聖書について (テモテ二3:12-17, ヨシュア1:7-8)
◆使徒信条
今日は些か毛色の変わったメッセージになることをお許しください。まず、「使徒信条」を意識します。カトリックでもプロテスタントでも、礼拝の中でよく「使徒信条」を共に称えます。信仰告白の柱のようなものです。この「使徒信条」のほかにも何種類か同種のものはありますし、その教団で独自に考えたものがある場合もあります。
最も有名なもの、広く使われているものとして、「使徒信条」があるわけです。歴史の中でまとめられ、吟味され、信ずる者が納得して伝えられてきました。その歴史については、私も詳しく調べたわけではないので、大雑把に触れておくに留めます。どうも2世紀中頃に洗礼のときに使われていた言葉がさらにまとまってきたようで、恐らく4世紀頃に今の形に落ち着いてきたのではないか、と言われています。
つまり、歴史が長いのです。もちろん、これさえ称えれば万事OKというわけでもないし、これを教義として振りかざすことは、私の好むところではありません。口先でそれを読みさえすればクリスチャンだ、とする考えには簡単に賛同できません。プロテスタントはご存じのとおり「聖書のみ」という信仰に対するひとつの姿勢をもっています。「使徒信条」は確かに「聖書」ではありませんから、プロテスタント教会にとっても、それに必要以上に拘る必要はない、そういう考えもあります。
けれども、「使徒信条」はやはりあってよかったと私は考えます。もしもこういう信仰基準がなかったら、きっともっと教会の歴史は混乱ばかりだったことでしょう。場合によると、絶えず意見の衝突があってまとまらず、キリスト教自体が滅んでいたかもしれません。
そもそも「新約聖書」なるものがいまの形になってきたのは、4世紀頃だと言われています。何をどう信じるか、についても、まちまちだったと思われます。教義が定まっていない時期でしたでしょう。いろいろな解釈が飛び交います。尤もらしいように聞こえるが、どうにも曲解めいてそれは認められない、というものを「異端」として排除したこともありました。互いに「違う」ことと、それは「別である」こととの境目は難しかったかもしれません。
異端だの何だのと決めつけられるのかどうか、という議論はさておき、このような排除によって逆に、多くの信徒の信仰に一筋通った理解が生まれ、それが伝えられるようになりました。聖書の中の、何をどう信じるとよいのか、その基準が見えるようになってきたのです。こうした教義の決め方には、賛否いろいろあるでしょうが、多くの人の良心と信仰に適う教えの理解が守られ、伝えられてきたということは、ありがたく思います。
だからと言って、「使徒信条」を称えればそれで信じたことになるのかどうか、そこはまた別問題です。口で告白することはとても大切なことなのですが、ただ作文を読めばなんでも分かったようなことになる、そんな捉え方では、神との間の関係が成り立ちません。「使徒信条」を称えただけでで人が救われ、神に従うようになる、というのはなかなか考えられない気がします。
◆聖書
「使徒信条」がいまのような形に落ち着いてきた時期は、4世紀頃ではないか、と聞きました。しかしそれまでも、何らかの形で、信仰の基準のようなものが教会には備わっていたことでしょう。たとえば2世紀の礼拝の様子が記録された文書があります(殉教者ユスティヌス)。そこでは、「使徒たちの回想」というものが読まれていたとしています。恐らくそれは、福音書の原型ではないか、と目されています。部分的にでも、断片的にでも、福音書の素材は大切に読まれていたのだと思われます。
聖書が定まっていくのと、使徒信条が定まっていくのと、どちらが先だとか原因だとかいうことは、歴史を調べる方々にお任せしましょう。新約聖書の中に、聖書がどのように捉えられていたのか、垣間見える箇所があります。
この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。(テモテ二3:15-16)
この時代に「書かれたもの」と呼ばれているものが、私たちの知る「聖書」であるのですが、当然それは、「旧約聖書」のことです。イエス・キリストの弟子になった者は、旧約聖書をよく読みましょう、というお誘いです。救いのために役立つような言い方です。信仰について教えたり訓練したりするためにも、旧約聖書はよいものだ、と言っています。
