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名も無き者の希望
アドベントの第3礼拝である。マリアの賛歌を開く。但し、マリアの賛歌の解説をしようとするものではない。説明だったら、どこぞの本を探したらいい。学者の研究を拾い出してまとめを話すだけの説教もどきを聞けばいい。
だが、命を与える神の言葉がここにある。少しばかりの解説を入れるだけで、語る者と聴く者とが、共に受ける言葉を、神を礼拝する場で共有することに徹する。否、この場のすべてが、神を礼拝することそのものとなるのだ。
マリアが恐らくまだ10代半ば辺りの少女であることを、まず想起させる。しかしマリアは身籠もった。一足先に、親類のエリサベトが、待望の子を胎に宿した。高齢での初産となる公算となった。それに対してマリアは、幼さすら残る少女である。この対比の構図の中で、「三か月ほどエリサベトと暮らし」たというから、恐らくはエリサベトの世話をしたのだろう。マリア自身妊娠中でありながら、山里に急いだのだった。後に、臨月に長旅をすることといい、なんともタフである。
マリアの声を聞いてか、エリサベトの中の子が躍った。これは女性にしか分からない感覚である。エリサベトは、それが喜び躍ったことと理解したのであろう。ルカは聖霊に満たされた、と説明した上で、マリアを「主のお母様」と呼んだ。
説教者は、ルカ伝の中の「歌」を振り返った。ザカリアによるもの、天使の歌もあったし、シメオンも然り。私たちも歌う。しめやかに執り行われる葬儀の席でも、それから地震などの災害で傷ついた人々のために祈る場でも。私たち離れた場所の者ですら、能登半島周辺の地域の被害を思うだけで苦しい気持ちになる。当事者はそれと比較にならない現場に置かれているのだ。そこで何を歌えばよいのだろう。どんな歌が助けになるのだろう。しかし説教者は言う。教会はかくありたい。教会は、喜びの歌を覚える場である、と。
マリアが、それに応えるかのように、マリアの賛歌を口にする。「私の魂は主を崇め」と始まるこの歌は、ラテン語による冒頭の語を以て「マグニフィカート(マニフィカト)」と呼ばれる。「大きくする」というのが原意である。「主を大きくする」という言い方から始まっている。これは、人間が神を大きくする、などという意味ではない。神は初めから大きい。大きいという形容詞さえそぐわないほどに、絶大である。「主を崇め」と普通訳す。しかし、「大きくする」の意味を含みもつことをもう少し胸に懐いていたい。
つまり、私が小さくなるのである。私は主の前で、もちろん小さい人間である。当たり前のことだ。だが、私たち人間は、どうかするとたちまち自分を大きくしようとする。自分を誇る。相手より優位に立とうとする。ひとを見下す。やがては、神を被告人の如くに取り調べ、有罪判決を下すような真似すらする。だが、そもそも小さい私であることから始まっても、自身を省みればみるほど、ますます自分が小さくなってゆくことを知るだろう。神を大きくする、というのは、そのような意味合いを含むものではないだろうか。
「この卑しい仕え女に/目を留めてくださった」ともマリアは歌う。「仕え女」にあたる昔の言葉はいまは差別語と見なされるなどの事情もあり、この箇所は訳語に苦労している。ところが、ここにルターの訳がある。『マリヤの讃歌』という小さな文書は、岩波文庫が入手しやすいであろう。邦訳としてその箇所はやはり差別的な語のままであるが、ルターの叙述は、次のように訳されている。
それが'humiliare'と言ふのは「卑しくす」「無にす」のことである。それ故基督信徒は聖書の中で屡々'pauperes','afficti','humiliati'「貧しき民」「無なる民」「棄てられたる民」と呼ばれる。(岩波文庫:吉村善夫譯p51)
説教者はこのルターの着眼を重んじて、「無に等しい者」という語を以て、ここからの説教を進めた。本日の説教の要は、この語であったと私は捉えている。これはまた、ルターの信仰であった、と説教者は指摘する。つまり、「神は、無い者に目を留めてくださる」というのである。
教会には、老齢と呼ばれる年齢の人が多い。表向き笑顔で他の教会員と接する。だが、年老いたらそれだけ、自分の惨めさや痛み、悲しみを背負うようになる。自分には一定の矜持もある。しかし、それを自ら真に受けるとなると、欺瞞が入ることが分かる。キリスト者故に、その偽りを知るのである。そのような状態で、教会にて賛美の歌を歌う。これは偽りではないのか。そんな苦しい思いを懐くことがあるのではないか。このような私は、まことに「無に等しい者」であるに違いない。
