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民が願い求めた律法

ネヘミヤ8:1-3 
 
破壊されたエルサレムの街を再び活かす。そのためには城壁再建が必要です。街はそうやって守られねばなりません。ネヘミヤはここまで導いて、エルサレムを形にしてきました。トップダウンであったからこそ、妨害をも超えて完成へと至ったのです。工事完成から数日後と思われる第七の月、今で言うと秋の半ば、イスラエルの人々が集まってきます。
 
そこはエルサレム。けれども、集まったのはエルサレムの住人ではありません。イスラエルの各地に住む人々です。水の門は、東側にある門ですが、そこに広場がありました。人の集まりを許す場所でした。エズラは学者。ここでは書記官と示されています。律法の書を読み上げるに最も相応しい役割があったと考えられる祭司とも称されています。
 
これは、宗教的儀礼です。ネヘミヤやエズラが人を集めたとは書いていないし、律法の書を聞けと叫んだようにも書いてはいません。民が集まったのです。民が、律法の書を持ってくるように「言った」のです。他の訳では「願った」とか「求めた」とか書かれています。民主導で、この集会が立てられたのであり、その要求に従って祭司が動いたのです。
 
男も女もいました。女も除外はされませんでした。聞いて理解することのできる者はすべていたのです。幼子や外国人といった人々がいなかったのかどうか、詮索をしたくなる人がいるかもしれませんが、そんなことをする必要はありません。「理解できる者」と二度繰り返されています。見かけや立場で区別したのではないからです。
 
広場での律法の朗読は、夜明けから正午までかかった、と記されています。民がこれを求め、聞き入ることになるのでした。そこは水の門。活ける水をキリストが人々に、いえ私たちに与えたように、渇いた民が、律法から命の水を得るに相応しい場所でした。私たちはこの民のように、神の言葉を願い求めていると言えるのでしょうか。

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