天使が横切る
天使のような悪魔のようなそんな人だった。
笑顔を見ると幸せになるし、この人の望むことだったら何でもできると思わせた。
そんなあの人が、ある日突然姿を消した。
あまりにも突然で、何の形跡も残さず消えた。
そういえば、あの人の名前以外自分は何も知らなかったことを思い出した。
どこに住んでいるのか?自分と会っていない時は何をしているのか?
電話番号も知らない。オンラインでの繋がりもない。
確かに長い付き合いではなかったが、濃い付き合いだったとは思っている。
約束をしなくても会える相手だった。
大きな瞳が好きだった。
その瞳が隠れてしまうほどくしゃくしゃに笑う笑顔が好きだった。
高めだけど少し枯れた声で舌足らずに自分を呼ぶのが好きだった。
悪戯を思いついた時の顔も、子どものように夢中になる顔も、時々、物憂げに遠くを見ている顔も好きだった。
そういえば、自分より歳上だとは言っていたけど、年齢すら訊いたことなかった。
最後の別れもいつも通り「じゃあね。バイバイ」と子どもの仕草のように顔の横で手を振ると、小さな背中を丸くして店を出て行った。
次の約束はない。
それもいつも通りだった。
それきり、あの人を見ることはなかった。
季節が変わっても、あの人は自分の前に姿を現さなかった。
誰の前にも姿を現さなかった。
誰もがあの人のことを気にかけているようだった。
でも誰もあの人のことを口には出さなかった。
季節が変わる。
雑踏の中で、あの人に似た背中を探す自分に気づく。
偶然出会うことのあった図書館に足を運ぶことも増えた。
馴染みの店でもついあの人を待ってしまう。
でも「あのひと、来た?」と口にできないのは何故だろう?
季節が変わる。
少し前、勤め先から辞令が出て、自分は部下を持つ身になった。
昇進は嬉しいはずだが、何故だかため息が出たのを思い出す。
「何、くたびれちゃっているんだよ」
笑いを含んだ、あの人の声が聞こえた気がして振り向いた。
白い鳥が飛んで行くのが見えた。
鳥を見送って再び前を向く。
小柄な黒猫がこちらを見ている。
ゆるゆると首を振って歩き出す。
見上げた青い空の高いところを白い雲が横切って行った。