(期間限定無料)【小説沙門清正 宗像周遊編⑤】悪魔崇拝者二人について
「板垣退助は自由民権運動の旗手でしょう。そして谷干城は学習院の創設者でもあられる。お二人とも近代日本の理性的な側面の象徴であるかのような方々だ」宗像の後輩である筑後が、歴史上の登場人物をまるで実際に知っているかのように弁護して言った。「清正さんでしたか?君のいう様に明治維新の闇とはとても思えない」
「歴史はつねに勝者によって記されます。一方が敗れ去ると、勝った側は歴史書を書き著す。自らの大義を主張し、征服した相手を貶める内容をね」清正はナポレオンの言葉を思い出しながら言った。
「しかし、明治維新の中心は薩摩藩と長州藩でしょう。土佐藩は明治維新に寄与したが、その革命の果実は薩摩と長州の藩閥華族どもに独占された。それに反発して自由民権運動が起こるんじゃないか」筑後は負けじと食い下がる。「土佐藩である板垣退助先生、谷干城先生はその藩閥政府に対抗した市井の闘士であり、民主主義の旗手だ」
「板垣と谷こそ、旧華族じゃないですか。それに薩摩藩・長州藩が明治維新の純粋な勝者とはとても言えないですよ。その自由民権運動とやらの動きに先んじて、萩の乱、そして西南戦争が起こっています。いわゆる心から国のためにという薩摩や長州の志士たちはこの時にみんな殺されてしまった」清正が言った。「吉田松陰や西郷隆盛のように心からそう思っていた国士たちだけでなく、日本を植民地化しようとする外国イルミナティの連中からすれば手がかかるであろう口うるさい、タフな連中もすべてね。残ったのは金と女さえあてがってやればどうとでも動く羊飼い連中か、年少のものたちばかり。実際に、西郷隆盛が西南戦争にて城山で散ったときに前後して、木戸孝允はその西南戦争中に謎の病死を遂げています。また結核で死んだと言われている髙杉晋作も結核とは言われていますが、まだ20代だった。毒殺を思わせる不審な死に方ですね。大久保利通、大村益次郎も西南戦争直後に安倍首相のような謎めいた暗殺事件に遭難し死亡している。これら西郷、髙杉などの英傑たちの死と、木戸や大久保、大村のようなタフネゴシエイターたちの死がどれだけ短期間に集中的に起こったかを考えれば、このことはとても偶然とは考え難い。先んじて起こっていた、髙杉晋作や坂本龍馬や中岡慎太郎らの死に加え、これらの一流や1.5流のネゴシエーターたちは皆死に、あとは利でつればどうとでもなる連中が国政を握った。山県有朋や伊藤博文がそれらの代表格でありますが、板垣退助、谷干城がそれに便乗して栄達を果たしたことを考えれば、それらを薩摩・長州と言ってしまうのは短絡的な思考ではないでしょうか」
「清正さん。あなたは西郷隆盛をずいぶんかっているようだが、実際は征韓論という野蛮きわまりない主張をしてとなりの朝鮮半島に迷惑をかけようとしたじゃないか。世界一の文明国、朝鮮を攻めようとしたという一事をもっても西郷が一流とはとうていいいがたい」筑後はまるでカルト宗教教祖の朝鮮人であるかのように興奮した口調で言った。目のふちが少し赤くなり、火のようであった。火病の名前の由来はこの辺りからきているのかもしれない。
「朝鮮討つべしという征韓論を主張したのは板垣退助ですよ。その板垣を止めたのは西郷隆盛です」清正は答ええた。「この背景にはけんか退助と言われた板垣の攻撃的な気質と、政治力学が関係するでしょうね。当時は岩倉使節団を西洋に派遣していた時期で大久保、木戸、岩倉、伊藤など薩摩長州のVIPは政治をほうったらかしにし外遊中。ご指摘の通り、板垣は自身の土佐藩の勢力をその間に拡大したいと模索中でした。ですが、実際、維新のさきがけとなったのは薩摩長州ですし、特殊なイベントが何もなければパワーバランスはそのままです。戦争が得意でもあった板垣は戦争がして、功績をあげ、自らの勢力の拡大をしたかったのです。当時西洋と外交を開いた日本と国交を断絶していた朝鮮半島を討つべしという、いわゆる征韓論を主張したんです。
「教科書の決まりきった描写と公立中学の穴埋めドリルしかしらない素人目には西郷が主張していたように思えるが実際は違うのか」宗像が言った。
