【紅葉から】#シロクマ文芸部
紅葉から伸びる白く長い腕。気味が悪いという屋敷の主人が、その紅葉の木を切ってほしいと依頼があった。
見に行くと紅葉はまだ樹齢は20年にもなっていないだろうと思われる木は、幹はさほど太くないのに背丈ばかりがひょろりと伸びて、赤く色づいた葉を茂らせている。
「切るに及びません。というか気になるのなら私がいただいてまいります」
樹木医の白樺が言った。この季節だというのに白いワイシャツに綿のパンツといういでたちだった。
伐採するつもりで呼んでいた造園屋に紅葉の木を掘り起こさせ、根元をぐるりと藁で包むと「では、お先に」と紅葉を持って白樺は造園屋と共に去って行った。
屋敷の主・白石はやや呆気に取られた表情でそれを見送った。
「えっと…」
白石は残った男を見た。
「白い腕の主はあの紅葉ではない。ということです」
「でも確かに、あの紅葉の木から腕が…」
男はぐるりと辺りを見た。
個人の別荘にしては大きい屋敷は、温泉地でもあるこの町に、とある企業の保養所として建てられたのだという。
「私はこの町の出身でしてね。この辺りは昔は何もない雑木林でした」
今でもこの保養所である屋敷以外は何もない。シラカンバの木の目立つ雑木林のままだった。
「この建物は白石さんの設計ですか?」
「いいえ。違います」
白石は首を振る。
「ただ、この建物の持ち主が取引先でしてね。この町のこの場所というのが気になったんです」
「気になった?」
「えぇ。この屋敷のある場所はまだいいのですが、そうですね。あそこ。見えますか?」
白石の指差す方を男は見た。
100mも離れていない場所に黒っぽい岩が見える。
「昔、私が子どもの頃はあの先に行く時はムラ…その頃はすでに町でしたが『ムラのサイジ』と呼ばれていた神社の宮司?とでも言いますか神職者に祓ってもらってから行かないと怪我をするなど大変な目に遭うと言われていたんです」
白石は言った。
「幸いというか、この保養所のすぐ後ろまでを買い取っていたようで、向こう側にはなかなか人が行くことはなかったようです」
白石が買い取ったのは去年の11月。地元に残る幼友達にそのことを話した。
「よかった。ムラのサイジが気にしていたんだ。あそこができてすぐに人が居なくなっているはずだ。と」
「どういうことですか?」
男は訊ねた。
「いや。私もよくわからないです。今年になって改めてムラのサイジにその話を確認したんですが、ムラのサイジも『神の気配はわかっても、人の気配はわからない。ただ、一時期、神の気配が妙だったことがあった』というだけなんです」
男は「ふむ」と顎を撫でながら、黒い岩を見た。
「岩に近付いても?」
白石に問う。
「ちょうど岩の前に水が湧いて流れているところがあって、その前までなら大丈夫だと思います」
男は白石にそこで待つように言うと、岩の方に歩いて行った。
白石は紅葉が生えていた場所に立った。掘られた後は造園屋が積んできていた土で埋められている。黒い土はそこだけ湿っているような感じだった。最初から切るのではなく掘るつもりだったのだろうか?と白石は思った。
男は戻って来ると「確かに向こうは神の域ですね」と言った。
白石は僅かに首を傾げたが、昔からムラのサイジが言っていた言葉だと思い出した。
「ムラのサイジに会えますか?」
「えぇ。むしろ終わったらモチヅキさんをお招きするよう頼まれてたくらいです」
白石は言った。
「山神様は穢れを嫌うので、穢れを祓ってから山に入るのが昔からの決まりです」
ムラのサイジ・白川は言う。
「神の気配が変わったというのは?」
モチヅキが問う。
「8年ほど前でしょうか?山神の怒りの気配を感じたのです」
白川が答える。白川はモチヅキよりだいぶ年上だが、モチヅキには丁寧な口調で話をする。
「町の人間が怒りを買ったらすぐにわかります。がどうやら地元の人間ではないようだと。あの屋敷、保養所の持ち主である企業に問い合わせたんです。誰か、あの保養所を訪れた後、怪我をしたら病気になっていないか?と」
企業は白川を相手にしていなかった。
「わからず仕舞いでした。ただ、それ以降、あの保養所が使われている様子がなかったんです」
そして1年ほど前、町の人間である白石があの保養所を買ったことがわかった。
「実は使う気はなかったんです。ただあのままにしておくのは良くないような気がして買うことにしたんです」と白石は言っていた。
「買わせたのはやはり山神様でしょうか?」
白川が低い声で言った。
モチヅキは「さぁ」と言った。
「白樺さんは?」モチヅキが訊ねた。
「シラカンバ?」
「樹木医の。こちらの人ではないのですか?」
「そのような者はいませんね」
白川はきっぱりと言った。
「白樺さんを呼んだのは白石さんですか?」
「いえ」
神社を出た後、モチヅキは白石に訊ねた。
「白山造園さんには連絡しましたが、今日になって樹木医さんが一緒で驚きました」
翌日、モチヅキはあの黒い岩の前に立っていた。
岩の手前に、前の日にはなかった紅葉の木が一本生えていた。
黒い岩の向こうに白樺が立っていた。
モチヅキは頭を下げた。
「やはり祭祀でしたか」
白樺が言う。
「紅葉の下の人間はこちらで弔わせていただきました」
「彼を埋めた者たちは?」
「さぁ?」
モチヅキの問いに白樺は首を傾げる。
おそらく神の怒りを買った者たちは亡者と成り果てているであろう。
「ただこちらも加減がわからなかったので、あそこに誰も近付かない。こちらも地元の者がいなければここから向こうには出られない。どうしたらよいかと思っていたら、ちょうど、あれがあそこを買ったというわけです」
流れる水の結界と苔生す岩の結界。
何百年も昔のモチヅキが結んだものだ。
「あなたもきてくれたおかげで助かりました」
白樺はにこりと笑った。
「この紅葉の下に彼はもういないんですね?」
「そうですね」
白樺は少し手前に進んだ。
「もう随分前にこれと同化していたようです」と言った。
モチヅキは紅葉の幹に触れる。
幹が揺れ、赤い葉が落ちる。
その一枚が白樺の足元に落ちた。
白樺はそれを拾い上げて言った。
「ここだったら、私も会いに来れる」
モチヅキは身を震わす紅葉を見上げた。