
三代目の小野小町(通い小町)
京都の随心院は小野小町の住居跡として有名です、随心院では深草少将が99日目の夜に亡くなった事になっています。

また能楽でも知られる「通い小町」でも二人は恋仲であったとしています、しかし歴史として調べるととんでもない事実が浮かび上がります、深草少将が通っていた頃の小野小町には幼い娘が既にいて、幸せの絶頂にあったと考えられます。(夫は小野岑守)
小野小町としては三代目にあたり、鳥取県の西伯郡伯耆町小町に生まれた女性で母方は「妹尾氏」と考えられます。
また深草少将の諱も伝承されているところから、この話は実話だと考えられ、詳しい内容は京都ではなく和歌山県に伝わっている事を突き止めています。
以下に和歌山県の伝承を載せますので、限りなく史実に近い内容として読んで貰えたらと思います。
出典:『日本の伝説39 紀州の伝説』「住持ヶ池の主」
「住持ヶ池の主
平安時代の初めの頃、京都の深草(ふかくさ)に住んでいた少将の君は、小野の里に住む世にもまれな美女とうわさの高い小野小町を慕って、毎夜のように足しげく通ってくるのでした。
「なんてしつこい男なんだろう。こっぴどく悪態をついて追い帰してちょうだい」
と側仕(そばづか)えの女に言いつけましたが、男の方はどこ吹く風とばかりに、一向あきらめる様子もなく通い続けてくるのでした。
そこで、小町は側仕えの侍女を通して、次のような難題を少将に伝えさせました。
「あなたさまのご熱意にはほとほと私も心を打たれました。今宵から百夜の間、途切れずにお訪ねくださったならば、あなたさまのお望みをおきき申しましょう」
と。いかに自分に執念をもやす少将の君でも、百夜は通い続けられまい。そのうちには馬鹿らしくなって、あきらめてしまうだろう、と思ったのでした。
でも、これは小野小町の方の考えが甘かったようでした。深草少将は小町の思惑を裏切って、せっせと通い続け、いっか九十九夜になってしまいました。
明夜になれば、約東を交わした上でのこと、どうしても少将の君の望みに従わねばなりません。小町は、考えあぐねた果てに、侍女を連れて小野の里を抜け出し、伏見の舟着場から舟で淀川を下り、男山から河内平野を横切り羽曳野の丘を伝い、和泉ノ国の野をわたり、川を越えして、深草少将の追跡からのがれようと懸命になりました。
一方、少将の方は、いよいよ念願成就の百日目、今宵は恋いこがれ続けた小野小町との思いを遂げられるのだと思うと、気もそぞろになるのもいたしかたありますまい。
深草の墨染の里をあとに、小野の里まで通いなれた近回りの間道伝い。今宵は少将の永い間の望みに天も和するのでしょうか、雲一つなくさえ渡った夜空に、満月が皎々(こうこう)と輝いておりました。少将は足取りも軽やかに、新調の狩衣(かりぎぬ)姿も爽やかに、立鳥帽子(たてえぼし)も一段とりりしく見えました。
はずむ心をおさえて、小町の起居する座敷の前庭に通ずる柴折戸(しおりど)を押し開き、いつも取り次ぎをしてくれる侍女に、合図のロ笛を低く吹きならしましたが、常日頃とはちがって、いつまで待っても姿を見せません。待ちきれずに小町の部屋の縁ばなまで忍び寄ったところ、満月の光をたのしむためかは知れませんが、部屋の中には灯(ほ)かげもなく、人の気配も感じられません。かといって、無断で明かり障子を開く無礼もはばかられ、表口に回って案内を乞うと、老女が現われて、思いも寄
らぬことばを吐くのでした。
「どちらの殿ぎみさまか存じませぬが、わが姫は、今朝がた、侍女を連れて熊野詣(くまのもう)でとか申され、旅立たれまして、この家にはおられませぬが・・・・・・」
「さては、あざむかれたか。小町の方から約束ごとをきめておきながら、何という卑劣な仕打ち。いざ、かくなるからはどこまでも小町を追って、わが思いを遂げずばなるまい・・・・・・」
と深草少将は形相も険しく憤りにもえて、小町のあとをひたすら追うのでした。追っ手に出した家臣の返り事によって、小町ら二人の落ちていった道筋がほぼわかりました。
