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スプラングニゾマイ

マルコ伝の連続講解説教を引き継ぐ今日は、1:40-45が開かれた。「規定の病」の患者がイエスの許を訪ねる。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「清くなれ」と告げると、その人は清くなった。イエスはその人に、このことを誰にも話すな、と戒めるが、すぐに言い広めることとなった。イエスは寂しいところに引っ込んだが、人々は押し寄せてくることとなった。こうした場面である。
 
説教者は、いくつかの引っかかりをもったところでブレーキをかけながら、ドライブを続ける。ただ、面白いのは、話の順番通りに走らない、というところだろうか。私はここで、説教者の経由した順序とは無関係に、しかし説教者が停まった景色を自分も楽しんでみようかと思う。
 
まず、「規定の病」という言葉についてである。説教者は解説をしてくれた。旧約聖書において「規定」されたが故の、苦労の訳語であるらしい。症状からしても、従来の病名がそぐわないという声も起こったと聞く。旧約聖書の律法で、この病についての定義や、そこから「清い」とされるために必要な手続きなどが書かれている。家屋にもその「病」がある例についての「規定」もある(レビ記14章)くらいだから、現代の私たちよりも広い概念で使われていた言葉なのかもしれない。
 
思い起こすのは、十年前に観た映画「あん」である。売れないどら焼き屋の男もとに、歳をとった女性が訪れ、雇ってほしいと願う。餡を作る腕がある、という。雇われることとなったその餡の美味しさは評判となり、店が繁盛する。しかし、その老女が「規定の病」のような人間であったことが分かったことで、店のオーナーは辞めさせる。樹木希林が実に見事な演技をし、国内外で多くの賞を受けた。その療養所施設のロケ地も心に残った。
 
説教者は、病気そのものの苦しみもさることながら、病気が人を「社会から落とす」ことの苦しみをも、考えるように導いた。その病気が隔離されるものではなかったとしても、他人に知られたくない、というケースは数多くあるだろう。知られたが最後、それまでのような社会生活ができない、ということもあるに違いない。
 
だから、ここでイエスが、ただ癒やした、というだけで福音書の記述が終わらなかったのだ。「規定の病」のこの人は、ただ癒やされただけでは、社会復帰は果たせない。「行って祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明しなさい」と命じたのは、社会に戻るために必要な手続きだったのだ。
 
さて、イエスはこの病に対して、「その人に触れ」て、癒やした。ここに注目する人も多い。そして「私は望む。清くなれ」と言うと、「たちまち」病は去ったという。神の望みは、神の言葉として発現する。神の言葉は、出来事となる。つまり実現する。言葉と存在の一致について、哲学者たちは一時それこそ「真理」だと定義していたが、神という場においては、言葉はそのまま存在であったから、神が真理だというのは、いわばトートロジーであるようなものであった。
 
が、ブレーキをかけたのは、そこではなかった。「イエスが深く憐れんで」という箇所である。ギリシア語では一語、動詞があるだけである。「彼が」の主語は表示する必要がないからだ。この動詞は、教会にある程度通って説教を聞いていれば、必ずどこかで耳にする語である。カタカナ表記に留めるが、辞書で見るならば「スプラングニゾマイ」(途中息が漏れるような音が入るが通常これでよいはず)というところであろうか。
 
「スプラングニゾマイ」は、「同情して心を動かされる」ことを意味する。「憐れむ」とは限らないが、ここではイエスの心情を慮って、「憐れむ」という日本語が採用されている。
 
このギリシア語は、「内蔵」という語を活用させてできていることから、日本の教会では古来、「断腸の思い」と重ねて理解されてきた。母猿の死にまつわる中国由来の故事成語である。内臓に響くほどの心苦しさを伝えるもの、と理解したのである。
 
説教者は、ある人が、八代亜紀の「舟唄」の歌詞のことを教えてくれたことを話した。歌詞の中に「ダンチョネ」というのがあるのだ。神奈川の三浦半島に伝わる民謡の「ダンチョネ節」から来ているのであろうと見られているが、それも「断腸」がベースにある、という話がある。
 
しかし「内蔵」であるから、腸とは限らない。心臓・肺・肝臓など主要な内臓を指すことができ、ギリシア人はこのような主要な内臓に、感情・怒り・不安・恐怖、そしてまた愛情の座がある、と考えていたようである。その中でも特に「怒り」を含むものだということに注目されていたともいう。
 
そのため、説教者も指摘したが、この「憐れむ」という部分を、「怒る」という語で訳しているものもある。日本語では、田川健三の訳がそうである。もちろんこれは故無きことではない。いま触れたように、人間の深い感情の座として内臓を捉えている中で、特に怒りというのは重要な要素であったためである。
 
その感情の深さは、人間存在の深みにまで入り込み、人間全体を動かすような感情を指すということから、ただの憐れみではなく、もっとも強い「同情」のようなレベルで捉えるべき感情だ、と理解すべきなのであろう。
 
