手にしないでおこう。
」と成らないだろうか?
僕は、「神」という言葉に付いて回る、一種のトリックだと思っている。
それを、「あの神(妖怪)」は、見事に、それを利用して、
自分の都合の良い様に作り変えている。
そんな事を、僕は、考えている。
皆さまも、これらの僕の言葉や文章だけでは、考えるのに足りないだろうが
ちょっと、考えてみて欲しい。
もし、あの神(妖怪、何者か正体不明な者)が、
「私は神である」と名乗った時、
僕たちがその言葉を、そこそこ受け入れ可能な時、
それだけで発生する、何か、を。
不思議では無いか?と僕は、考えている。
うまく伝わるかどうかは、判らない。
でも、こんな感じの事を、僕は考えています。
とりあえず、
以上です。