あいさつをしないと気がすまない男
2ヶ月前ぐらいからですかね、農業をしながら福祉事業所で園芸の仕事もやっています。午後1時から福祉事業所で働くのですが、あいさつを必ずしないと気がすまない利用者さんがいます。
初めての出勤の時、駐車場で車から出ると、いち早く僕のところに来たのはMさんでした。Mさんは小柄な体格の20代の青年で、いきなり右手の指を上下に振りながら「アーアー」と叫び、僕から何か言われるのを待っているようだった。
「アーアー」
右手の人差し指を上下に振るMさん。
「えっ?なんですか?」
「アーアー」
「何かあったんですか?」
「アーアー」
ブルブルと首を横に振るMさん。
「アーアー」
「こんにちは」
「アーアー」
首を縦に振るMさん。
そうか、答えはあいさつだ!あいさつをされるのを待っているんだ。
次の日
駐車場で車から出る僕。遠くからMさんの声が聞こえてくる。
「アーアー」
右手の人差し指を上下に振るMさん。
来たな。わかってますよ、あいさつですよね、準備はオッケーです。
「こんにちは」
「アーアー」
首を横に振るMさん。
えっ違うの?昨日の『こんにちは』でオッケーだと思ったけど。
「アーアー」
「こんにちはっ」
「アーア」
微妙に首を縦に振ろうとしていたぞ!近いってことだな。
「アーアー」
「こんにちは!」
「アーアー」
首を縦に振るMさん。元にいた場所へスタスタと戻っていく。
答えは一体なんだったんだ!『こんにちは』→『こんにちは!』と微妙に語尾を上へ上げたのが正解か?こだわりありすぎだろ。
次の日
駐車場で車から出る僕。遠くからMさんの声が聞こえてくる。わかってるよ。『こんにちは!』でしょ。語尾を微妙に上げるんでしょ。
「アーアー」
右手の人差し指を上下に振るMさん。
「こんにちは」
しまった。語尾を上へ上げるんだった。『こんにちは!』が正解だ。
「アーアー」
首を縦に振るMさん。
今日は語尾を上へ上げなくてもオッケーだった。たぶんMさんの、その日の気分で決めているのだろう。とりあえずあいさつをすればいいのだとわかっただけでも良しとしよう。
最近のMさんは、僕から「こんにちは」と言うと「アーアー」と言ってすぐに戻っていく。あの頃の「アーアー」の応酬が懐かしい。
ある日のこと
取引先以外でも直接、花を購入されるお客さんもいる。その日はご婦人が来られていた。
「わーいっぱいベゴニアの花が咲いているね。どれにしようかしら」
見知らぬ人が来たら必ずあいさつをしにいくMさん。右手の人差し指を上下に振る。
「アーアー」
「えっジャンケン?」
「アーアー」
「はい、パー、あっ、負けちゃった。ウフフ」
「アーアー」
「ジャンケン、グー、今度はわたしの勝ち」
「アーアー」
「ジャンケン、チョキ、おあいこね」
「アーアー」
「はい、チョキ」
「アーアー」
「はい、チョキ」
人差し指を上下に振るMさんとジャンケンのチョキを出し続けるご婦人の応酬が止まらない。
おいおい、エンドレスモード突入か!無限ループ、誰かが止めない限りこのやりとりは終わらない。
僕は少し離れたところで、2人のやりとりを見ながらあることを思い出していた。『スーパーマリオブラザーズ』の無限1UPだ。
ファミコン世代の方なら、おわかりいただけるだろう。マリオが階段を上がる途中でノコノコ(カメのキャラクター)をジャンプして踏むと、永遠に1UPをもらえるという裏技だ。いついつまでもピコンピコンと音が鳴り続けマリオのジャンプが終わらない。
このMさんとご婦人のやりとりも、終わらないんだろうな。
いや、違う!止めないといけない。このままだったらジャンケンのおあいこのやりすぎでで2人とも倒れてしまう。どうしよう。
職員「Mさん!あいさつしたら戻ろうねー。『こんにちは』ってあいさつしているんですよ」
ご婦人「あっそうなんですか。はい、『こんにちは』」
Mさん「アーアー」
足早に仕事場に戻るMさん。
ほっ良かった。無限ループはひとまず終了ってことでその場は切り抜けられた。
Mさんはとても真面目で、毎日同じパターンの仕事もいやがることなく仕事をするので、周りの人から好かれている。
今日もMさんとのあいさつから福祉事業所の仕事が始まる。