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預言者の霊を受けている

黙示録の連続講解説教も、これでラスト2となった。大団円直前スペシャルというところか。ところがこの教会、ここへきて、新しい聖書を今日から使うこととなった。聖書協会共同訳である。登場は2018年12月。私はもちろん即刻購入しているが、それはいろいろ誤植もあるものだったという。だがそれでもいい。新共同訳のときも、初版をすぐに手に入れた。私はそういう者だ。
 
これを導入するのには、それぞれの教会は慎重だった。まずカトリックも、発行後当面見送ることとしたし、プロテスタント教会も、果たしていま半数が採用しているのかどうか、分からない。中には、よく調べもしないで、いや、よく調べたからこそなのかもしれないが、新共同訳と殆ど変わりません、などと偽って、教会予算を聖書のために使わないことを正当化している教会もあるらしい。
 
慎重であることは、悪くない。なにしろ、動植物の研究などが進んで名前が変更になった、という程度ではない。それまでの礼拝説教や神学論文がチャラになるくらいの大胆な改訳も含まれるのだから、礼拝で語る側にとってはずいぶんと勇気が要る。また、新共同訳でカトリック側にかなり譲歩していた姿勢が、プロテスタント側へと引戻された感もあり、新共同訳からすると、かなりの変更を覚える人も少なくないだろう。
 
黙示録の最後を語る、しかも22:6からという、いわば中途半端なところから、使用する聖書を替える、というのだ。10月でなく9月から、というのも区切りがよくないように見える。こうしたわけで、非常に勇気ある取り決めであると言ってよいのではないか。
 
但し、22:6からは、22:17を除いては、黙示録の第二の書き手、あるいは編集者の手によるものだ、と田川健三氏は主張しているわけで、黙示録の最後を飾るに相応しい新たな機会であった、と言うのも故無きわけではない。
 
新しい聖書を導入するにあたり、信徒の側からやはり気になるのは、その価格である。「お高いですね」のような会話が聞こえたともいうが、しかし30年間用いるとすれば、1日あたり1円にも満たない。学生などは確かに痛いが、今日スマホ代にはいくらでも支払うことを考えると、教会で使う聖書について、そんなに費用のことを問題にすることはなんだか奇妙な気がする。それは命の言葉なのだ。命の言葉を説教で語る教会で、命を受けている信徒であるならば、そこに遠慮をする必要はない、と私ならば言いたい。贅沢なコース料理を食べたつもりで、というような説得は、冗談としてならよいが、あまりよい配慮ではないように思う。聖書は命の言葉だ、という信仰告白を、前面に出してよいと思う。
 
もちろん、本当に経済的に苦しい人もいるから、一律簡単に片付けてよいとも思わない。それよりも、聖書の翻訳は常に完全への途上であるから、絶えずアップデートしていくものなのだ、という説明が最初にあったのは、とてもよかった。これは、購入の金額とは無関係に、聖書の翻訳についての信仰的な姿勢をきっちりと伝えるものであったからだ。
 
さて、本当にないように入ろう。黙示録22:6からについては、海外で町に響く教会の鐘の音の喩えが面白かった。一つひとつの音は、バラバラに鳴る。だが、それらが重なると、不思議な調和が生まれるのだ。また、建物そのものも、共鳴するようにして、教会の過去も未来も包みこむような、音の響きに私たちもまた包まれてゆくであろう。尤も、これは日本でも、長崎では鐘が響くというから、必ずしも西欧諸国を舞台にしなくても、経験している人はいるのだろうとは思う。
 
天使が告げる。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である」と。これは、聖書を私たちがどう受け止めるべきか、について明確に宣言しているものだ、と言える。そして「見よ、私はすぐに来る」(7,12)という言葉が、今日の説教の中心で繰り返し響くことになる。
 
天使が言った言葉の中のフレーズだが、神である主がすぐに起こるはずのことを示したというのだから、すぐに来るこの「私」は主である。だが、この後、すぐに来るのは主イエスであるように聞こえる言葉も出てくる。結果的に、区別する必要はないだろう、とは思うが、この「すぐに来る」という点は重要である。説教者は、これを「通奏低音」のように聖書に、特に黙示録に流れている、というようなことを伝えた。
 