「その通りです。西郷は戦争をどうしてもしたがる板垣に対して、『俺が韓国に一人で言って、話して説得してくる。もしおれが殺されたら、板垣さんの言う通り、戦争でもなんでもすればいい』と韓国政府に使節を派遣する、いわゆる遣韓論を提唱したんです。板垣の主張をけん制するために。そこまで言われてしまえば板垣としてはどうすることもできない」清正が言った。
「検定教科書や御用メディアで言われていることはまるで真実とまるで真逆だな。それでは西郷さんがしたのは、朝鮮をうつことではなく、朝鮮と友好的な同盟を結ぶことだったということか」惟門が言った。
「その通り。世間で言われていることなんてあてにはなりません。戦後のこの国のリーダーたちは日本人ではないですからね。特にメディアなんかは完全に支配されていますから。テレビなんて捨てた方がよろしいですよ」清正は惟門の方に向かって答えた。「もともとこのあたりの話は、西郷と大久保の仲を割るために板垣や、肥前の連中が企てたという話もあるくらいです。この韓国と同盟を結ぼうという遣韓論の中には西郷隆盛の大アジア主義が含まれていました。つまり日本は朝鮮半島や中国の清などアジアの有色人種国家と共同して、帝国主義時代の西洋の白人諸国の侵略に対抗する、というね」
「なるほど、当時はアヘン戦争とかインドの植民地化とか、アジアへの非人道的な侵略が進んでいた時代だったよな、たしか」宗像が言った。「それでその西郷隆盛の大アジア主義はどうなったんだっけ。遣韓論事件の顛末は?」
「話を聞きつけた留守政府が急遽戻ってきて、西郷の韓国行を差し止めました。表面的には西郷の身を案じるだの、戦争になれば時期尚早だのといった理由が挙げられましたが、実際、判断した大久保の考えの基盤となったものは二つでしょう」清正は答えた。「一つ目は、国内的な問題。薩長に対抗した勢力を築こうとする板垣主導の動きを止めたかったということ。二つ目は、大久保自身は西郷の『アジアと共同し、西洋列強の帝国主義と対抗していく』というスタンスではなく、『西洋列強のように外国を侵略できるような国になって、西洋列強の一つになろう』という方向性を志向していたということですね。実際に、このいわゆる征韓論が終わって舌先もかかわないうちに江華島事件を起こし、朝鮮と日本が有利な不平等条約である日朝修好条規を結んでいます」
「ひどい話だ」惟門が顔をしかめて言った。「どうしてそんなことができるんだい。いくら朝鮮人と言ったって同じ人間ではないか。文化レベルが低いからといって何をしてもいいわけではないだろう」
「そのころ西郷隆盛は政府からすでに去っており、故郷である薩摩に帰っていて、農業生産の向上と兵力の錬成に取組んでいました。仮想敵国としてはロシアであり、西郷は北海道における屯田制の主張者の一人でもあります」清正は言った。「西郷の下野にあたっては、板垣が『兵を起こすならいつでも御助力します』といった話を西郷にしましたが、西郷は取り上げなかった。内戦をしている場合ではない、という気持ちがあったでしょうし、何より、西郷は板垣の私利私欲にまみれた卑劣な思惑を見越していたのでしょう。大久保と西郷を対立させ、戦わせることで自分が漁夫の利を得て、位人臣を極める、という程度の浅い思惑をね」
「それは、清正さん、あなたの思い込みだ」筑後がスマートフォンを片手に言った。「ここにwikipediaの板垣退助のページもある。『国民に愛された』『清貧を好む』と記載があります」
清正はうんざりした視線を筑後の方に向けた。「wikipediaですって?あたまの悪い中高生じゃあるまいし、そんなところにある記載が何になるんですか。それにおっしゃっている『国民に愛された』『清貧を好む』という描写は歴史的事実ではなく、匿名の誰かの歪みのかかった評価ですよね。事実と評価の区別は歴史を学習する上での基本ですよ。国民に愛されている人間が5回も暗殺未遂にあいません。当時の国民からは憎まれぬかれているからこそ、それほどの多種多様な人間から命に狙われるのです。そして、清貧を好むなんてのは板垣退助からは一番ほど遠い言葉ですよ。清貧な人間が七人も妻や妾をたくわえません」
