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呻きと祈り

開かれた聖書箇所は、詩編第5編と、マタイ伝6章の前半部分。マタイ伝では、山上の説教で、「祈るときは」と始まり、「主の祈り」が挙がっているところである。詩編はダビデの詩で、嘆きを示すようなものである。しかし、ただ嘆くというよりも、敵への強い復讐心が現れているように見える。
 
主よ、義によって導いてください。/私に敵対する者がいます。/私の前にあなたの道をまっすぐにしてください。(詩編5:9)というところからは、急激に、呪いの言葉が並ぶことになる。その「敵対する者」の悪口のようなことを言うに留まらず、次のような強い言葉が、ダビデから出ている。
 
神よ、彼らに罪を負わせてください。/その謀のために、倒れますように。/度重なる背きのゆえに、彼らを追い出してください。/彼らはあなたに逆らったのです。(詩編5:11)
 
詩編は、聖書の初心者にも読みやすい部分が多い、と言われる。だが、ここは信仰の長い人にとっても衝撃的である。イエスの教えを知る者にとっては、これほどにひとを呪うようなことを言うべきではない、という教義的な理解があり、このような詩編を受け容れがたくなるのではないか、とも思われる。
 
今日は主任牧師が他教会にて説教を語っているため、もう一人の説教者が担当している。韓国から単身日本の救いのために渡ってきた女性説教者である。説教には殆ど「あそび」がなく、聖書の言葉をまっしぐらに語る。今日も、開かれた詩編と主の祈りの箇所に、忠実に沿いながら、福音を語るのだった。
 
この「レスポンス」では、説教者の語りをそのままご紹介する意図はない。あくまでレスポンスであるから、説教者を通じて届けられた神の言葉に対して、自分がどのように応えるか、が中心であると考えている。しかし、実際は語られた説教を示しつつ、そこに私の応答を交えるという形をとっている。その割合は、厳密に調べたわけではないが、2対1くらいではないかという意識をもっている。しかし、今日については、その割合を崩そうと考えている。説教者の意図よりも、私の側での、その聖書の言葉の受け取り方を中心に、もうしばらくお話ししたいと考えている。
 
説教者は、人からどう見られるか、ではなくて、神からどう見られるか、を気にしたい、と言った。単なる推測だが、説教者自身が、人から見られていることについて、心の内で困難を抱えているのかもしれない、と思った。事実無根であるという前提にしておくため、ここから先は、実際の話ではなく、私の中での妄想のようなもの、としてご理解戴きたい。
 
外国から日本に一人で来て伝道する。それは決して簡単なことではない。簡単でないというのは、渡航の問題ではなく、精神的な問題である。それも、韓国という国からであると、それぞれの国の関係が複雑である。古代においては、韓国は日本の文明をつくったような先進国である。もちろん中国という巨大文化の窓口でもあるのだが、そこから多くの人の力を借りて、日本文化と呼ばれるものの基を形成するようなことにもなっていた。
 
しかし、明治時代に日本が掲げた国策は国を強大な力を有するものへと変え、韓国を支配する形をとる。太平洋戦争後、韓国は独立するが、日本に対する感情は、決して良いものへとはならなかった。日本が、敵国だったアメリカ文化を簡単に受け容れたように見えるのとは訳が違った。しかし韓国自身、北朝鮮との関係が、民族分断というものを通じて悪化し、その争いの背後で日本は経済発展を遂げてゆく。民主化へと進んだ韓国は西側の一員としてアメリカや日本との関係をつくったが、やはり日本への感情が良好であるとは言えない。
 
そのような中で、キリスト教に関しては、大きく水が開いた。日本でのキリスト教は、文化や教育の分野でひとつの名を馳せたような面があるものの、信仰という面では全く揮わない。キリスト教信徒は日本人口の1%などとよく言うが、それはかなり水増ししているとしか思えず、珍しがられる存在となっている。伝道面でも盛んであるとは言えず、幾つかの意味で衰退しているというように見えている。
 
