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苦難の中から見上げるところに

哀歌3:20-27 
 
思い起こすと悔しくなることがあるでしょう。一方、思い起こす、ということ自体が、それが過去のことであることを示している、とも考えられます。いまその渦中にあるのではない、という情況であることになります。もちろん、過去のその影響は確かにあるでしょう。あのことさえなかったら、という後悔の気持ちが自分を縛っているかもしれません。
 
思い出はそこにあり、それをどう受け止めるか、ということが、いまの、またこれからの自分を形づくると言うこともできるでしょう。そこに、主の介入があることを知ることができるかどうか、主を待ち望んでいたかどうか。見えるのは慈しみでしょうか、憐れみでしょうか。朝ごとに新しい恵みが、私を取り巻いていると気づくでしょうか。
 
主は真実です。主は私を信頼してくださっています。それは尽きることのない愛です。私はそれを力として受けます。命を戴きます。主から、私はかくも大いなる恵みを受けています。記者は、まるでイエスの十字架の愛をひしひしと感じているかのような平安を与えられているようです。旧約の詩人もそうだし、哀歌の筆者もまた、そうです。
 
哀歌は、困難窮まる中で発された言葉からできています。それでも、そこに主からの愛を支えに歩んでいられるわけで、イエスの名こそ出せないにしても、底知れぬ力をイエスからのものとして覚えていたのと同様なのではないでしょうか。自然災害は、ひとに責任を求めることの難しい情況です。遭遇した人とそうでない人との差は余りにも大きい。
 
このような信仰をもつべきだ、などと外部の者が口にすることはできません。言ってはなりません。絶望しかないような現実を受け止めることもできないような中で、主に希望をもてばよい、などと傍から告げることなどできません。「主の救いを黙して待ち望む者」でありたい。「軛を負う者」には自由をもたらす約束があることを待ち望みたい。

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