「七人も女がいたんですか?」宗像が驚いた、といった様子で声をあげる。「一日一人としても一週間かかりますぜ」
「七人は公式にカウントされているもののみで実際はお手付きになった女がもっといて侍らしていたでしょう。これこそ、西郷隆盛が嫌っていた明治維新での敵味方の多くの犠牲により、財産と美妾をたっぷりと蓄えたくだらない為政者の代表例でしょう。板垣死すとも自由は死せず、でしたっけ、彼がうまいのは芝居じみたセリフのみで実際は俗物中の俗物。史実に照らし合わせても、政治的な業績も何も上げていないでしょう。この点、同じ俗物の伊藤博文よりはるかに人物が下等でもあります。伊藤は自身が栄達するためには栄達した国家の支配者でなければならない、くらいのことは分かっていますからね。板垣退助は広告宣伝のみがうまく実力は何もない。言っていることとやっていることがまるでちぐはぐだ」清正は吐き捨ているように言った。
「しかし、彼はお札の肖像画にも使われていた、と聞いたことがあるぞ」惟門が清正の激しくなる口調をなだめるように意見する。
「お札の肖像画!」清正は言った。「明治維新後の政治家でお札の肖像に使われた人物は岩倉、伊藤博文、そして板垣退助の三名のみ。今ではイルミナティがお金を管理している証拠となる情報としてよく話されていますね。まあ、そういうことです。お札の肖像画に乗っている人物は日本では碌な人間ではない」
「我々が中学生の時、無理矢理ドリルによって名前を覚えさせられていた板垣退助が、表面上はきらびやかな美辞麗句で飾られているにも関わらずその実は何の実績もないカラッポの張り子であることは分かりました。それゆえに怪しい人物だと。しかし、それと谷秦山とは何の関係があるのですか」
「端的に言うと」清正はいった。「薩長以外でありながら革命の果実を十分に得た谷干城と板垣退助の二人の先祖はそれより200年ほど前に山崎闇斎のもとで同門だったのです。この山崎闇斎というのは重要な名前で、西南戦争時の資料にも出てきます」
「時代が200年ほどもずれているのに?」惟門は聞いた。
「はい。西南戦争時に政府軍の熊本鎮台のトップだったのが谷干城だったのですが、その際に谷干城がトップとして指名された理由としては血統のことが語られたんです」清正が皆の顔を眺めながら言った。「皆さんもご存知のように薩摩軍のトップは西郷隆盛です。政府軍にいる間の西郷隆盛の地位は陸軍大将そして近衛都督であり、事実上、政府軍のトップだった男です。薩摩長州を中心とした政府軍が、いかに敵対したとはいえかつての上官である西郷隆盛に弓をひけるのか、これが政府側の悩みの種でした。その時に谷干城に白羽の矢が立った理由としてあげられたのが、『山崎闇斎門下で学んだ谷秦山の子孫である谷干城ならばよもや裏切って薩摩兵につくことなどあるまい』という理由だったのです」
「なんと!」惟門が信じられない、といった顔を見せて言った。「じゃあ、西郷隆盛を殺したものは谷干城で、その先祖は谷秦山。そして谷秦山は山崎闇斎の門下だから西郷隆盛や薩摩軍に寝返らないだろうと思われていたということだね」
「そして我々の同僚でもあるゲイの漢文講師、笹井もどうやらこの谷秦山と関係する家柄の様だ」息子の宗像が言った。「ゲイの家、つまり悪魔崇拝の家、、、」
やはり当初おもっていた通り察しがいい。清正は思った。知識ゼロの高校生や日本史を単語の丸暗記で対応できると思っている浪人生に教えるよりははるかに楽だ。「そうそして、谷干城だけでなく、もう一人の板垣退助の先祖も実は山崎闇斎門下だったといえばどうですか」
「えっ、板垣退助と谷干城の祖先は明治維新の200年前から知り合いだったということかい?江戸の同じ私塾で学んでいたと?」惟門が驚きながらいった。
「違います」清正は我が意を得たりとばかりににっこりと笑いながら言った。「2000年前からですよ。ここからが悪魔崇拝に関連した話の本題です。。。」
to be continued