小町の方は、熊野街道をひたすら南へ向かっていたのですが、少将の君の追っ手らしい人影に気づき、今さらながら、少将をあざむいた自分の罪深さが悔いられると共に、少将の恋の執念の空恐ろしさを覚えるのでした。でもこうなった上は、あくまで逃げおおせねばなりません。小町は熊野街道筋を避けて、わき道に外れ、根(ね)来(ごろ)の里へ向かいました。
少将はそうとも知らず、夜を日についで熊野への道を追いました。恐らく和泉葛城の西寄り、桓武の帝が狩猟に来られて以来知られるようになった雄ノ山峠あたりで、小町に追いつけるはすなのに、さつばり姿が見えません。『さては、またあざむかれたか?』と、道を引き返し、根来への別れ道のところまで来て、辻茶屋で尋ねると、小町らしき二人連れが、半日ほど前に通り過ぎていったとのこと。
小町ら二人は、追っ手らしい人影も見なくなり、ほっとした気持ちで、風吹峠を越えると、眼下に根来の里、その先に白く帯のように横たわる紀ノ川の明るい眺めが見えるではありませんか。か弱い脚、なれない長旅に加えて、追われる身の恐怖感に、身も心もくたくたの疲れよう、つい峠の頂きの平地に腰を下ろし、山裾(やますそ)から吹き上げてくる涼風に、しばしは生き返った思いにひたる小町らでした。
ふと、登ってきた道の方を振り返ると、山の木立の間から見え隠れしてこちらへ向かい、登ってくる一人の男がいるではありませんか。それも都風の身なり、よく見れば恐ろしや、深草少将、二人は今は生きた心地もなく、ふるえおののきながら、ひた走りに麓へ(ふもと)向けて走り下るのでした。
根来の里の山手にある安上の村まで逃げ延びて来ましたが、女の脚と男の脚との違い、早晩は追いつかれてしまいます。侍女はもはやのがれるすべもないとあきらめて、
「どうせ、ほどなく少将さまに追いつかれてしまいましょう。このままでは姫さまも私も二人とも、どんなことになるやもわかりません。何とぞ姫さまのお召し物と私の着物とをお取り換えくださり、私を姫さまのお身代わりにさせてくださいませ」
というので、小町も侍女のことばに従い、傍の藪かげに入って、手っとり早く衣裳を交換しました。
「さあ、姫さまはここから横道を山里深く逃げ延びてください。私は、このまま街道を根来へ向けて下ります。
おさらばでございます。くれぐれもおからだにお気をつけなされませ・・・・・・」
と、二人は別離の涙を流し合う間もなく、小町になりすました侍女の方は、根来寺(ねごろでら)のほとりまで下ってきました。侍女は少しでも、小町の逃げ足を助けるために、街道を外れて西への田なかの道を急ぎました。だが、とうとう住持ケ池のほとりで、少将に追いつかれてしまいました。
少将も今は恋心も失(う)せ、ただ憤りにもえるばかり、追い急いだ旅の疲れも加わって、 「私をあざむいて、一体どこまで逃げていくつもりなのか」
と、小町の衣裳を着た侍女を背後から取りおさえるようにして、飛びかかりました。侍女は心の中
で小町の姫さまへ今(いま)際(わ)の別れを告げ、顔を衣裳の袖で覆い隠すようにして、
「少将の殿をあざむいた私は罪深い女でございます。その罪減ぼしのため、私はこの住持ケ池と やらに飛びこんで死ぬつもりでございます。どうそお手を衣からお離しくださいませ」
「なに! 死ぬのだと?」
「・・・・・・・・・・」
「そなたがそこまで思い切っているのならば、私も一緒に池に身を投げて死のう。せめて、死ぬ前に一目、まだしかと目に止めたことのないそなたの美しい顔を見せてはくれまいか・・・・・」
と、袖の間からのぞき見た顔は、小町ではなくて、いつも取り次ぎをしてくれた侍女ではありませんか。死を覚悟して鎮めた憤怒が、再び強く少将の顔に表われました。
「この期(ご)に及んで小町はなお侍女を身代わりに立ててまで私をあざむくつもりであったのか。憎んでも憎み足りぬ小町め!」
と狂い叫ぶ少将の形相は、阿修羅(あしゅら)、邪鬼(じゃき)のように変じていき、怒り猛(たけ)って足蹴(あしげ)にした侍女をにらみつける眼は、爛々として身の毛もよだつばかりでした。
