主は見ておられないとでも言うのか
哀歌3:25-36
哀歌の5つの章は、5つの詩からできています。それぞれが、アルファベットによる詩となっており、技巧を凝らして作られています。邦訳では、その工夫が伝わってこないのが惜しいと思います。主の恵み深さがここにはまず並び、主に希望を置き、主を探し求める者、主の救いを待ち望む者に恵み深い、ということが書かれてあります。
このとき、「若い時に軛を負う者」がことさらに取り上げられているのが、目を惹きます。黙って独り座っている者です。イスラエルは、もうどうにもならない状態になっていました。もはや、塵に口をつけることにしか、希望の可能性を見出すことができなくなっています。片頬を打たれたらもう片頬を差し出せ、とイエスは無理な教えを告げました。
ここでは当たり前のように、それが記されていました。「自分を打つ者に頬を差し出し/そしりを十分に受けよ」というのです。相当に危機的な情況です。けれども、事態は一変して、このようなことにもなり得るものです。昨日までの平和が、一日で戦場になることもあるし、昨日までの平和主義者が、一日にして戦争賛美者にもなり得るのです。
主を待つかどうか。このような中でも、主の憐れみを受けるかどうか、主を求めることにかかっているのだと言います。救いは主にあると信じて止まない者にこそ、恵みが及ぶというのです。主の慈しみは豊かですが、そのような者を辱め、虐げるのは、主の「御心ではないのだから。」どこまでもこの主を見上げ、待ち望むのがこの預言者です。
この情景は、捕囚の憂き目に遭い、踏みにじられ、帝国の横暴な振る舞いによって不当に扱われるイスラエルを示しています。いくら訴えても、人間は聞く耳をもちません。しかし、哀歌は力強く主に願います。敵に叫びます。このような不条理を「主は見ておられないとでも言うのか」と。己れの力は頼れません。ただ、私は主を信じています。