
聞いて光を受ける
今シーズンの冬期講習の日程は最悪だった。日曜日に休めなくなったのだ。そのため、ライブで礼拝に加わることができたのは、ずいぶん久しぶりのことである。やはり主日を過ごすのは、なんとうれしいことだろう。様々な仕事のために、日曜日を教会で過ごすことができない方々の思いを、かすかに感じることができたかもしれない。尤も、私はこの日曜日の時間を、それなりの犠牲を払って確保しているから、それぞれの闘いというものがあるには違いない。
先週の説教は、「ローズンゲン」の年間聖句を基に聖書を語るものであったため、今回は今年初めての、マルコ伝の連続講解説教となる。1:21-28が開かれたのであったが、それに先立って、創世記の冒頭が説かれた。
初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1:1-2)
特にこの「混沌」という語に注目した。ここは聖書学者たちにとり、かなり議論のある箇所であり、新改訳聖書では苦労の末、いまは「茫漠」などという難しい言葉で訳している。新改訳聖書は正確には「茫漠として何もなく」としており、これは元のヘブライ語で2語になっているところをうまく受け継いでいる。「トーフー・ワボーフー」とでも読めばよいのだろうか。この2語を、聖書協会共同訳は、「混沌」という1語にしており、それは新共同訳聖書を引き継いでいると言える。英語的な理解だと、たとえば「形がなく何もない」というような表現があるらしいが、そのほうが適切だ、とする学者もいるそうである。
この「トーフーワボーフー」は、旧約聖書でもうひとつだけ使用例があるという。
私は地を見た。/そこは混沌であり/天には光がなかった。(エレミヤ4:23)
主に背を向けた民のいる世界は、「北からの敵」にいいように破壊されてしまう、というひとつの裁きの姿を示しているようだが、説教者はそこに、「戦争」というものの惨さを思い描かせた。現代世界でも、この「戦争」は絶えないからだ。そして、情報社会の故に、その「戦争」のひとつのリアルが、私たちに瞬時に伝わってくるからである。戦争報道も、長く続くと、人は次第に不感症になる。まだ続いているのか。飽きてきた思いの背後で、戦地では今日も人々が逃げ惑い、兵士ばかりでなく一般市民も子どもたちも殺され、難民生活を強いられた人々が冬の寒さに凍えている。
説教者はさらに、そこに「瓦礫」というものの姿をイメージさせる。私は個人的に「瓦礫」という言葉は使いたくないと思っている。「瓦礫と化す」とは、元々立派な建造物であったものが破壊され、いわばゴミ、しかもどう片付けてよいか分からないほど人を呆然とさせる廃棄物になってしまうことを、意味すると思われるからだ。そこにかつてあったのは、人が使っていたものである。人にとり「道具」と便宜上言うことにするが、ただの「物」ではなく、その人の手や心にしっくりくるもの、思い入れのあるもの、のことである。人にとり他の物と取り替えることができない、かけがえのない物が、もはや廃棄せねばならない姿にさせられた状態なのである。言葉にするに忍びないと思うのである。
しかし、現実に、その「瓦礫」が出現する。人の心のこもったものが、破壊された残骸である。「戦争」が、それを大量につくりだす。そしてまた、「災害」がそれを大量につくりだす。
それを他人事としか思わなくなるような、傍観者の私たち。もしかすると、そんな私たちの心こそ、実は「瓦礫」となってしまっていないのだろうか。
さて、本来のマルコ伝に移る。イエスが伝道を始めるとき、4人の漁師をまず弟子にした。それからカファルナウムに着く。ここはやがて伝道の拠点となる。会堂に入って教えを語った。それは「権威ある者」のようであったという。
人々は、イエスの教えに「驚いた」と言っている。古代ギリシアの哲人たちは、「哲学は驚きに始まる」と考えていたようである。「哲学」は、「知を愛すること」である。知的活動が「驚き」に始まるという洞察があうった一方、ここでは神の業に対して「驚き」という反応を人間がすることから、物語が始まっていることに、私たちは正に「驚く」。
するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(マルコ1:23-24)
「すぐに」というのは、マルコ伝の特徴でもあり、きびきびとした動きを伝えるためのレトリックだとされる。イエスが語っていた会堂に、「汚れた霊」に取りつかれた男がいて叫び声を挙げた。どうやらそれは、男が言ったというよりも、「汚れた霊」がそう叫ばせた、と言ったほうが適切だった。
