書き続けることの意味

 その日は確か、路地裏の中華屋に入った。
 酢豚を食べたかったが、今日の発音のコンディションでは難しいだろうと、すぐに気がついた。
 それでも食べたくて、メニュー表を見るとその日のサービス定食に酢豚が含まれていたが、それも難しそうだった。どちらも「サ行」で始まるから、今日の口の調子では、発音出来る自信はない。結局、頼めそうな物を早口に叫んで、コップに口を付ける仕草に紛れさせて顔を伏せた。
 
 言葉が出なくなったのは5年ほど前、「吃音」という言葉を知ったのは、その少し後になる。特定の音で始まる言葉が言えない。喉でつかえてしまって声にならない。無理やり吐き出そうとすると、「さささ」「たたた」と音が連なり、結局聞き返されてしまう。そんな障害だ。
 
 特に食べたい訳ではなかった料理が届く。いつものことなのに、ベタベタと脂っこい麺を口に運んでいると、その日は急に情けなくなって、悔しくなって、やりきれなくなって、店を出てから路地の裏でしばらく動けなかった。
 
 23歳の誕生日が少し過ぎた、11月の少し肌寒い日だった。
 大好きな仕事をクビになった日だった。
 
 吃音があると、人によって色々な言葉が言えなくなるが、自分の場合「サ行」と「タ行」が特に苦手だった。タ行は、舌をはじく動きをすると喉がキュッと閉まる気がする、サ行は空気が歯の隙間から出ていく気がして音にならない。だから、自分の名前が「た」で始まることも、会社の名前が「し」で始まることも苦しかった。なんとか文頭にそれらの言葉が来ないように順序を入れ替えて話しても、聞き返された時に会社の名前も、自分の名前すら言えずに固まってしてしまう。
 いくつかの幸運と縁で、自分でも恐くなるほど順調に進み、中学生の頃からずっと憧れていた仕事に就くことが出来たが、仕事を始めて約半年、迷惑をかけながら、働き続けることはもう続けることは出来ないと、思い始めていた頃だった。
 
 入社した時からずっとお世話になっていた先輩に、「このままだとお前が一番きついだろう」と、諭すように言われた。先輩は障害という言葉は一度も使わなかった。これまでも言葉が出なくなる度に、辛抱強く待ってくれた。ずっと面倒を見てくれていた先輩に、そんな気遣いをさせてしまうことが、何よりも苦しかった。最後に、「頑張れよ」と肩を叩かれた。僕は「はい」と卑屈に笑って、自分の惨めさをやり過ごすことしか出来なかった。
 当面の生活費と奨学金の返済のために、半年間住み込みのアルバイトを始めた。なるべく人と関わらなくてもいい仕事を選び、寮でも人と接することを避け続けた。
 しばらくして、同室に一人、同い年くらいの男が入ってきた。出会って5分もしない内に、彼の放つ違和感に気付いた。動作の一つ一つがスローモーションのようにゆっくりで、話をしようとしても、すぐにボーッと意識が飛んだように、遠く一点を見つめていた。仕事中も急にフリーズしてしまったり、手の震えが止まらず作業をストップしたり、緩慢な動作で、お客を待たせて怒らせることも目立った。
 数日経って、夕食後に彼が取り出した大きなピルケースを見て、ハッと言葉を失った。心理学を勉強していたから、薬の包装を見て気付いた。重い、こころの病気の薬だった。仕事の失敗や日常生活での違和感も、病気と薬のせいだと分かった。
 何度か、彼と話したことを覚えている。
 彼は自分自身のことはほとんど語らなかったが、僕はここに来た経緯や言葉の障害について話した。これまで誰にも話したことはなかったのに、彼にだけ、包み隠さずに全て話した。今でも、なぜ彼に話したくなったのか分からない。僕の話を聞き終えた彼は、何も言わず、ただ優しく相槌を打ってくれた。
 しばらくして、アルバイト先の社長や先輩が、彼の話をしているところを耳にすることが増えた。仕事が遅い、何も任せられない。今は周りが面倒を見ることが出来ても、繁忙期に入るとそんな余裕は無くなる。
 その前に辞めさせたい、話の最後にはため息と一緒にそんな言葉が出ることが増えた。
 アルバイト先の社長が彼を食堂に呼び出した。
 食堂で事務作業の手伝いをしていた自分もその場に居合わせた。
 社長は言葉を選びながらも、出て行って欲しいと伝え、うつむいて黙り込む彼に、励ましの言葉をいくつかかけていた。人生を天気に例える、そんな話だった。彼の人生を天気に例えていた、ような気がする。雨の日もあれば晴れの日もあって、そんな内容だったはずだ。今は辛くても、いつかきっと上手くいく日が来る、そんな励ましの言葉なんだろう。優しい言葉なんだと思う。
 社長の言葉に彼は頷き、「はい」と、か細い声で答えた。 「そうですよね」「自分でもそう思います」「すみません」、笑顔のまま彼は繰り返した。諦めたように笑いながら、唇は震えていた。
 