「小町見ていよ。われはこの池に身を沈め執念の蛇に変じ、主となって、なんじを呪い殺さでおくまいぞ。たとえ、千里万里の彼方にのがれようとも、天に舞い上がり、地に這いくぐって、なんじの魂を奪い取って見せようそ・・・・・・」
とのことばを残し、池に身を躍らせた少将は、見る見るうちに恐ろしい大蛇に変わっていくのでした。
侍女の身代わりによって逃げ延びた小町は、坂本・相谷(あいだに)・安上(あんじょう)・境谷(現在の那賀郡岩出町内)と、少将が住持ヶ池の主である大蛇と変じ自分を呪い殺そうとしていることも知らず、身を隠すため、さすらい続けたのでしたが、いずれの地へのがれても、夜な夜な深草少将の亡霊に悩まされ、責めさいなまれるのでした。
小町は今はもうひたすら自分の非を悔い、少将の魂を慰め祀る以外に途はないと悟り、雄ノ山峠の南、湯屋谷王子社のほとりに、小寺を建て、少将の供養塔を築き、寺の傍(そば)に庵(いおり)を結んで、誦経三昧(ずきようざんまい)に明け暮れたのですが、少将の亡霊はそれぐらいでは鎮まりませんでした。日一日と痩せ細っていく小町は、
「少将の君さま、美しさに奢(おご)り、あなたを裏切った女の罪業(ざいごう)のほどを身に沁(し)みて知りました。いかな方法をもってあなたに詫びてよいのかもわかりません。もし、私の生まれ変わりとして、この地に娘が生まれましたならば、その子をあなたに差し上げましょう」
と謎のような一言を遺言に、小町は庵に籠(こも)ったままあの世の人となりました。
村人たちは、都の美女の無残な末期(まつご)に同情を寄せ、小町が建てた小寺の少将の供養塔に並べて、小町の墓を建て、この寺を小野寺と呼ぶようになりました。また、いつのころからか、この地方では、小野寺の小町墓に寄って祈願すれば、必ず子が授かるという言い伝えが生まれました。
さて、小野小町が亡くなって約三百年の後のこと、根来寺のほとり西坂本に、室家(むろや)右兵衛尉忠家(うひようえのじようさだいえ)
という大金持ちが住んでおりました。何一つ不自由のない裕福な忠家夫婦にも、ただ一つままならぬことがありました。それは子宝に恵まれぬということでした。
ある日のこと、熊野街道筋の日延の里の人が、街道筋の湯屋谷にある小野寺の小野小町の墓に参ると、まことに霊験あらたかで子宝を授かる、という話を、夫婦のもとにもたらしました。忠家夫婦は早速小町墓に参り、盛大に供養をしました。願いがかなえられ、忠家の妻はほどなく懐妊し、十月十日(とつきとおか)の後にめでたく一女を出産、桂(かつら)姫(ひめ)と名づけました。ところが、不思議なことに、桂姫は小
野小町に生きうつしの絶世の美女、近郷にもその評判は高く、若者の誰もが憧れの的としていました。だが、この桂姫にも一つの悩みごとがありました。それは、生まれながらのちぢれ毛、髪の毛の美しさが美人の評価の第一とされていた当時としましては、姫の悩むのももっともなこと。
ところが、ある日のこと、乳母(うば)と共に住持ケ池の畔を通っていると、一陣の風が吹き、たださえ乱れがちな髪が一層ほつれて困り果てた時、乳母がとっさの機転で、池の水で濡らして櫛を人れたところ、不思議や、何の苦もなく梳(す)くことができたのです。それからというものはいつも主人夫婦には内緒で、乳母は住持ケ池の水を汲んできては、姫の髪を梳くようにしておりました。
桂姫が年頃になった頃でしょうか、毎夜のように丑三つ時になると乳母も知らぬ間に、どこから忍び入るのか、若い男が姫の枕もとに来てひそひそと伽をつとめ、夜明け前になると、いずこともなく立ち去っていくのでした。朝になって乳母が姫に問いただすのですが、姫は全く知らぬ様子。
