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【懐かしい】#シロクマ文芸部

懐かしい匂いがした。
秘密基地に続く道の匂いだ。
土の匂いと踏まれた草の匂いと枯れ草の匂いと雨の匂い。
「それだけじゃ、ないんだよなぁ」
多分それが一番大切な要素なのに言葉で言い表すことができない。
でもその匂いを嗅ぐと、今はもうない秘密基地に心だけは飛んでいく。
それは名前の知らない木だった。
地上から1.2mぐらいのところで、枝が横に伸びていて、ひとつの枝に2、3人乗ってもびくともしなかった。
頭上にも枝は伸びていて、尚且つそれに野葡萄が絡んでいた。
ちょっとぐらいの雨は簡単に凌げる。
11月ぐらいになると全ての葉が落ち、秘密基地はただの木に戻る。
冬場は近くの団地内にある秘密基地2号に屯する。
でもやっぱり、獣道を歩いた先にある秘密基地の方が好きだった。

「あれ?」

最後に秘密基地に行ったのはいつだったろう?

高校2年生になる春。区画整理で秘密基地のあったあたりの造成が進んでいたのを見てショックを受けたのは記憶にある。
しばらく秘密基地のある方へ行くことがなかった。
偶然、家族で出かけた際、秘密基地が見える丘の上の道を車で通った。たくさんの工事車両が動いていた。秘密基地だったあの木はもちろん、そこへ続く細い獣道も何もかも、黒い土に覆われ、元の姿を思い出すことが難しかった。

何か忘れている。

「中学生になってまで秘密基地はないだろう?」
そう言ったのはフタモリだった。
別に秘密基地で遊ぼうと誘ったわけではない。
あれだけ遊んだ秘密基地。中学生になった途端、誰も行かなくなった。少なくとも俺と同じ学年だった連中はそうだった。
夏休み、今でも誰かが秘密基地にいるかどうか気になった。
「だからちょっと見てみよう」
言い出したのは僕ではなかった・・・はずだ。
僕とキヨカワとフタモリとフタモリ弟。あとニシザワとアイタ。
フタモリ弟の話だと、僕たちが小学校を卒業した後は誰も秘密基地には行っていないという。
「なんで?」
キヨカワが訊ねる。
「兄ちゃんたちとじゃないとつまんないから」
フタモリ弟が答える。
フタモリ弟はひとつ年下。他にも年下の秘密基地仲間はいた。
「2号基地で遊んでいる」
団地の半地下の物置きスペース。どこかの家で粗大ゴミに出しそびれたソファや電源コードの千切れたワンドア冷蔵庫などを活用して秘密基地2号にしていた。
団地の友人たちを自分たちの秘密基地に招待した時、彼らもまた団地内のその秘密基地に案内してくれて、それ以来、ふたつの基地はみんなの秘密基地1号2号となっていた。
秘密基地1号は僕が小学校に入る頃はすでにあり、近所の年上の友人たちに連れて行ってもらってその存在を知った。
年上の友人たちはやはり小学校を卒業するとともに秘密基地からも遠去かっていった。
一年も前ではない。
それでも、秘密基地に通じる道を歩いていると、ひどく懐かしい気持ちになった。
それは匂いだ。
久しぶりに嗅いだ匂いのせいだった。

土の匂いと踏まれた草の匂いと枯れ草の匂いと雨の匂いと・・・。

冷たい汗が噴き出る。
思い出せ。
思い出すな。
あの夏の日。僕らはそこで何を見た?誰に会った?
ぶるりと体が震えた。

アイタが言うんだ。
「やっぱり行くのやめようぜ。アイツがいたらどうする?」
ニシザワが「まだいるのかな?」とぽそりと言う。
「別にいたからってなんてことねぇだろう?」フタモリが言う。
「ボクはあれっきり見てないよ」と言う弟に「こっちに来ていないんだろう?」とフタモリが言う。
その時、先頭を歩いていたキヨカワが足を止め指を差した。
「なんだよ。急に止まるなよ」
僕はキヨカワの背中にぶつかりながら言った。
僕の後ろでニシザワの短い悲鳴が上がる。
アイタも「あれなんだ?」と小声で呟く。
「やべぇヤツかも」
フタモリの一言で、僕たちはくるりと反転して駆け出した。
僕は走りながら一度だけ後ろを振り向いた。
キヨカワが腕を上げ、指を差したまま佇んでいる。
「キヨ!」
大きな声で彼を呼んだ。
僕の隣を走っていたフタモリが、キヨカワの方に駆け出す。
「お兄ちゃん!」
フタモリの弟が叫ぶ。
思わず僕はフタモリの服を引っ張った。
「もう間に合わない」
そう言ったのは誰だったろう?
僕だったろうか?

記憶はそこで終わっている。
まるで強制終了をかけたように。

「少しの間、抑えていてくださいね」
望月先生が言う。
診察室の処置用ベッドに横たわって注射をしてもらうと、だいぶスッキリした。
診察室は病院特有の薬の匂いとミントとは少し違うが清涼感のある香りが混じっている。
看護師さんが使い終わった注射器を片付けていく。
クリアになっていく頭の中に、そこだけ黒くマジックで塗りつぶされたような箇所がある。
でも、そこに意識を持っていくのはよくないことを知っている。
僕は一度目を閉じて深呼吸をする。
診察室の独特の空気を吸い込む。すると今まで気になっていた黒い塗りつぶされた箇所が気にならなくなる。
注射跡を抑えていた箇所を確認した。
もう大丈夫だろう。
脱脂綿を近くのゴミ箱に捨てる。
もう一度深呼吸をする。
もう、大丈夫。
そう思えた。
「匂いというのは厄介で、どんな強固な暗示でもその隙間を突いて入り込んでしまうものです」
望月先生が言う。
「だから、その懐かしい匂いがしても、深追いせず、さっさとその場を立ち去ることが大事です」

土の匂いと踏まれた草の匂いと枯れ草の匂いと雨の匂い。

いやいや。と首を振る。
それはもう思い出してはいけない匂いだ。



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