だが、それでも歌うのだ。教会では、歌うことができるのだ。どこか見所のあるような人間として、私が偉そうに歌うのではない。喘ぎ、悲しみ、傷を癒やせないままでいい。侮辱されて耐え得ない状態でもいい。神はそのような私に「目を留めてくださった」のである。マリアと共に、この歌を歌おう。
教会は、「無に等しい者」の集まりである。説教者はそのように告げる。その「無に等しい者」が集まって、いまここにクリスマスを祝おうとしている。己れの人間的な誇りなど、もうどこかへ棄てたらいい。神は別の形で、誉れを与えてくださるであろう。自分がどんどん小さくなるのを真底覚えたら、そこが神の礼拝の場となる。そういう者が集ったら、そこが教会なのである。
説教者はまた、マリアの賛歌が「革命の歌」と呼ばれることがある、と示した。いま私が調べることはできなかったが、これは誰かがすでに「説教」の中で語ったものとして知られているらしい。後半で、権力者をその座から引きずり下ろす、なんとも頼もしいような言葉を並べているのである。それは、イスラエルを奮い立たせる言葉としても聴くことができる。
権力者。なんともキリスト教会からすれば、嫌な響きをもつ言葉である。歴史とくれば、権力者の名前とその政策ばかりが居並ぶ。庶民の生活は、申し訳程度に歴史の教科書に滑り込まされるだけだ。そしてしばしば、日本のキリスト教会は政治を批判し、政治家の言動に噛みつこうとする。実際の力に達するのはまだよいほうで、たいていは、礼拝の説教の中で、政治の悪口をさらりと言うくらいである。それは、悪い政治権力と対比させて、自分が善であり神の味方であることを証拠立てて安心したいためでしかない。
だが省みれば、キリスト教の歴史は、権力側に立って、人々を虐げてきたことのほうがずっと多い。いまでこそ、一部のキリスト教会がLGBTQを支援して味方であるような顔をしているが、つい何十年か前までは、教会が彼らを罪人となじっていた。否、彼らを迫害していたのは、教会というもの自身であったのだ。
キリスト者は、一人ひとりは、確かに「名も無き者」であり、「無に等しい者」である。だが、逆に「名を匿し」「無責任」であると称しつつ、加害行為に励んでいる、ということはないのだろうか。そういう組織を創り上げてはいないか、という点と、実は個人でもそのようなことをしていないか、という点とを、もっと厳しく吟味しなければならないと私は強く思う。
説教者は、もちろんそのようなことは言わなかった。権力を前にして、低いものが高くされるように、神に従う道を促しつつ、マリアに倣うべきことを、説教全体からまとめてゆくのだった。小さくされたキリストをこそ大きくしようではないか、と呼びかけた。ホームレスのような立場の人々のことを「小さくされた人々」と称することがあるが、そのことにまで触れる余地は、この説教の中にはなかった。説教はひとつの流れの中で、収束を果たさなければならない。歌うというテーマの中で、喜びの歌を与えられることへの希望を告げることで、説教は結ばれていった。それはそれでよかった。
私はその背後で、自分に対する苦々しい思いを感ずると共に、私なりの希望を見出していた。この説教で強調された「無に等しい者」について、「名も無い者」と説教者は途中で言い換えた。そう。一人ひとりは「名も無い者」である。だが、それは「世」においてのことではないのか。この「世」では文句なく、キリスト者の一人ひとりはまずその殆どが、「名も無い者」である。だが、「名」をもたないのではない。キリスト者は、神から救いの「名」を必ず与えられている。「名」は本質である。神に救われた者は神から救われた名を受けている。
黙示録では、「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして私は、その名を決して命の書から消すことはなく、その名を私の父と天使たちの前で公に言い表す」(3:5)とサルディスの教会への手紙に書かれていた。また、「都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(21:14)という形の記述もあった。
私は幻を見ていた。この世では、確かに「名も無い者」であるのだが、神の国においては、神の許に、「名が刻まれた」者である。そのような希望を、この説教を聞きながら、見ていたのである。