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平和を実現する

失礼な言い方かもしれない。渾身の説教だった。
 
年間聖句を、教会員との祈りと協力の許に選び、掲げた、その言葉についての語りであった。「平和を実現する人は、幸いである」を柱に、聖書を広く深く届け、世界と自分との関係にまで、見事に編まれていた。聴いて、魂がとろけそうになった。
 
その説教は、最初に、音楽のイメージを掲げた。その音とリズムが、最後まで説教の背後に流れていた。実に心地よかった。
 
そもそもこの「平和を実現する人は、幸いである」を、自分が語る資格があるのか。説教者は問う。語る誰もが、常にこのジレンマと闘いながら、毎主日に、講壇に立っていることだろう。神を知らず、神など気にしないで、人前に出た自分に栄光を着せるために、気の利いたことを語っているようなつもりになっている暇はない。
 
「平和」がテーマである。これは「平安」という語にも置き換わることのできる語である。心の平和という意味にも用いられるということである。強調されていたのは、自分の心が平安であること、それをイエスが言っていたわけではない、という点だ。
 
平和を「実現する」(新共同訳)、ここに鍵がある。これは他の訳では「つくり出す」「造る」「つくる」などとなっている。原語では、これは「平和」と別の語として置かれているのではなく、「平和+つくる」が一語で表されている。観念ではなく、実践であるということか。
 
中村哲さんが紹介された。福岡に住む者として、この方はずっと身近であった。なんら平和がないようなところに、平和の土壌をつくった方だとも言える。その死は残念なことであったが、その覚悟をなさっていたであろうことも推察される。私たちは、その志をどう受け止めるべきなのか、問われている。
 
聖書講座で「聖書にはどうして殺し合いばかりが書いてあるのか」と質問されたことも取り上げられた。「夢物語ではなく、現実が記されているから」と答えたという。説教の終わりのほうで、この回答は修正された。「もっと大いなる現実があるから、すなわちイエス・キリストの現実が」というように。しかし、説教の前半では、まだそこまで進まない。
 
まことに「聖書」のタイトルが誤解させるのだが、そこにあるのは心の平安をもたらす「聖」なる教えが並んでいるわけではない。たんに「書かれたもの」としか呼ばれなかったものである。これを、隠れた主語としての神を明らかにするならば「神により書かれたもの」ということになる。
 
そこには、人間の罪が並べられている。罪のカタログのようなものである。しかし、それを見つめなければならない。夢物語を期待するより先に、自分の現実を痛感しなければならない。自分には平和などない。むしろ自分は平和を破壊する側にいる。この自覚なしには、聖書は読めないものである。
 
説教者は言った。――礼拝に来るのは、目をつむるためではない。目を開くためである。
 
そう、私たちは如何に目を塞いでいるのか。少しばかり慣れてきてしまうと、もうダメである。まあいいか、そんなものか、そうしてぬるま湯の中で、じわじわといつの間にか汚れていく自身や周囲に、全く気づかないようになる。神が語るかのように詐称するばかりで人間性そのものに困難がある者を祀り上げることになっていても、少しもおかしいとは思わないようなこともあるのである。宗教団体が社会的に問題になっている場合、そうした構造なのだろうと思う。宗教団体内にいると、えてして、目をつむっている状態になっており、しかもそのことに気づかないでいるものである。ファリサイ派が見事にその実例を描いているではないか。
 
「平和を実現する人は、幸いである」は、そうした偽りに対して目を開いていくこと、否、目を開かれることを求めるところから始まる。その上で、私のようにそれをただ「観る」だけのようにしないで、実際に行うこと、実践することへと進むことで、初めて「平和をつくる」ことになるのである。
 
これは新共同訳のように「実現する」ところにポイントが置かれるのであろうか。「つくる」という語が、完成状態を前提とせず、制作過程をも含む語感を与えるのに対して、「実現する」だと、完成状態を想定しているように私は感じてしまう。果たして中村哲さんは、実現したと言えるのだろうか。決して完成したとまでは言えないような気がする。しかし、彼は「平和をつくる」ことをなさった、その点は強調したい。
 
暴力によって混乱を鎮めた状態を、人間はしばしば「平和」と呼んだ。「ローマの平和」はその考えがベースにあるようにも思える。しかしそれをローマ帝国への偏見とはしたくない。ウルトラマンが怪獣を倒すのも、このスタイルなのである。もちろん、それは侵略に対して人類を守るという大義名分をもつ。だが、人類はそのタイプの発想から、自然を管理するという職務を超えて、自然を支配し、自然を破壊していった。あまつさえ、それを正義の名によって行い、正義であると信じて憚らない。私たちも、私も。
 
私たちは、「平和を実現する人は、幸いである」との言葉に、耳を塞ぐばかりか、語るイエスの口を塞ぐようなことをしがちである。厳しい要求に、心が乱されるからである。そうして、イエスに向かって石を投げる群衆の中に、こっそりと紛れ込んでゆく。正義の名の下に。
 
説教は、いまがレントの期間であることを意識する。次週が、受難週への入口となるからである。私たちは、ほんとうに主の十字架に従うことなど、できるのであろうか。イエスに敵対する勢力の側の一員に、成り下がっていないだろうか。自分ではイエスのいっぱしの弟子であるつもりになっていて、とんでもない勘違いをしていないだろうか。
 
ペトロでさえ、イエスを「神の子」(16:16)と呼びながらも、イエスにサタン呼ばわりされたのである。何故か。説教者の説明にドキリとした。確かに「神の子」という言い方は、当時ローマ皇帝を表す言葉であった。このときペトロが退けられたのは、イエスがこの地上にイスラエルの王国を建てることを期待していたからである。イエスをローマ皇帝になぞらえてしか見ていなかったというのである。だから、「サタン、引き下がれ」(16:23)とは、「後ろに回れ」という語であるのだ。つまり、自分の思いを先んじて、神を従わせるようなことをするな。汝は我に従え。そういうことなのだ。
 
「平和を実現する人は、幸いである」というところから、十字架の主に従うところにまで深まってゆく。命ある説教の醍醐味を味わわせて戴いた。私たちはこの3年間、コロナ禍の中で、自分たちのことに精一杯であったという。自分たちのことばかりに気を払わなければならなかった、とも言える。しかしいま、目を開かせてもらった。ここからどんな平和をつくることができるのか。何ができるのか。何をしようとすればよいのか。
 
平和をつくる。しかし実は、それはもう半分なされていることである。イエス・キリストがそれをつくつたからである。ただの固定的な「平和」の状態でなく、動的な「平和をつくる」営みは、神の側からなされた「和解」のことであった、と私は理解する。私たちの平和創造の道は、私たちから積極的になすべき「和解」であるのかもしれない、と。

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