果たして「旧約」という呼び方が公平であるのかどうか、近年よく問題にされます。キリスト教側からそう価値づけたとしても、ユダヤ教の聖典です。「ヘブライ語聖書」と呼ぶ動きもありますが、いまここでお聞きの皆さまの耳に馴染んだ言葉として、いましばらく「旧約聖書」と呼ぶことをお許しください。
それにしても、旧約聖書を薦めるこのテモテへの手紙という文書自体が、やがて新約聖書のひとつとして取り入れられていくのですから、面白いものです。
昔々、いまは正統的とは認められない人が、実は聖書のマニアだったといいます。その人の集めた文書をひとつの基準として、いわゆる正統的キリスト教のグループが、新約聖書を編集しました。それらしい文書はほかにも沢山ありましたが、それはどうもイエス・キリストの教えやパウロの伝えたこととは違うようだ、と弾かれたものもありました。逆に、これは本当に聖書に取り入れてよいのだろうか、と熱い議論が戦わされた文書もいくつかあります。いまそれをお話しするゆとりはありませんので、できれば関心をもって、ちょっと検索してでもよいので、調べてみて戴けたら幸いです。
このようにして定められていった新約聖書、それはよく考えたら、人間が決めたものではないか、と考える人もいます。「聖書は神の言葉」という信仰の仕方もありますが、神の言葉であるかどうかを人間が審査して決めたのだ、という点は、気になります。
そもそも、神が文字を書いたのではなく、書き綴ったのは人間ではないか、という根本的な問題もあるわけです。聖書は人間が書いたものだ、と批判してきた人がいても、それはそれで確かにひとつ筋が通っていることになります。
しかし、二千年単位で、数え切れない人々が、血眼になって聖書を読み込んで解釈し、研究してきたのであっても、それでも聖書の中には、人間を超えたところからくるものを、人々は感じてきました。聖霊が働き、人が自分の罪を告白して生まれ変わることが、歴史の中で綿々と続いてきたのです。いまの私たちへ、届けられるようになったのです。
確かに教義の棒読みを信仰告白として、クリスチャンになった人もいるでしょう。しかし、人生を賭けた形で方向転換し、そこにイエスがいるものとして共に生きているのだ、と証言するような人もたくさんいます。神に出会って人生が180度変わり、聖書の言葉に日々生かされ、命溢れる人生を送るようになった人が、現にいるのです。それに生涯を生き、また時にそのために命を捨てるようなところにまで至った人もいます。普通なら成し遂げられないようなことを成し遂げた人がいます。聖書は人間がつくった、と嘯く人々は、この事実に対して、いったいどういう説明をすることができるのでしょうか。
聖書は不思議な書です。信仰をお持ちでない方も、それは認めてくださると思います。
◆テモテと宗教2世と霊感説
先ほどの聖書の言葉は、テモテへの手紙第二でした。このテモテという人物については、聖書の中の他の記録などから、いくらかのことが分かっています。ギリシア人とユダヤ人の両親に生まれたが、どうも母親の家系がキリスト信仰に入っていたようにも見受けられます。パウロが気に入って旅に同行させ、各地の教会の世話も任せたのではないかと考えられています。どうやら純真な信仰をもっていたようだ、とパウロの言葉から窺えます。
悪人や詐欺師の悪は留まるところを知りません。しかしテモテは、そんな悪に流されてはほしくない、とパウロは考えています。
14:だがあなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、
15:また、自分が幼い頃から聖書に親しんできたことをも知っているからです。
子どもの頃から、母親や祖母から、信仰を教えられ、育てられてきた模様です。その信仰を大切にしなさい、というアドバイスなのでしょう。共に旅した仲間でもあるのですから、いまさら信仰に留まるように、という言葉をかけることは不自然な気もしますが、このような手紙は、決して個人対象ではない、と私たちは考えて然るべきです。この手紙は、いまや全世界の信徒のため、すべての人のためのアドバイスであり、神の恵みを知らせるメッセージとなっています。もはやテモテ個人の問題ではない、とすべきでしょう。