この語は、新約聖書で福音書にしか使われておらず、しかも、主語はイエスに於いてのみ用いられている。尤も、たとえ話に於いては、イエスを代行する者についても適用されている。負債を払えなかった僕に対する主人、放蕩息子を迎えた父親、そして瀕死の旅人を助けたサマリア人である。
 
ギリシア人の考え方からすれば、これは人間の心情であったようだ。だから、神々について使うことはなかったという。イエスについてこの語を用いた福音書記者たちは、どれくらいギリシア文化に染まっていたかは分からないが、もしもこのギリシア人の感覚を熟知していたとすれば、イエスについて、それが血も涙もないような神とは訳が違う、ということを堂々とぶつけたことになるのかもしれない。
 
私たちも、イエスのこの深い同情がなかったら、果たしてイエス・キリストと出会っていただろうか。その辺りまで、私は心に深く、この言葉を受け止めるべく考えるのだった。
 
ところで、説教者が指摘したこの「内蔵」だが、増田琴牧師が『マルコ福音書を読もう』の中で、この「内蔵」には「子宮」も含ませて読んでいたという指摘には、私もハッとさせられた。女性にとり、子宮の痛みというのは、もしかすると断腸どころでは亡いのかも知れない。少なくとも、それは人間の深い感情の座である、という理解から外れるはずがない。男である私からは発想できなかったことであり、情けないものだと項垂れるしかなかった。
 
説教者はほかに、「誰にも、何も話さないように気をつけなさい」とイエスが命じたにも拘わらず、「彼は出て行って、大いにこの出来事を触れ回り、言い広め始めた」点にも目を留めた。これはイエスにとり、ある意味で迷惑なことであった。町の中に入りづらくなったのだ。だが、この男が「触れ回」った点が重要だった。何故なら、この語は、「宣教する」という使われ方が他でなされているからである。「伝道する」でもいい。あるいはいっそ「説教する」でもよいのだ。
 
癒やされた者は、神の業を称える。それから、神の業を告げ知らせる役割を担う。では、癒やされなかったとしたら、どうだろうか。説教者はその点をきちんと語る。神に祈れば皆病気が治る。そのようなことはない。もしそうなったら、神はお安い病気退散の道具にされてしまうだろう。人間とは、そういう者なのだ。それが人間の罪なのだ。ただでさえ、人間は神を利用しようと機会を狙っている。どんなシチュエーションであっても、神を利用して自分の腹を満足させようと手ぐすねを引いている。
 
もし癒やされたなら癒やされたで、自分の祈りの故に、あるいは自分の信仰の故に、神が動いたのだ、などと考えることさえある。それが、もし癒やされなかったら、こんな神など信じるものか、と背を向けもするだろう。これこそサタンの思う壺である。
 
病が癒やされるか否か、それだけが神とのつながりであるならば、それは「不幸」だ、と説教者は強調した。イエスは祈る。祈っている。だのに、神を自分の願いの道具として扱うならば、それは「サタンに騙された」ことになるのだ、と説教者は戒めた。
 
かの「規定の病」の不幸のひとつは、人前では「私は汚れている」と宣伝しながら通らなければならない、という点だったという。新型コロナウィルス感染症のときもそうだったが、インフルエンザに感染していても、ショッピングセンターにも平気で来るし、電車にも乗っている、そういうことが恐らくよくあるのだろう、と思う。その意味では、「私は汚れている」と叫ぶ律法は、健全であるのかもしれない。サタンの誘惑に乗って、イエスの祈りを蔑ろにするとなると、汚れたままになってしまっていることになるのかもしれない。
 
鮮やかな癒やしを受けるとは限らない。心身に残る傷が、消えないでいるかもしれない。だが、イエスは祈っている。弱い私を支えている。そこに目を注ぎたい。自ら傷ついたイエスが、その傷によって、私たちを癒やしたのだ。説教者は、この説教をこの辺りで結んだ。
 
なおこのとき、説教者は一冊の本をまた紹介した。ヘンリ・ナウエンの『傷ついた癒し人』である。ナウエンの本は何冊か味わったが、私はまだこれを読んでいなかったため、読みたいと思った。調べてみると、原著は「The Wounded Healer」ということである。自分こそ傷つけられているのに、誰かを癒やすことになっている者、というような意味を含むのであろうか。つまりは、牧師のもつ苦しみを描いたのであろうか。
 
だとすると、このさりげない紹介は、説教者としての自身の問題を熱く滾らせたものであったのかもしれない。教会員の誰かが、それに気づいて、祈ってほしい、という願いがそこから零れていたのかもしれない。傷ついた葦のような自分がここにいる。そこへスプラングニゾマイの心を向けてほしい、という遠慮がちな願いが、告白されていたのかもしれない。

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