ある夜、乳母が障子の隙間から姫の寝所をのぞくと、そこには端正な美男子が坐っているではありませんか。しかも、その面立ちはいつの日か、住持ケ池の堤ですれちがったことのある美しい若者にそっくりでした。と分かった途端、乳母は鳥肌立つのを覚えました。毎夜姫のもとに通ってくるのは、人間ならぬ魔性にちがいない。姫が魔性のとりこにならぬうちに、遠いところへ嫁がれるよう、ご主人に申しあげねばならぬと思いました。
「奥方さま、まことに差し出がましゅうございますが、お姫さまのご縁談成就を氏神様に祈願いたしおりましたところ、神のお告げに、姫を紀ノ国の男に嫁がせてはならぬ、山向こうの和泉ノ国の男のところへ、それもできるだけ早い方がよいとのことでございますが・・・・・・」
と、乳母が忠家夫人に話しますと、奥方も、
「不思議な符合じゃのう。私も姫の縁談を陰(おん)陽(みよう)師(じ)に占わせたところ、姫の身によからぬ霊が憑(と)りついているとのことで、やはり早々に和泉ノ国に縁づき先を求めよ、とのことじゃ。一人娘ゆえ、婿を入れてわが家を姫に継がせたいのは、やまやまじゃが、姫の身に不幸が起こってからでは悔いが残ろうというもの ・・・・・・」
折りよく、和泉ノ国尾崎の庄の大原源蔵高広という北面の武士との縁談がととのいました。そして、いよいよ嫁ぐ日がやってきました。大安吉日、空も青く晴れ渡り、婚礼の行列は、先頭が住持ヶ池の堤に達しても、後尾はまだ室家の玄関を出きっておらぬほどの、長く盛大な行列でした。この豪華な輿(こし)入れの盛儀を、西坂本の村人は勿論のこと、遠い村からも見物に大勢の人が押しかけてきました。
「何てすばらしいお嫁入りだこと。それに嫁御は大金持ちの娘、三国一の美女とか。わしらも一度で結構だから、顔を拝したいものだ。嫁にもらう男というのは、何という果報者だろう・・・・・」
「嫁御の輿はまだ見えないかのう。荷物だけで一体何(なん)荷(か)あるんだろなあ」
「ああ来た来た、あの供揃(ともぞろ)いが前後についているあの乗り物らしいが、御簾(みす)の中では顔は拝まれまい」
沿道の見物人は、一目嫁の顔を見ようと、大騒ぎ。
やがて、桂姫の輿(こし)が住持ヶ池の堤道の中ほどにさしかかったとき、突如として今までの日本晴れとは打って変わり、一天にわかにかき曇り、一陣の突風が吹き起こり、池の面には大波が渦巻き立ったのです。そして、池の真ん中の水面がむくむくと盛り上がったかと思うと、一匹の大蛇が躍り上がり、稲妻が行列を襲いました。居合わせた人々が思わず身を伏せ眼を閉じたと思った瞬間、姫のからだは輿の中から池の中へまるで吸い込まれるように、大蛇の口にくわえられて、消えて行きました。
あたりは、今起こったことが嘘(うそ)のように、もとの静かで晴れやかな世界に戻っていました。
「ああ、たまげた、たまげた。嫁御もさぞ肝をつぶしたことだろなあ・・・・・・」
「あっという間だったのう。稲妻が走ったような気がし、腹の中が空っぽになるような雷鳴だったと思ったんだが・・・・・・」
見物人ががやがやと騒いでいるのとは別に、姫の輿の周りでは、上を下への大騒ぎになっていました。それもそのはす、輿の中はいつの間にか藻抜(もぬ)けの殻、姫の姿はどこにも見当たらないのです。思い当たる節のある乳母は、奥方に耳打ちして、姫が池の主の大蛇にさらわれたかもしれぬことを告げました。
奥方は、もう見栄も何もありませんでした。輿にすがってただ泣きわめくばかりでした。奥方は、桂姫が小野小町の墓に参って授かった子であることは承知していましても、自分の娘が小野小町の生まれ変わりであり、また、生身の小野小町への思いを終生遂げ得ず住持ヶ池の主と化した深草少将のことなどは、知ろうはすもありませんでした。
深草少将は、今生(こんじよう)で果たし得なかった小野小町への恋慕を、桂姫を奪い取って妻にすることによって、三百年後に思いを遂げたのでした。
この後、誰言うともなく、住持ケ池は、蛇が住む池、住蛇池(じゅうじゃいけ)と呼ばれるようになりました。また、この悲しい出来事は弘く紀ノ川筋に広がり、次のように、子守唄にまで歌われるようになりました。
さんさ坂本室家の娘
嫁に行たとは住蛇池」
龍海