 何か重いものでも背負っているような彼の曲がった背中を見て、思わず目を伏せてしまった。
 外は雨だった。建物の中なのに、彼の背中が強い雨に耐えているように見えたのを覚えている。
 彼の人生はきっと、わずかな晴れ間と土砂降りの雨の繰り返しだった。雨の日の方が、ずっと多かったはずだ。背中を削るような激しい雨の中を、黙々と歩く。そんな人生の終わりは、青々とした空ではないのかもしれない。いつか晴れる、そんな言葉が気休めにすらならないことを、僕は知っている。だから、寮を去る彼にかける言葉が、最後まで見つからなかった。

 大きな荷物を引きずった彼が、僕のベッドの前で足を止めた。彼は下を向いたまま一言、頑張ってと言った。とても誰かの背中を押せるような強さではない、頑張れという言葉には、決して似合わない、弱い声だった。
 それだけ言って、彼は部屋を出て行った。
 
 アルバイトの期間中、何度も彼のことを思い出した。
 幸せになっていてほしい、とは思えない。生きていてほしいとも、やはり思えなかった。幸せという言葉からも、生きるという言葉からも、あまりにも遠い人だったから、何かを噛み締めるような、無理やり作った笑顔を思い出すと、もうこれ以上苦しんでいなければいいと、ただそれだけを思ってしまう。

 仕事を辞めた日から10年が過ぎた。
 今は、彼のことを思い出すことが増えた。
 彼に会うことが出来れば、なんと声をかけるだろう。最後に彼に会ってから、僕自身、何が変わったのだろうか。
 これまで何度も、人生の壁というものにぶつかってきた。そのどれも、乗り越えることは出来なかった。壁を見上げ、途方に暮れて引き返す、そんな繰り返しだった。普通の人生を諦めきれず、未練たらしく壁の前をうろつくように、吃音や障害に関する本を読み漁った。新しい言葉や新しい考え方に触れる度に、これこそが自分の欲しかった言葉だと舞い上がり、再び人生に挫折しては、それらを綺麗事だと切り捨てた。
 
 そうしたことを繰り返す内に、吃音の体験談や専門書に書いてあるような「自己表現の葛藤」だとか、「アイデンティティ」だとか、そういう表現がオーバーに思える程度には、人生を諦めることが出来るようになった。飲食店で好きな物を頼めない、電話で名前を言えない、そういうことが、なんというかただ不便なんだよなと苦笑い出来る、そんな人生の諦め方が少し身についた。
 
 だが、何か伝えられることがあるはずだと、膝をついて人生に、降参した人間でなければ伝えられないことは確かにある。そんな人間でなければ伝えられないことはあると、信じている。

 結局、絞り出したあとに残る言葉は、頑張れの一言なのかもしれない。
 頭の中にある言葉が、吃音のために出てこない悔しさは何度も味わった。でも今は、本当に伝えたい人に、どんな言葉を届ければいいのか、何も分からない自分のことが、情けなくて悔しい。
 だから、あの日彼にかけるべきだった言葉の代わりに、漫画を書いている。
 奇跡のようなグラデーションを経て、いつか彼の元に届くものが書きたい。 

(終)

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