『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる・中央公論新社)
失礼だが、存じ上げなかった。大関和(ちか)さん。幕末の1858年に生まれ、関東大震災後間もなく、74歳で亡くなっている。
著者は女性にまつわる調査を多くこなしているというから、本書も、女性と職業という観点から綴られているには違いない。ただ、和さんが信仰者であったということから、私はまた別の光を当てねばならないという気持ちになってくる。
副題ではなく、題の冒頭として、「明治のナイチンゲール」が掲げられている。もしかすると発行社の方針であるかもしれない。これがあるのとないのとでは、売れ行きがおそらく違ってくるはずである。
しかし、「日本のナイチンゲール」という耳に響く音が美しい言葉は、必ずしも大関和さんだけに掲げられるものではない。新島襄の妻となった八重(大河ドラマ「八重の桜」の山本八重である)は、皇族以外の女性としては初めて明治政府から勲章を与えられている。日本赤十字社から派遣された看護婦(2001年以前、看護師は看護婦と称された)のリーダーであったなどの功績である。日清戦争の救援活動である。
その八重も、ごく短くではあるが、本書で触れられる。このときまで、看護婦は「看病婦」と呼ばれ、卑しい仕事だと見なされている。いかがわしい眼差しも向けられていたし、何より資格も何もなかった。差別的な響きがあるかもしれないが、ただ奉仕の女中とでも言えばよいだろうか。
1854年のクリミア戦争でその才を発揮したナイチンゲールの時代も、同様であった。だがナイチンゲールの看護婦としての実働期間は実に短い。残りの人生は、看護婦の立場の確立や衛生観念の周知などのため、非常に政治的に働いている。
このナイチンゲールは、確かに世界から見れば画期的な働きをしたことになる。そのため、「日本のナイチンゲール」という呼び方で、日本における同様な働きをした人を呼ぶということが起こるのだった。
先に新島八重に触れたが、ほかにも1920年に創設されたフローレンス・ナイチンゲール記章には、「日本のナイチンゲール」と呼ばれるに値する人が、2年に一度、二人ずつ名を残している。近年では、「長崎如己の会」や「ペシャワール会」といった、キリスト教に由来する団体からの受賞も目立つ。
こういうわけだから、本書も「明治のナイチンゲール」という言い方をしてぼかしているのかもしれないが、それでも、和さんは、看護学校の設立や運営などの大きな動きを起こしているし、政治家に熱心に語りかけて、看護婦の立場を守る働きに著しい成果を残している。
その生い立ちや業績をここで細かく挙げるのは控えるが、最低限のことはご紹介しようかと思う。下野国黒羽藩の国家老の娘として生まれ、生活に困ることはなかったが、不幸な結婚のために東京の実家に戻る。英語を学ぶ過程でその近くにある鹿鳴館に関心をもつ。そのときはあの大山捨松との関わりもあるのだった。
さて、その英語塾にはクリスチャンが多かった。塾生たちの話を聞いて聖書に興味をもち、教会に通うようになる。そこの牧師が、植村正久であった。植村正久について説明するような野暮なことはやめる。プロテスタントにおける名説教家であり、言ってしまえば草創期の巨人である。本書の見立てによると、和とは、牧師と信徒という関係よりも、むしろ「友情」で結ばれていたのではないか、と記されている。
和を看護婦の道へ導いたのは、この植村正久と矢島楫子である。矢島楫子が熊本は益城町の生まれであることは今回調べて私も初めて知ったが、女子学院の初代院長であるが、教育に留まらず、後に禁酒運動や公娼制度廃止運動に尽力する。和は、こうした人物の間で教会生活を続け、看護婦養成に労し、しかもその看護の道を、奉仕や献身に重ねていく。決して欲を張らず、当初は貧困者の救済のためだけに突き進むタイプであった。
時は遡るが、親友とでも言うべきか、鈴木雅(まさ)という女性と、看護学校の同期として出会っていることは、お読みになるときにしっかり押さえておいて戴きたい。寮では同部屋であったが、この二人は終生協同して働きをなすことになる。但し、無償奉仕を旨としたい和と、ビジネスとしての立場を重視する雅とは、見ていてハラハラするくらいに対立することもあった。
その点、ナイチンゲールは、決して看護活動を奉仕のようには見ていなかった。奉仕や献身を唱った同時代のアンリ・デュナンの赤十字活動には批判的であったという。本書では、時折、ナイチンゲールが献身を勧めたというような書き方をしているように見えるのは、誤解されないようにと願いたい。だから、大関和のように看護に没頭してしまうことを「ナイチンゲール」に重ねてしまうのは、私には少しばかり抵抗がある。
また、そのナイチンゲールが、衛生環境に注意を向けたことはよく知られている。それまでの戦地での兵士の死亡は、不衛生に基づくもので、いまでは考えられない常識があったらしい。手洗いが衛生の基本だと提言されたこと自体が、クリミア戦争直前の頃だったのだ。
クリミア戦争という部隊が、看護の重要性に気づかせるものとなったのであったが、和においても、日清戦争での八重の活躍で看護婦の地位が認められるようになり、和は日露戦争に強く関わっている。
詳述は避けるが、278頁辺りから、安田というクリスチャンの男性のエピソードは、ぜひじっくりお読み戴きたい。この方の生い立ちと信仰には、私は号泣してしまった。また、310頁の「たずね人」のエピソードも感動した。大関和が水の上に投げたパンは、大きな輝きをもって見出されることになる。
看護婦が日本において、明治期にどのように扱われ、またこうした人々の努力により、どのように認められるようになっていったのか、その歴史を扱っている本だとも言える。そこに、「信仰」という横糸が絡んでいたことを、本書が強く表立って描いていてくれたことを、うれしく思う。キリスト教信仰が、社会を作り、あるいは変え、導いてきた時代があったのだ。いまのキリスト教信仰には、それがなくて当たり前だという空気はないだろうか。それでよいのだろうか。いきり立つ必要はないが、ぬるま湯の自己肯定をすることに、何か違和感を覚えることは、あってもよいのではないかと思う。本書のような歴史を掘り起こして戴いて、とてもありがたいと思っている。