しかしここで、昨今のデリケートな問題が頭をもたげてきます。「宗教2世」の問題です。安倍元首相の狙撃事件は不幸な事件でした。その容疑者がいわゆる「宗教2世」であり、そのことに基づいて狙撃対象を選んだということが報道されてから、俄に宗教と子どもとの関係が社会問題化したのです。
テモテはその意味でも「宗教2世」と言われるような人物です。自分は特定の宗教の信者ではない、と自認する人々からすれば、これは由々しき問題のように見えます。子どもの権利はないのか。子どもの虐待だ。すぐに、センセーショナルな言葉がマスコミを、そしてネットを飛び交います。難しい世相になってきました。
宗教心を子に伝えるのは、本来親の義務でもあったはずです。見えないものを大切にする心を教えるのは、大切なことです。子どもが自分で宗教を求めるまでは何もしてはならない、というような極論を吐くような威勢のいい意見も出てきているようですが、だいたい何を以て子どもの自由を奪うなどという、あまり思慮されたようではないような非難が出てくるのでしょうか。
子どもが仏壇に手を合わせるように言ってはならないのか。墓参などしたくなったらすればよい、と墓地に連れていくこともないのか。神社で七五三をしている親は皆子どもの自由を無視した虐待をしているのか。信教の自由を子どもに与えよ、という原則がまかり通ると、精神世界を無視した、荒んだ世の中になりはしないでしょうか。
そうではなく、たぶん「2世問題」は、カルト宗教を想定して言っているのだろうと思います。しかし、どこからがその「カルト」なのか、線引きは簡単ではないでしょう。子どものときに敬虔な思いを経験するように指導せずして、やがてオトナになったら自由に信仰を選ぶ、などということが、如何に現実離れしているか、考えて戴かなければなりません。
この路線で失敗したのが、「オウム真理教」だったのです。それをもう教訓にすらしないような様子を見ると、日本人は依然として宗教が分かっていないと嘆くような気持ちになります。あるいは、日本の宗教というものが、何か得体の知れない空気のようなものとしてこの国を包んでいるのか、そんな疑惑も覚えてしまいます。芥川龍之介がそのことに触れていたことは、私の心に強く刻まれています。
本当の問題は、子どもへの暴力や学ぶ権利や職業選択の自由など、法的な領域にあるのではないでしょうか。「宗教は危険だ」というスローガンが、なんとなく自分を正しくするような錯覚に陥らせます。臨時の「多数派」がヒステリックに叫ぶその様のほうが、私にはよほど危険に感じられます。この危険性については、またどこかでお話ししましょう。
ともかく、聖書の教えに従う生活を、親が子に教え共に生きていくことを、否定することが正義のようになってはいけません。
15:この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます
テモテに対して与えられたこのメッセージを、私たちも受け止めましょう。聖書と称されるものは、救いへと導いてくれるものなのです。
16:聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。
ここから、もうひとつ厄介な問題が生じます。聖書は神の霊感を受けて書かれたということを、さらに「逐語霊感説」といって、聖書のすべては悉く神の言葉であり、誤りがない、という信仰箇条があるのです。そしてそれを嘲笑うグループもあるのです。
聖書の「すべて」であるはずがない。聖書には矛盾する記事もある。だから「逐語霊感説」は愚かだ。このように嘲笑うのですが、「すべて」という語を、揚げ足を取るために数学的な意味に決めつけた、意図的な攻撃だと私は考えます。聖書で「すべて」という言葉があるとき、まさにそれらが「すべて」、厳密にallの意味であるかどうかは、聖書をちゃんと読んだ人はご存じのはず。「すべて」は、レトリックに過ぎません。
