【ソファーの下の浜辺】前編#妄想レビュー返答
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弟の部屋のソファーのカバーが深い青色になったのは、僕の夏休みが始まる少し前だった。
僕はずっとお祖父様と、弟はお祖母様と暮らしていた。
お祖母様が亡くなって、弟がこの屋敷に来たのは去年の秋の終わり頃だった。
弟は僕よりも2歳年下だけど、とても小さくて、体もあまり丈夫じゃないようで、ここに来てから春になるまで、ほとんどベッドの上で過ごしていた。
暖かくなってようやく一緒に本を読んだりできるようになった。弟は笑うととても可愛いけれど、あまり口をきくことはなかった。
学校から帰った僕が弟の部屋に行くと、弟はソファーに座って図鑑を見ていることが多かった。
弟の隣にはいつも妙な形のぬいぐるみがいた。
獏のぬいぐるみだと教えてもらったのは随分後になってからだった。
その日いつものとおりに弟の部屋に行くと、少しだけ雰囲気が違った。
そのカバーと、カーテンが変わったせいだった。
カーテンはそれまで緑色の葉っぱの模様のカーテンだったのが、水色のカーテンに変わっていた。よく見ると上の方には白い星の模様があった。
そしてソファーにかけていたカバーもオレンジ色のフワフワしたカバーから、青色の少しザラリとした肌触りだけど、気持ちいいものに変わっていた。
そして珍しく弟から僕に話しかけてきた。
「おにいちゃん。これ」
小さな手のひらを広げて見せてくれたのは白い小さな扇形の貝殻だった。
「どうしたの?これ」と訊ねると「あった」と答える。
「あった?どこに?」
「ここ」
ソファーの近くの床を指差した。
弟は庭の小さな白い石とか、綺麗なキャンディの包み紙を宝物としてガラスの瓶に入れている。白い小さな貝殻はそこにはなかったはず。何故なら弟は海を知らないから。
夏休みになって、弟の部屋で過ごすことが増えた。
弟の部屋の机で自分が宿題をしている間も、弟はソファーでぬいぐるみを抱え、図鑑や絵本を読んでいる。
時々、弟がそこに本当にいるのか不安になる程、弟は静かだった。
「あ」
小さな弟の声がした。
もそもそという音もする。
振り向くと、ソファーから降りて何かを拾おうとしている弟の姿が見えた。
ぬいぐるみを落としたのだろうか?
ちょうど宿題も終わったので、弟のいるソファーの方へ駆け寄った。
「これ」
弟は拾ったものをこちらに見せた。
小さな巻貝だった。
そのまま弟は図鑑の並べてある本棚に向かった。
小さなガラス瓶を取るとその中に巻貝を入れた。そして瓶を持ってこちらに戻ってきた。
「いっぱい」
瓶の中には小さな貝やガラスが入っていた。
「どうしたの?」
「あった」
弟はニコニコ笑って答える。
「あった、って、部屋に?」
弟は頷くと「ここ」とソファー近くの床を指差した。
毎日、僕達がおやつを食べている時間に、弟の部屋は掃除されている。
どこの部屋よりも念入りに掃除がされていると弟の主治医の先生が話していた。
なんとなく気になって、ソファーの下を覗いた。
「え?」
そこには信じられないものがあった。
見えたというのが正しいかもしれない。
それは海だった。
砂浜に打ち寄せる波。
それがスクリーンに映し出されているかのようにそこに見えた。
慌てて立ち上がると、何か仕掛けがあるのかと辺りを見たが、映像を映し出しているような機械は見当たらない。
もう一度、今度は床に寝そべるようにしてソファーの下を覗き込んだ。
「海だ」
思わず声が出た。
そんな自分を目を丸くして見ている弟を見上げて言った。
「見てごらん」
弟は僕を真似て腹這いに寝転んだ。
普段床に寝転ぶことなどしたことがない弟だったから、それだけで楽しくなったのだろう。僕の隣でニコニコ笑っている。
「ほら、ソファーの下を見てごらん。海だよ」
「うみ?」
自分が指差す方を弟は見た。
これといって反応がない。
ひょっとして弟には海が見えていないのだろうか?
