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『これからの日本の説教 説教者加藤常昭をめぐって』(説教塾ブックレット・キリスト新聞社)

説教塾のブックレットの中では、厚いものである。240頁ほどある。「説教塾ブックレット」としては第9巻である。主宰の加藤常昭先生が齢80を数え、「Xデー」なるものも話題になってきた中、「加藤常昭とは何か」ということを問う機会が、このように設けられたのではないか、とも思われる。実際が違ったらお叱りを戴きたい。
 
キリスト教会において、礼拝説教というものに、これほど光を当てて、重視した人は、これまでいなかったかもしれない。もちろん説教を大切にする、ということは多くの牧師や伝道師が心得ていたことだろう。だが、その説教を「学」的に検討するというところまでは、普通の牧師は至ることができなかったはずだ。しかし加藤常昭先生は、ドイツでの経験もあり、この「説教」が如何にして命を与える言葉となるか、つまり説教は神の言葉である、というほどにまで徹底づけることを、理論的に訴えねばならないことに邁進した。しかも、それは理屈で片付けることができるものではなかった。「説教黙想」というドイツにおける貴重な営みが、なんとか日本においても根づかないか、祈り、実践してきたのである。しかも、それはいわば弟子を育てるというところにまで、労苦を厭わず実践するものだった。
 
本書は、長崎説教塾が主催した、「加藤常昭八十歳記念シンポジウム」の記録であるという。従って、森島豊牧師という、今回のスタッフの中では最も若い人によって企画運営されたのであり、本書もそのような体裁をとっている。
 
加藤常昭先生が教えてきたこと、祈り願っていることを汲み取ることを主眼としているように見えるが、本書の中でも断りがあるように、加藤先生を教祖のように扱うつもりはないし、その考え方に一切の批判を許さないような構造をもっているわけではない。だからこそまた、加藤常昭の取組みとは何であったのか、明確に意識しよう、という意気込みが感じられる。
 
森島豊氏による、実践神学の基礎付けという問題を展開する講演や、日本における黙想思想について振り返る佐藤司郎教授の講演が、発題的に掲げられるところから始まった。これらの講演への応答が、平野克己牧師や井ノ川勝牧師によって記されている。ここまでが第一部である。
 
第二部は、「改めて問うわれわれの課題」と称して、より一般的な説教の今後のことが考えられてゆく。これは、すべて加藤常昭先生の語りである。だから、ドイツの神学者や説教者のことが熱く語られる。師であるボーレンの名はもちろんのこと、バルトやイーヴァント、リッチュルといった名がそこに居並ぶ。もちろん、本書では全体的に、ボンヘッファーやブルムハルトといった先駆者についても言及されている。その方面への傾きに限定されがちであるというのが、本書の検討の弱点であるのかもしれないが、逆に一定の範囲で考察するからこそ、じっくり腰を据えて説教について考える場ができた、とも考えられる。
 
説教が神の言葉であることについて、またそれが教会を形作ることについて、また時に生温い教会説教の現状についての危機感について、語る人がそれぞれに熱をこめて語る。もちろんそこには、説教をどう位置づけるか、という神学的な検討も必要であろう。だが、結局本書が行き着くところは、説教者自身の生き方というものであるのではないだろうか。自ら福音を生きることなくして、福音を語ることはできない。それは、なにも道徳的に完全な人間になれ、という意味ではない。自らが神の栄光を現す生き方の中にあって、神の言葉を説教として語ることが必要なのである。
 
そうでないと、人間は、すぐに自分を神としてしまう。神の言葉を勝手に自分なりに解釈してよしとするならば、それは解釈する自分を神とするようなものである。これは神の言葉だ、と宣伝しておいて、実のところ聖書の言葉を自分の考え方を正当化する道具として利用することになるのである。
 
五人それぞれの観点が、一冊の中に凝縮している。大まかに捉えれば、方向性は見えてくるのだが、どうしてどうして、細かな議論の中に、そしてふと漏らす説教観の中に、宝物がたくさん鏤められていることを、読者はきっと知るだろう。聖書が命の言葉として、語る者、聴く者の中で生き働くようになるために、本書は実に熱く、力をもつ言葉に満ちている。何も加藤常昭先生の言うままにせよ、というのではなく、これほどの真摯な姿勢で説教というものについて、そしてそれを語る自分について、問いかけることが、キリスト教会には必要なのである。
 
よく、社会活動も大切だ、とか、弱者に寄り添って活動をすべきだ、とかいう合言葉が飛び交う、教会世界である。だが、そうこうしているうちに、社会組織としてはうまく働くかもしれなが、教会が教会である所以であるだろう、命の言葉を語るということから、どんどん離れてゆくことにもなりかねない。否、実際、説教がひとを変えてゆくことがなされていないからこそ、聴くに堪えない説教をありがたがったり、端から説教など誰も関心がなくなったりする教会組織が、「教会」という名でひとを呼び込んでは、がっかりさせて、ますますひとの魂を世に返してゆくばかりになっているのではないか。
 
日本中の教会の、礼拝説教を語る説教者が、神と出会い、真に救われて、本書を読み学ぶならば、日本の宣教は必ず変わる。そう私は確信している。それくらい、ここには宝物が詰まっていると思う。
 
東日本大震災以前の、説教論である。もしかすると、震災後であったら、ここに何か付け加えられたり、変更があったりするだろうか。加藤常昭先生は、その後2024年に天に召された。本書が遺言のように世に送られて、なお十年以上を生きてキリスト教世界を見守られた。果たして、どういう眼差しで見ておられたのだろうか。それはまた、説教塾のその後のブックレットにも現れていることだろうが、内心言えないものを、懐いていたのかもしれない。
 
まだ、ここに私たちがいる。私たちがどう受け止め、伝えてゆくか、そこを私たちは真剣に問わなければならないはずである。

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