もっと有意義な議論をしようではありませんか。「聖書は神の言葉である」とするのは、そのように信仰する態度のことを言っているわけです。自分たちの信仰の仕方は、「聖書が神の言葉であるとして受け止める思いを大切にします」という意味に近いのではないでしょうか。ではどうして神の言葉なのか。それを神の言葉として受け止めるために、説明として「霊感」という言葉を持ち出したが、さてその「霊感」とはどういうことなのだろうか。そんな議論をしながら、一人ひとりの信仰の仕方を尊重していけばよいのに、といつも思います。
「人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために」(16)聖書が役立つのだ、ということには、きっと何も嘘はないし、あげつらうような点はないのだと思います。もちろん、新約聖書の中で「聖書」のことを言っている箇所があれば、それは「旧約聖書」を意味することは、言うまでもありませんが、基本的に新約聖書にも当てはめて理解することに特別な問題はないだろうと思います。
17:こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。
◆私
そのような聖書の言葉が投げかけられると、私は消えたくなります。何の善い行いができるというのか、恥ずかしいほどです。けれども、私ができた人間だから聖書は素晴らしいのだ、というような方向で考えることはないのだ、という点だけははっきりさせておきたいと思います。ただ私は、「これが聖書というものです。あなたの人生を変える力をもっています。あなたが輝いて生きること、平安な心が与えられること、それをもたらすのが聖書です」と、指し示すことができるだけです。私もそのことを経験したからです。
私は平凡な、神道も仏教も受け容れるような環境の中で育ちました。少し普通でないところがあるとすれば、母が禅寺の生まれだったということくらいでしょうか。禅寺も現代では妻帯があります。幼い頃から私は、年に一度か二度くらい、車で2時間くらいかけた山間部のその実家を訪ねるのでした。
夜の本堂は気味悪く、ひどく広い場所のように感じていましたが、いま行くと、なんと狭いものだろうかと思います。子どもの目線というのは、やはり違うのですね。憚りに行くのも、夜は怖くて怖くて仕方がありませんでした。線香のような独特の臭いがあちこちに漂う家でした。
私の祖母は私が幼稚園に入って間もなく亡くなり、母が家を留守にしたため、私はしばらく登園拒否を起こしました。祖父は四年生になるときの春休み、私の目の前で息を引き取りました。それ以前から死という問題は私にとり大きなものでしたが、その時のことは大きな体験となりました。
キリスト教との出会いは、高校の門で配られていた、国際ギデオン協会発行の英和版の新約聖書でした。どうして高校で配られていたかというと、どうやらカトリック信徒の女生徒Tさんの企画だったらしい、と後で聞きました。その一冊が、後に私を変えることになります。
大学は京都で暮らすことになり、荷物を送ることになりますが、その箱の中に、そのギデオン協会の新約聖書を忍ばせます。哲学のために何か役に立つかもしれない、と思ったのでしょう。読む気はありませんでしたが、なんぞ役に立つかもしれない、と感じたのかもしれません。
それが数年後、私の精神を叩きのめすことになります。私は精神的に、死んだのでした。愛のない自分を思い知らされ、自分の間違いを覚るのです。聖書の言葉が、私をそこに追い込み、そして、私を救い出しました。聖書は確かに命を与えるものだということを、私は自分の肌で覚え、それを直に証言することができます。
◆自分自身
たぶんそれまでは、「聖書」というものを誤解をしていたのだと思います。「聖なる教え」の書、それも西洋文化の極み。世間では、「◯◯のバイブル」というような言葉も飛び交っています。こちらは「聖なる」の雰囲気は消えますが、「決定版のマニュアル」みたいなところでしょうか。語感とはそういう妙なものがあります。
しかし、実際に開いた聖書には、人間の罪が余すところなく記されていました。不快にさせるものもあります。教会の礼拝でも、いまなお決して開かれないような記事もあると思います。法律集である「律法」の書の中にも、こんなに露骨に書くとはあんまりじゃないか、と言いたくなるものもあるほどです。先週は、アメリカのモルモン教の本拠地ユタ州で、聖書が教育上よくない、として学校図書館で聖書を禁止にしたというニュースが報道されました。