「通奏低音」とは、バロック期に発達した器楽の奏法で、低音の旋律がメインで美しく流れ、高音は和声が、時に即興的に付けられる、という構成となっている。低い音が美しく響く。ただ、表向きは、明るい高音の和音が華やかに鳴り、音楽に色を添えるようなことになるだろうか。黙示録で派手に振る舞うラッパの音や流れる血、吠え猛る獣といった姿に、読者はどうしても目を奪われてしまいがちだが、どっしりと本物のメロディは、その背後で確かに適切に、予定通りに流れてゆく。聖書が必ずこうなると示すものについて、私たちは安心して耳を傾けてゆけばよいのである。
 
ヨハネはこうしたメッセージを聞いて、天使の足元にひれ伏した。だが天使は、拝むには至らせなかった。「やめよ」と制止し、自分もまた神に「仕える者」であるに過ぎない、と告げる。だから、「神を礼拝せよ」(9)と促す。
 
説教者は、この書は「預言の言葉」(10)であることに注目する。あるいは、ヨハネの仲間が「預言者」(9)であることに気づかせる。イエス・キリストは王である。また、祭司である。そしてまた、預言者でもある。預言者としてのイエスの言葉が、私たちを生かす。祭司として生け贄を、自分自身として献げたイエスは、私たちに言葉も与えた。生かす言葉、命の言葉である。
 
天使は主のことを、「預言者たちに霊感を授ける神」(6)と称していたことも、思い起こさなければならない。この「預言者たち」というのは、イザヤやエレミヤのような預言者のことなのか。アモスやホセアといった預言者たちのことに限るのであろうか。だが、説教者がこの黙示録の連続講解説教のために必ず読んできたという、加藤常昭先生の説教全集には、「預言者の霊感の神」を直訳すると「預言者の霊の神」となっていることが指摘されている。これは、コリント一14:32にもある表現だという。異言問題に関係して、預言の優先が告げられる場面である。加藤先生は明確に言っている。「預言者の霊というのは教会員ひとりひとり皆に与えられるものであります」と。
 
私たちにも、霊は与えられている。預言する霊である。神の言葉を語る霊である。これを否定されたら、礼拝説教をそもそも語る意義が消滅してしまう。そして、牧師と信徒とに、階級的な能力の差を設けないとするならば、信徒一人ひとりにもまた、神の言葉を語る可能性が授与されていると考えなければならない。あるいは、神の言葉を実践する器として、神と出会い、神に救われ、神の力を受けて、いまここにいる、という信仰が、当然あるはずである。
 
私たちは預言者気取りで調子に乗るわけにはゆかない。だが、栄光を受けるのは私たちではない。私たちは、指し示すのだ。イエスの血を救いとして受けた私たちは、それによって「自分の衣を洗い清める」(14)ことができた。「命の木にあずかる権利を与えられ」(14)た。だが、それを成し遂げてくださったのは、神であり、イエスである。栄光はこの方にある。救い主はこの方である。このイエス・キリストが、光そのものなのである。この方を私たちは指さすであろう。この方を称えるであろう。それが、預言者としての私たちの使命である。
 
預言者としてのキリストの使命に、私たちも与っている。人間は、もちろん神ではない。自分を神だと思うことなど、誰もするはずがない、と言う人がいるかもしれないが、それが最も危険である。悪魔の巧妙なすり替えを、舐めてはならない。事例は挙げないが、ここにある「犬ども、魔術を行う者、淫らな行いをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者」(15)という表現は、ひとつのヒントになるだろう。しかも、自分がそれをしていることに、自分では気づかないところが、最も怖い点である。人はいとも簡単に、自分を神と見なし、神であるかのように行動することができるということを、忘れてはならないであろう。
 
確かに人間は神ではないが、キリストの霊を受けている。キリストの使命に与っている。ならば、キリストに従って歩もう。説教者は勧める。「顔を上げて、希望に生きる」のだ、と。私たちは、その呼びかけを受けている。そのように生きよ、仕えよ、との声が聞こえる。
 
説教者は、強く告げた。「世界がこのままであってよいわけではない」と。もちろん、最終的には、「アーメン、主イエスよ、来りませ」(20)と待つのである。主イエスがゴールであり、目的である。「私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである」(13)という通りである。
 
だが、キリスト者は、ただ腕をこまねいて、世界の不条理を眺めているように命じられているわけではない。私たちは、祈る。私たちは、信じる。そして、私たちは叫ぶ。これらは、神を賛美することへと収束してゆく。時に怒りながら、時に励まし合いながら、私たちは歌うであろう。世界に響くように、歌うのである。それは、「神を賛美する」ということで、まとめられるようなことであるはずだ。
 
これに参与するだけでなく、参与しようと呼びかけることを、私たちはすることができる。それが、とにもかくにも、預言者の使命である。私たちは、確かに預言者の霊を受けているのである。

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