「奥の方に波がくるのが見えない?」
「なみ?」
そう言って弟はソファーの下に腕を伸ばした。
僕は慌てて、弟の手を掴んだ。映像のように見える波だけど、弟が攫われるのではないか?そう思った。
「あれ、うみ?」
そうか。弟は海を知らないのだ。
「そう。海」
弟はもそもそと起き上がると、図鑑を一冊持ってきた。
「くじらさん、いる?」
海の生き物図鑑。弟のお気に入りの一冊だった。
「海にはいるけど、あの海にはいるかな?」
弟はまた寝そべってソファーの下を覗き込んだ。
「あのね」
辿々しく話し始めた弟の話に僕は驚いた。
ソファーの下の海、いや波が時々手前まで来ることがあるのだというのだ。
そして、その波が去った後、何かしらの置き土産があるらしい。
ドアがノックされた。
御園さんが「おやつの準備ができましたよ」と言う。
僕たちが床に寝そべっているのが見えたのだろう。御園さんは部屋に入ってくると「セイちゃんはお着替えしてからおやつですよ」と言った。
「ソウくんもきちんと手を洗ってくださいね」
お祖父様と先生以外で、この家にいる人、この家に来る人の中で僕らを「坊っちゃん」と呼ばないのは御園さんだけだった。
「ソウくん、セイちゃん」呼びは御園さんだけだ。
御園さんは春から新しく加わったお手伝いさんだった。ここに来る前は大きな病院で看護師さんをしていたと聞いた。弟のために来た人だと思った。主治医の先生は一緒にこの家で暮らしているが、御園さんが来てから、昼間時々外の病院へ仕事に行くようになった。
「天明先生は優秀なお医者様ですからね」
先生がいないのを寂しい話をした時、御園さんが言った。
「先生はふたりのお父さん、お兄さんの代わりもしてくださるから寂しく思うのはわかります。でもね、どこの家のお父さんも大抵は昼間はお仕事に行っているんですよ」
父も母もいない僕たちにはピンとこない話だった。
そういえばお祖父様もいつもお仕事で、あまり屋敷にいない。
御園さんはいろいろ話してくれる。その中で、先生がお祖父様の甥だということも知った。
おやつを食べ終わった頃、一度御園さんがダイニングに来た。
「御園さん。部屋のお掃除の時に貝殻とか見つけたことある?」
御園さんは少し驚いた顔をした。
「たった今見つけたわ」
「どんな貝?」
「正しくは貝じゃないけど…って、ソウくん。星砂こぼしっぱなしはダメよ」
「星砂?」
御園さんに付いて弟の部屋に行った。
御園さんは小さいジッパー付きのビニル袋をポケットから取り出すと、床に溢れている白っぽいモノを摘んで入れた。
「セイちゃんは星砂持っていないからこれはソウくんのじゃないの?」
「星砂なんて持ってないよ」
御園さんは「え?」と手にした袋を見た。
「じゃあ、これは?」
袋の中には白っぽい、トゲトゲした砂が入っていた。
「全部掃除機で吸っちゃうのも悪いと思って」
僕はその袋を受け取った。
少し背伸びした弟が覗き込む。
「御園さん。これも海にあるの?」
「そう。どこの海にもあるわけじゃないけどね」
御園さんが掃除が終わるまでリビングにでもいるようにと言われた。
リビングのテーブルの上に置いたビニル袋を弟とふたりでずっと見ていた。
星というかトゲトゲした砂は僕らの心を鷲掴みにした。
弟の部屋にいる時間がますます増えた。
いつ波が近づくかわからない。
宿題をする時以外は、ふたりでソファーに座って本を読んだり話したりした。
いつもは弟の昼寝の時間は僕は自分の部屋に戻っていたけど、その間も弟の部屋のソファーの下を覗けるようにソファーの下に寝転んでいた。
御園さんが星砂を見つけた3日後、ソファーの上で寝転んで本を読んでいた僕の耳に波の音が聞こえてきた。
僕は慌ててソファーの上から下を覗き込もうとしたその時だった。
波がソファーの下からフローリングの床の上を滑るように現れた。
弟が昼寝をしている間は決して起こしてはいけないと知っていても、僕は弟の名前を大声で読んだ。
「波が来た」
弟が目を覚ました。
さぁーっと波が引く。
僕は慌ててソファーを降りると引く波に手を伸ばした。
「!」
冷たい水の感触より、指の先に何かが触れた。
僕はそれを慌てて掴んだ。
掴んだものを引き寄せる。
それは少し青みがかったガラス瓶だった。
弟はパジャマのまま、僕の隣にしゃがみ込んでソファーの下を覗いた。
引いていく波。白く泡立つのも見える。
弟はキョロキョロとソファーの下を見渡す。
そうか、と僕は思った。弟は何度か波を見ているのだ。
「あった」
そう言って弟が拾い上げたのは桜色をした貝殻だった。
波が引いた後の床には、波があった跡ひとつなかった。
ソファーの下を覗き込むと、テレビの向こうに見えるかのように波も砂浜も遠くに見えているだけだった。
ガラス瓶には何か入っているようだった。
ガラス瓶の表面のガラスが歪なせいか、それが紙らしいということぐらいしかわからなかった。
そしてガラス瓶の口にはコルクがすっぽりと入っていて取り出すことができなかった。
夕方、先生が部屋に来た。
お昼寝が短かったせいか、弟はまた眠っていた。
それを調子が悪くなったのと勘違いした先生に昼間の出来事を話した。
おそらく普通の大人だったら、学校の先生にでも話したら、ソファーの下から波が出てきたなんて言っても信じないだろう。そう思いながら話した。
「なるほどね。そういうことがあったら青藍も目を覚ましてしまうな」
先生はそう言った。
そしてソファーの下を覗き込む。僕も一緒に覗いた。
波は昼間より遠くに見えた。
先生にも見えているのだろうか?
「なるほどね」
先生はそう言うと立ち上がった。
僕は先生に、弟の集めた貝殻の入った瓶や、星砂、そして昼間拾った瓶を見せた。
再び先生は「なるほどね」と言った。
後編に続く