会堂というものは、礼拝をする場所でもあり、後のキリスト教会が、教会での礼拝のモデルにしてゆくことになる。そこでこの会堂を、私たちの教会になぞらえると、教会にもまた、奇妙なことを言う人がいるかもしれない、ということに思いが及ぶ。考え方が違うとか、言葉が通じないとかいうのとはまた違う。もしかすると、この男のように、明らかに変ではないのかもしれない。密かに「汚れた霊」に汚染されているという場合があるかもしれない。もちろん、それを他人にそうだなどと指摘するような真似はできない。だが、イエスはそうした霊をちゃんと見破っていた、ということは知っておいてよいのではないかと思う。
「汚れた霊」は複数居たようだが、まず「構わないでくれ」と叫んだ。言葉のニュアンスは、「私たちのこと、それからあなたのこと」という具合で、自分たちの事情とあなたの事情とは別のものだ、関係がない、ということを意味している。
どうやらお節介なことは、嫌われる世の中らしい。何か関わろうと働きかけるならば、自分には構わないでくれ、という反応が返ってくるのがあたりまえになってきた。若い人も、できるだけ相手の心に踏み込まないように距離をとっている、などと聞くが、何も若い人たちばかりではない。私たちの社会は、私たちの精神は、この「汚れた霊」と同じことを言っているような気がしてきた。このように考えさせるメッセージは、ひとの心をもやもやとさせる。だが、だからこそそれは、ひとを生かすことになる。ひとは、死んでこそ、生かされるのだからである。
説教者が指摘するのは、先の「戦争」や「災害」のことであった。「それはそれ、これはこれ」と、私たちは悲惨な「他人事」と自分との間に壁を、無意識にこしらえてゆく。神と人との間の隔ても、そのようにしてできていたのかもしれない。だがイエス・キリストは、その隔ての壁を打ち破るお方なのだ。このことを、キリスト者はもう一度強く自らに問わなければならない。自分の心の中にできたそのような壁を、打ち破る方を、心にお迎えしなければならないのだ。
この「汚れた霊」は、イエスに向かって、「神の聖者だ」とも言った。口先だけでは、なんとでも言える。いま賛美の言葉を美しく口にしたクリスチャンが、次の瞬間、ひとを呪うことだってあり得るのではないか。これに対してイエスが何と応えたか。
「黙れ、この人から出て行け」
私はまた、この「黙れ」にも強い力を覚えた。ひとは、自分の弱さを隠すときに、冗舌になる。相手から攻め入られることを避けるために、まず自分から話題をつくり、相手につけいらせないように場をつくるのだ。自分のペースで話を展開することで、自分の弱さを俎の上に載せないように仕組むのだ。イエスは、悪の側の、そのような防御をも打ち破る野田。「黙れ」と。
もしそれが、ひとに対して、その救いをもたらすために「黙れ」と制したのであれば、イエスはそれをどんな意味で言ったと理解すればよいだろうか。私には、このときこう聞こえたのだ。「黙れ」という言葉は、そのまま、「聞け」という言葉に聞こえたのだ。
神の言葉を聞け。おまえは余計なことを喋るな。ただ神の言葉を聞け。
説教者はその後、ルターの例を挙げた。ルターは、実にことある毎に、悪魔を随所に見ている。壁に向けてインク壺を投げた、などという逸話が有名だが、常々悪魔と対峙している、と言ってようかもしれない。
説教者は、「礼拝」こそまた、悪霊との闘いなのだ、とまで言った。それには背景があった。この礼拝の後、「教会の葬儀」についてのオリエンテーションが開かれる予定だったからだ。その内容はここで説明する必要がないと思うが、葬儀というものが、終わりとしての「死」のためであるように思うようなことがあったとしたら、確かにそれは、悪魔の企みであるのだろう。説教者は言う。「死の力で悪魔は近づいてくる」と。「死の力は、ひとの心を瓦礫の山にしてしまう」というのだ。
私たちは闘う。「死が宣べ伝える嘘と真っ向から闘う」のだ。私たちが冗舌になるとき、自己欺瞞の罠に陥っている。それは正に、悪魔のなせる業なのだ。イエスはそのような私たちに、「黙れ」と命ずる。それは、私の聞き方にしてみれば、「神の言葉を聞け」ということになる。
イエス・キリストがもたらしたものは、「形がなく何もない」ようなものではない。そのような地に、神はまず最初に「光あれ」との言葉を発し、それは出来事となった。ヘブライ文化では、「言葉」という語はまた、同時に「出来事」という意味も含んでいる。説教者はこの説教を、光の道へのいざないとして締め括った。私たちはそれを「聞け」とも言われた、と私は受け止めた。私たちは勇気を与えられた。そしてこの勇気を、心が壊れかけた人々のところへ、鏡のようになって、届けなければならない。この新しい年に、新しい風の中で。