(241116a) ブッダは死体置き場へ、竜馬は肥溜めへ、イエスは地獄へ、…だが得る物は大きい?
ブッダ(仏陀、釈迦)は、死体置き場へ行った経験を持っている。
竜馬(坂本竜馬)は、肥溜めに落ちた経験がある。
イエスは、その伝道活動を始める前には、
たぶん、あまりに酷い地獄の様な経験をしている筈である。
何故ならば、イエスの様な知啓・知恵を得る為には、
口ではとても言い表せない様な地獄の最下層の様な経験が無いと、
その様な知恵などを手に入れる事が出来ないだろう…だからだ。
誰だって(それは仏陀だって竜馬だってイエスだって)好きこのんで、
死体置き場や肥溜めや地獄(の最下層)へ行きたい訳では無い。
誰だって、イヤなものはイヤなのである。
ただ、これらの聖人たち(仏陀やイエスなど)は、
イヤではあったが、渋々、イヤな経験をする事を承諾した人達だった。
そこだけが、庶民や一般人との違いなのだと思う。
一般人ならば、地獄へ行くくらいならば、自死するだろうし、
それを拒絶する為には、人だって殺すだろう。
でも、仏陀やイエスなどの聖人たちは、渋々ながらも承諾したのだと思う。
誰でも、イヤな事ではあるし、
イヤな思いや苦しい思いをする筈である。
それは間違いのない事である。
でも、その経験をして、
その苦しみに耐え抜き、かつ、その苦しみを整理できた時には、
得る物は、非常に大きいのだと思う。
たぶん、仏教の偉い坊さんのシルシである、
三宝印(さんぼういん)と四法印(しほういん)というのがある。
三法印と四法印との違いは、「一切皆苦(いっさいかいく)」である。
三法印より四法印のほうが、たぶん偉いのだと思う。
結局、この「一切皆苦」という地獄の最下層に居る様な苦しみに耐え抜き、
かつ、そこでの経験を整理できる能力(?)とでも言えば良いのだろうか?
この「一切皆苦」に耐えて耐え抜き、その経験を整理できる人にのみ、
「四法印」という資格が与えられるのかも知れない。
そして、
「一切皆苦」を克服は出来ないが、
それでも伝えられた事のほとんどを理解し、
周りの人々の役に立ち、伝えて行ける偉い坊さんに
「三法印」という資格(印、シルシ)が与えられている、のかも知れない。
イエスの言葉の中には、
「種は地に落ちなければなりません」
といった内容の言葉があった様にうろ覚えしている。
ちょっと聖書を読み返したが、どこにあったかは判らなかった。
デマの言葉かも知れない…。
この言葉を僕なりにどう解釈しているか?
種は、例えばイエスの事であり、
地は、例えば地獄や死体置き場や肥溜めである。
イエスが苦しみ悶えた様に、
イエスが地獄に赴いた様に(?ここもアヤフヤでデマの可能性有)、
結局、ここら辺を述べたいのだ。
地獄の様な、地獄の最下層の様な苦しみを味わうのは、
誰でもイヤな物である。
でも、それに耐え抜き、そこであった事を整理できる人は、
非常に多くの事を悟るだろう。(つまり、得る物は大きいと!)
要するに、
「誰だって(例え聖人と呼ばれる人だって)、
地獄の様な苦しみを体験・経験するのは、イヤなモノである。
しかし、その苦しみに耐え抜き、かつ、整理して成長できる人も居る。
そういう人は、多くの事を悟り、多くのモノを得るだろう。
」
そういう事が言いたいのだ。
まあ、そんな感じです。
以上です。