しかし、そこに書かれた人間の罪が、突き放して眺めるべきものであるのかどうか、それとも自分の問題として感じるかどうか、そこが聖書の読み方のひとつの境目となるでしょう。あくまで他人事としてそれを見る限りは、ただの物語であり、歴史的文献に過ぎません。講壇から説教を語る者が、いくら人間の罪がどうのこうのと説明しても、自分の問題としては微塵も感じていない場合があるでしょう。
聖書の告げる「罪」というのが、何かよくないことをした、という程度のものとしか捉えていないのでは、残念ながら聖書はただの遠い世界の物語です。もちろん、そのように読むのが即座にダメだ、などと言っているのではありませんが、それではその先の救いや喜びという世界にはなかなか進むことができません。
自分の中に闇を覚えたことがあるでしょうか。苦悩が、自分では解決できないものとして横たわっているでしょうか。自分の中に、強い責任のような感覚があって、取り払おうとしても忘れることができない経験がないでしょうか。
同じ聖書を読むにしても、その登場人物の魂の奥に隠れているような闇に、読む私が心を重ねることができたら、聖書は、奇蹟を起こします。命を与え、喜びで満たします。聖書は、そのようにその書物自体がどうだというよりも、それに触れた人間との呼応によって、一人ひとりに違う効果をもたらすことができる、特別な本であると思うのです。
◆聖書の読み方
ですから、聖書を通じて、皆さまにもそのような体験をして戴きたいと私は願っています。すでに信じている方は、それを体験したことがきっとおありだろうと思います。しかし、聖書の読み方に、決まりがあるわけではありません。もちろん多少のアドバイスはできるし、してよいだろうと思うのですが、万人に通用する普遍的な方法があるとは思えません。こう読まねばならない、などと元気に言い放つ人が時折いますが、問題は当人と神との関係ですから、そこで神が扉を開くなら、他人がこざかしく口を挟むのはどうかしているというものです。
たとえば、パッと聖書を開いて、そこに現れた聖書の言葉をその日は心に据えていく、ということは、案外多くの人が経験あるようですが、そんなことはとんでもない、とお叱りの方もいます。まるで占いのように、神の思いを試してはいけない、と言うのです。確かに、そうかもしれません。でも、どこそこの会社や個人がこしらえた「聖書通読表」に従って聖書を開くことで満足している場合は、誰も咎めません。それとパッと開くのと、どう違うのでしょうか。ドイツ製だからよいのだ、とするような理由があっても、私にはよく分かりません。
いえ、「通読表」が悪いなどとは、少しも思いません。かくいう私も、長い間、一年で聖書全部を読めるようなスケジュールに沿って聖書を開いています。それは日本聖書協会のものなので、「旧約聖書続編」も割り当てられています。私は続編も読みます。新約聖書の時代はこれも有力な「聖書」でした。イエスの言葉や行動が、「続編」に根拠があるのではないか、と思われることもよくあります。また、デボーションのためには、別のスケジュールを用いています。それにより、自分が恣意的に選ぶ偏り方をなくそうと考えているのです。だから私は、聖書をパッと開く人を非難するつもりは全くありません。
それはともかく、何らかの形で、聖書全体には目を通すことは、やはりお薦めします。でももちろん、そうしなければならない、という言い方をするつもりはありません。
ただ、聖書を読まないタイプの人もいます。そのために理由を口にする人がいます。「読む時間がない」という言い分を聞くことがあるのですが、それには私はあまり同情しません。長時間の読書ならともかく、1分でも2分でも、時間が作れないという人は、まず殆どいないのです。そう、「時間がない」のではなく「時間をつくる」のが私たちの生活です。聖書を読む気があるのかないのか、という点が問題なのです。
もちろん、読むという行為そのものに困難がある人もいます。視力の問題もあれば、文字を読む能力の問題がある人もいます。でもそれは、「聞く」という選択肢が使える場合があるかもしれません。言葉の意味を理解できない人や、意識障害がある人などにも、たとえ一方的にでも、聖書の言葉を聞いてもらうことは、できないでしょうか。意識不明の患者さんも、聴覚は利いている場合が多々あるのだそうです。
