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救いの音を待ちながら
マルコによる福音書の連続講解説教は、アドベント(待降節)の期間に入り、一時中断となった。アドベントとは、クリスマスを迎える直前の、凡そ1か月にわたる期間である。イエスの誕生を心待ちにする信仰を胸に、救い主が誕生するのを今か今かと待ち焦がれるのだ。こうしたときにも、連続した聖書箇所から語る牧師もいるが、クリスマスのためのメッセージのためには、適切な聖書の言葉を引いてもらう方がよい、と考えるのが自然であろう。
ルカ21章が開かれた。「小黙示録」とも呼ばれることがある、終末の預言の箇所である。その説教の粗筋をここで再現するよりも、今回は、この説教が描いていた世界を、私なりの理解で、比較的自由に綴ろうかと思う。
いま私たちがアドベントという形で迎えようとしているのは、もちろんクリスマスである。かつては、ユダヤの民が、イスラエルの復興を期待する思いで、メシアを待っていた。アッシリアやバビロニア帝国に滅ぼされた経験をもち、寛容政策をとったペルシアからも決して自由ではないままにあった民は、かつてのダビデやソロモンといった王国の栄光を再現してくれるメシアを待望していたのだ。
イエスの言動には、そのメシアだと見なす十分な理由があった。だが、現在の社会を支配する層は、現状を崩す者を悪と見なすものである。どうせメシアなどというのは嘘に決まっている。イエスを封じにかかるわけである。こうした展開は、現代でも同様であるので、少しばかり想像すれば、すぐに予想できるだろう。革命というものは、よほど大きな力が集まり、うねりとなる動きが重ならなければ、実現するものではない。
イエスはそういう空気の中で、使命を果たすべく、淡々と教えを語り、癒やしなどの神の業をしるしとして示していた。そのイエスが、やがてくる終末の出来事を予告する場面があった。段取りはできている。ユダヤの民が当時待ち望んでいた新イスラエル王国という設定のほかに、さらに人間が待ち望むべき王国がある、とするのだ。
私たちが祝うクリスマスは、当時の民が王国を期待したことを、ただ記念するだけのものではない。私たちは、もう一度キリストが地上に現れ、神の王国を実現する「時」を待っている。待つように、イエスは命じたのであり、イエスに従う者は、必然的に待つこととなったのだ。
このことを、ルカ伝を初めとする福音書に描かれたイエスは、すでに告げていた。この世界の終末を語っていた。そして神の国の実現のために、今後の人間が知っておかなければならないことを、こうして話したのである。従って、今後の人間が待ち望むものは、ユダヤの地にイエス・キリストが現れることを待ち望む、昔話ではないのである。ここで終末の情景を教えたイエスの言葉を信じて、次に再び来るイエス・キリストの再臨の姿を待ち望むのが、いまの私たちなのである。私たちが迎えるクリスマスは、この待望であるはずなのだ。昔々の物語を語り継ぐことが目的であるような錯覚を起こしてならないのである。
私たちは、個人的にイエスと出会い、救われる。それはその通りだ。それでよい。だが、個人的に幸せになった、で事が終わるのであれば、思いつきでつくられた新興宗教と変わるところがない。キリスト教の真実のひとつは、イエスという歴史的な実在がもたらした救いなのである。そして、これからも、もう一度最終的な奇蹟と神の業が、神の国という最終目的を現実にするということなのである。それをも、全体的に意味において、「救い」と呼ぶことにしよう。私たちは、だから確実に、その神の力が働く「救い」への道の中にいるのである。
「救い」が近づいてくる。いつの「時」であるかは知る由もないが、確かに近づいてきている。説教者は、畢竟このイメージを、この説教の間中、ずっと私たちに植え付けて暮れていた。否、私たち聴く者を、この救いを待つ場に引き入れ、救いを待つ緊張感を懐かせ、救いを待つ体験を与えたのである。キリスト者の人生というものは、このような待ち望み方をするものである、ということを、擬似的にではあるかもしれないが、体験させてくれたのである。
「救い」の「時」が、近づいている。そう客観的に言ってしまっては、その体験性が薄れる。「救い」の「時」が、「近づいてくる」。いままさにここへ、私のいるところへ、近づいてきている。この実感をもつように導くというのは、思うほど簡単ではない。クリスマスを客観的に、抽象的にああだこうだと話すことは、誰にでもできる。教科書をまとめて棒読みすれば、クリスマスの説明をすることは容易にできる。だが、聴く者をその場に連れて行き、クリスマスのエッセンスを体験させるというのは、誰にでもできることではない。説教者自身が、震えるほどに、その体験をし、涙を流し、心が張り裂けんばかりに喜びを叫ぶことなしには、できないことなのである。
