カオナシから学ぶ居場所の作り方
こんばんは、おたつです。
今日(1月7日)の金曜ロードショーで千と千尋の神隠しが放送されています。
過去に仕事のちょっとした研修で『カオナシを主体として観た「千と千尋の神隠し」』という題材で書いた文章の下書きが残っていたので公開してみようと思いました。
私が子供の頃、映画館でみたカオナシはただの化け物だった。
今、改めてみると別の見方ができるようになっていた。
「カオナシはただの化け物ではなく、居場所を見つけようともがく私自身だ」と。
そこで、カオナシ視点で「千と千尋の神隠し」を観ることで居場所の見つけ方を学べるのではないかと考えてみた。
カオナシは湯屋の前で人だかりの中、誰にも気付かれず、たたずんでいるシーンが初登場。
カオナシの存在に初めて気付いたのも、初めてカオナシに声をかけたのも主人公の千尋だ。
誰にも声をかけられず、存在すらも認識されていないカオナシが雨の中湯屋でたたずんでいると「そこ濡れませんか?ここ開けておきますね」と千尋に話しかけられる。
作中で、カオナシはこのシーンで初めて人の優しさに触れた。
今度はカオナシが千尋に恩返しをする。
番台で薬湯の札をもらえない千尋にカオナシは札を渡し、お礼を言われる。
無意識のうちにお互いが感謝し、感謝される。
このシーンでカオナシは「千尋という存在が自分の虚しさを埋めてくれる(千尋の中に自分の居場所がある)」と感じたのではないだろうか。
だが、その直後、千尋に大量の札を渡すと、拒絶されてしまう。
カオナシは言葉を発することが出来ないため、人に何かを与えること以外のコミュニケーション手段を知らず、戸惑い、一時千尋の前から姿を消す。
その後オクサレ様の騒動の中、砂金を前に大喜びする人々を目の当たりにし、「必要なのはお湯を出す札ではなく、金なのだ」と認識したのだろう
まずは砂金を餌に蛙を吸収、言葉を手に入れることに成功。(砂金で釣ることで初めて千尋以外のキャラクターに存在を認知される)
しかし、砂金でどれだけ多くの人に持ち上げられ、お客様扱いされても、カオナシの心は満たされない。
再度千尋と遭遇し、砂金を渡そうとするも拒絶されてしまう。
千尋を居場所として認知しているカオナシは千尋に拒絶されたことに逆上し、湯屋の従業員に自分の惨めさを笑われたと被害妄想を抱き、従業員を飲み込んでしまう。
その後、カオナシはもてなしを受けるも、「千を出せ」と訴え続ける。
カオナシは砂金や料理に価値を見出せず、ただただ自分の居場所(≒千尋)を求めていたのだ。
湯屋の人々にどれだけもてはやされようと、認知されようと湯屋の人々が見ていたのはカオナシではなく、砂金であり、そこに居場所などないことをカオナシは心の底で分かっていたのではないだろうか。
千尋は言葉も砂金も何も持たない状態のカオナシを唯一認識し、優しい言葉をかけた。
だから、カオナシは「千尋こそ自分の居場所だ」と勘違いし千尋に固執するようになった。一方で、千尋は言葉やお金や食べ物を手にした後のカオナシを一向に許容しない。
異形な姿に成り果てたカオナシを前に、千尋は正面からカオナシに訊ねる。
「家はどこ?居場所はないの?」
カオナシは「セン欲しい。寂しい」と答える。
この時点のカオナシにとっては千尋こそが居場所なのだ。
千尋はカオナシを救おうと神様にもらった団子を差し出す。
カオナシは団子を食べたことにより、吸収した人を吐き出してしまい、自分を苦しめる千尋に逆上する。
一方吐き出せば吐き出す程、千尋はカオナシに手を差し伸べるようになっていく。
カオナシを誘導する千尋にリンが「なんで呼んじゃうんだよ」と尋ねると「湯屋を出たほうがいいんだよ」と答える。
見せかけの砂金に集る人々、子供がすりかわっていても顔が同じだからと異変に気付かない母親、叔母を母親と間違える子供、人間だからと千尋を差別する湯屋の人々…この作品ではしきりに、表面的なものしか見ず、本質的なものを見ない湯屋の人々が描かれている。
「湯屋を出たほうがいいんだよ」という千尋の言葉には、「カオナシに本質的な居場所を見つけてほしい」という思いがこめられているのではないだろうか。
場面は変わり、銭婆の家に迎えられたカオナシが編み物を手伝うシーンがある。ここで、銭婆に「うまいじゃないか、助かるよ」と声をかけられる。言葉も何も持たないと思っていたカオナシにも人を手助けできる能力があったのだ。
カオナシは居場所とは、背伸びをせずに自分にできることをなし、ありのままの自分を受け入れてもらえる場所であると認識し、居場所だと思っていた千尋への固執をやめ、銭婆のところに残る選択肢を選ぶことができたのだ。
現代において、SNSを通して幸せな写真や情報が痛いほど目に入る。
それに比べて自分は…と苦しくなる人もいるだろう。
自分も同じようにSNSでアピールをすれば、人から羨望の眼差しを浴び、居場所が見つかり、幸せになれるのではないかと錯覚してしまう。
しかし、背伸びをすればするほど誰も本来の自分を見てくれなくなる。
言葉を身につけ、砂金を配っていた時のカオナシのように…
カオナシがしていた手芸のように、小さなことでも自分のできることはないだろうか?
そこに他者が加わることで感謝し、感謝される関係が自ずと生まれていく。
小さなことでいい。『自分のできることは何か?』
そう問続けることこそが実は居場所を見つけるための近道なのかもしれない。
その積み重ねはいつか必ず誰かを惹きつける。
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