ホスピスに伏した母にも、私は行って聖書の言葉を読み聞かせました。認知的な問題もありましたが、たとえ眠っていても、その横で、声に出して読みました。特に反応がなくても、「聞こえている」ことを信じて、語りました。
何かできる。その気になれば、求める思いがそこにあれば、何かができる。その求めの延長線上に、きっと「礼拝説教」というものもあるのだろうと思います。そこは神を礼拝する場。神に会うところ。もちろん、教会に行かなくてもつねにすでに神が共にいる、という信仰はあるのでしょうが、改まって神の前に出るという姿勢、あるいは一定の儀式の中で、神との交わりを確認する営み、それはやはり必要ではなかろうかと私は考えています。
◆同じ聖書
コロナ禍の時代になり、教会に集まることが難しくなったとき、「礼拝中止」と宣言していた教会が、少なからずありました。政府に従う善き市民です。もちろん、揶揄しているのではありません。ただ、礼拝を「中止」にするという言い方が、私には信じられませんでした。その教会の信仰が如実に現れているような気がしてなりませんでした。
確かに集まることには問題がある。しかし、そのことと、礼拝を中止にすることとは、別次元の問題のはずです。二人三人と集まるところには神がいます。牧師家庭が礼拝を続けることをも、ついにやめてしまったのでしょうか。否、一人暮らしの牧師でも、そこに礼拝があれば礼拝であったはずです。一緒に教会堂に集まれないならば、礼拝は「中止」されるのでしょうか。
言葉の問題だ、と仰るかもしれません。いえ、言葉は大切です。「それぞれの場所で礼拝しましょう」と呼びかけるのと、「礼拝は中止です」とは、やはり信仰という点でも決定的に違うとしか思えません。
神はいつも共にいます。それならそれでよいではありませんか。その後、「リモート」という言葉が巷に溢れ、教会でもそれを用いるようになっていきました。同じ場に集まれないでいても、より礼拝らしい場を設けることができました。そもそも入院患者や高齢者などのためには、こうした設備がそれまでも可能だったのに、それまであまりできていませんでした。音だけでもインターネット中継をしていたような教会もありましたが、多くの教会では、その場に来ていない人は「お休み」だと称していたように思います。いいえ、やはり共に礼拝していたという信仰があって然るべきとは思いませんか。
さて、ようやく開いたもうひとつ旧約聖書のヨシュア記は、約束の地に足を踏み入れたイスラエルの民が定住するに至る過程を描きます。先住民をやたら殺し追い出すというのがどうか、と見られることもありますが、西欧でも百年前までそれと大差なかったと捉えてはいけないでしょうか。どこまで聖書の記事の出来事が本当に歴史的になされたのかは分かりません。神に従う人々の生き抜く姿勢から、何かを学ぶことは可能ではないかと思うのです。
そのヨシュア記で主なる神は、しきりに「強くあれ」とヨシュアを励まします。ヨシュアはよほど臆病だったのでしょうか。ともあれ、律法から離れるな、というフレーズを最後に身に受けてみましょう。当時「律法」と呼ばれていたものは、いまの私たちにとり「聖書」と読み替えても差し支えない場合があるのだと考えます。
7: あなたはただ、大いに強く、雄々しくありなさい。私の僕モーセがあなたに命じた律法をすべて守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功を収める。
8:この律法の書を口から離さず、昼も夜もこれを唱え、書かれているすべてのことを守り行いなさい。そうすれば、あなたは行く先々で栄え、成功を収める。
ずいぶんとオーバーなことが言われているとお考えでしょうか。神が直々にヨシュアに送った命令です。この聖書を口から離さず常に唱えよ、と命じています。そうすれば成功する、と。何に成功するかはさておき、聖書の言葉と常に共にいよ、というわけです。これを信じたならば、聖書の言葉は私の命となるでしょう。そしてあなたもまた、同じ命に招かれています。立派な信仰者たちにも、この私にも、そしてあなたにも、同じ聖書がそこにあるのですから。