私たちが連れて行かれたのは、炭坑の中である。福岡には筑豊炭田という、日本有数の巨大な炭鉱があった。福岡市周辺にも、規模は小さいながら炭鉱がいくつもあり、南の大牟田の三池炭田も大きかった。福岡県は巨大な石炭の埋蔵地であった。筑豊の炭坑記録画を数多く描いた山本作兵衛さんが、近年有名になったことは喜ばしい。2011年に、日本初のユネスコ世界記憶遺産と指定されたのが、この山本作兵衛コレクションであった。いまはないが、九電エネルギー館には、炭坑の様子を伝える実物大の建築模型があった。暗い中に電球が眩しく、男も女も裸で働いた。黒いダイヤと呼ばれ、成金の資本家も生んだが、炭坑夫たちのために「ひよ子」(東京のお菓子とは呼ばないで戴きたい)や「千鳥饅頭」などの銘菓が生まれた。
しかし、炭鉱事故は恐ろしい。そもそも地下にはどのような有毒ガスが潜んでいるかしれない。カナリアをそのために連れて行くというのが外国であったらしい。さらに怖いのが、「落盤」と呼ばれる事故である。19世紀末から、坑内火災や爆発事故を含めて、百年間近く相次いでいる。海外でも、事故は数多い。ビー・ジーズの「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は、意図的な架空の事故であったようだが、20世紀に起きた、ロンドンでの炭鉱事故が、この説教の中での舞台となる。
神学者ボンヘッファーは、1933年にヒトラーが政権を取得すると、その年から1935年にかけて、ロンドンのドイツ人教会の牧師を務める。そのときの説教が記録されているというのだが、あるとき炭鉱事故が起こった。その説教は、想像だか報道だか知れないが、その事故の現場に身を置いて、語るものであったという。
落盤か落石かで、炭坑夫たちが地下に閉じ込められてしまった。沈黙が走る。音のない世界となる。だが、何か歓声のようなものが聞こえた。どこかで救出された人とそれを目撃した人の歓声のようだった。しかし、こちらはまだ気づかれていない。声を出すべきか。だが、どうやら外に聞こえることはないようだ。こちらの体力を奪うことにもなるし、貴重な酸素を消費することも考えられる。身を潜めて待つしかない。
こうして、いま説教を聴く私たちは、この炭鉱事故現場に連れて行かれた。閉ざされた世界である。外から土を掘り、岩を砕く音が聞こえた。かすかに聞こえた。希望だ。じっと待つ。その音が近づいてくるのを待つ。音が明確になり、もうすぐここに辿り着く出あろう殊を願いながら、ただ待つ。外からの力が及ぶのを待つ。
サスペンス漂うこの過程について、説教者はその意味を明かしていた。アドベントというのは、こういうことであるのだ、と。私たちは、忍耐しなければならない。死を待つのみなのか、と不安にならざるをえない。助けは本当に来るのだろうか。神は来るのだろうか。助けに来てくれるのだろうか。しかし、神は来る。音がかすかに聞こえる。終末の気配が確かにある。ルカ21章には、その兆しについて具体的に述べられている。そして、その例の後に、イエスは大切なことを告げる。
このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)
今日は、この箇所だけを記憶しておくとよい。説教の中で幾度も繰り返された。助けを待つ事故現場で耳を澄ますと、かすかに聞こえる。救いの兆しがある。普通なら聞こえないような音も、信じる思いがあれば、聞き取れる。神の救いが外から来ている。その音が、信仰の耳には聞こえる。聴きながら私は、自分がまさにその炭坑にいることを体験した。そして、かすかな細い声を聴いた。
ボンヘッファーは、会衆に問うたという。あなたは救われたいと思わないのか、と。救いの音を聴こうとしなければならない。助けを待たなければならない。必ず救いは来るのだ、とイエスが再び来るのを待つ。それがキリスト者だ。それが、アドベントだ。
説教者は、ここのところ、世相の批判のようなことも加えるようになっている。「批判」というのは「非難」ではない。事を冷静に検討することだ。今日は、現代人の病を指摘した。それは「神不在の社会」である、というのだ。クリスマスの物語を忘れている、ということをそれは示す。それは、クリスマスの意味を自分の欲望を満たすために利用している風潮を指しているのであろう。
しかし、私は、これが暗にクリスチャンに向けられている、と理解しなければならないと思った。クリスチャンが「神不在」というのは馬鹿げている、と一蹴する人こそ危険である。私たちの礼拝に、賛美・感謝・喜びが常にあるだろうか。そして、自分へ向けて掘られている救いの音が、聞こえているだろうか。聞こうとしているだろうか。問い直すべきことは多々ある。他人はダメだな、とばかり世間を見渡し、自分がそれに当てはまるかどうかを「批判」することを忘れてしまったならば、それが一番危険なことであるのだ。
だが、神は、神であることを決して忘れない。神であることを辞めることはできない。人間が自分を粗末にし、簡単に信じる道を諦めてしまうのと対照的に、神は愛することを止めることがない。
私は山々に向かって目を上げる。
私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主のもとから
天と地を造られた方のもとから。(詩編121:1-2)
だから、ルカ伝の言葉を忘れまい。もしそれが長いから、覚えられないなどと言い訳をしたとしても、その一部を忘れることはないだろう。「身を起こし、頭を上げなさい」と、イエスが私に向けて言ったのだ。「身を起こし、頭を上げなさい」と。そこから、救いは来るのである。