韓国は、統計にもよると思われるが、宗教別の信徒数では、キリスト教が最大となっている。人口比で3分の1ほどだとも言われる。この差がどこから来たのか、分析や研究があるが、その背景のひとつに、日本に対抗する運動の中でキリスト教が支持されていった点もあることは、否定し難いように思われる。
 
その韓国のキリスト教会の中に、日本への宣教を祈るところも現れた。日本人の救いのために、との使命が神から与えられたというのだ。詳しい過程については私は知るところがないため、無責任なことはこれ以上は述べないことにするが、神から日本人の救いのために働きなさい、との声がかかる献身者が起こされてきたのは確かだ。
 
だか、日本での伝道は、韓国におけるようには進まない。語っても響かず、伝えても信じる人が増えない。これは、伝道者としては最大の苦しみである。阪神淡路大震災で、消防団の方々が深い心の傷を負っていた、という報告がある。通常消防の仕事は、人の命を救うことである。だが、震災のときには、助からなかった人の遺体を運ぶことだけが職務となった。その無力感は、比較できないほどに辛いものだったという。
 
韓国から日本に単身渡った。心の内を明ける人がいない。母国語で打ち明ける相手がいつもそばにいるわけではない。そして常に日本語で人に接し、説教を語らねばならない。さらにそれが女性であれば、精神的な負担はさらに増すものと想像される。
 
繰り返すが、これはこの説教者のことを説明したわけではない。私の中での空想の出来事であり、語られたところから、勝手に想像したものである。誤解なきように願いたい。
 
主よ、私の言葉に耳を傾けてください。/私のつぶやきを聞き分けてください。
私の叫びに心を向けてください。/わが王、わが神よ。/私はあなたに祈っています。(詩編5:2-3)
 
ここの「つぶやき」という訳には、「呻き」とも訳せることが、聖書協会共同訳には付せられている。説教者は、この後、この「呻き」という言葉を掲げて、説教を続ける。そのとき、この2つの節にあった、「言葉・呻き・叫び」の3つがセットになっていた。このセットを繰り返し告げるのであった。しかも、「呻き」はついには「叫び」へと昇華する。「祈り」とは「叫び」なのだ、というほどにまで、説教は高まってゆくのだった。
 
さて、続いてマタイ伝から「主の祈り」が紹介される。イエスが弟子たちに「祈るときには」こうせよ、と教えたという記事だが、それは同時に、教会が信徒に対して、「祈るときには」こう祈れという教育の役割を果たしたものと想像される。説教では、この「主の祈り」の中に目が注がれた。
 
というより、「父よ」という呼びかけにのみ、説教者の関心は集中していた。日本語訳とは異なり、原語では、この「主の祈り」は、「父よ」という語から始まるのである。この一言だけで、今日は十分だった。
 
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマ8:15)
 
「アッバ」という呼び方は、親しみと信頼に包まれた言葉であるらしい。しかし、このときも説教者は、この呼び方を「呻き」に染めた言葉として示した。その呻きを、神は聞きたもう。ダビデは神殿ではなく、天幕において神を見上げて祈ったのであろうが、呻きとしてのこの祈りは、「主よ、私の言葉に耳を傾けてください」(5:2)から始まっていた。
 
何故呻くのか。敵がいるからである。ダビデは人生の中で幾度も、敵に囲まれ、また狙われていた。通常の戦争においては百戦錬磨の闘士であったダビデだが、油注がれた主君サウルに命を狙われ、息子アブシャロムに王宮を追い出され、国民の殆ど全部に棄てられる経験をしたのだった。
 
敵は敵である。敵を赦せ、というイエス・キリストの教えが王ダビデのモットーになることはない。否、サウルを赦し、アブシャロムを救おうと努めたダビデは、実のところ、イエスの「敵を赦せ」を全うしたのではないか、と私は思う。
 
ただ、この詩の中では、ダビデは自分を襲おうとする敵に対してお人好しな態度はとれない。それというのも、ここに挙げられた「敵」は、神の前に正しくないからだ。ダビデには、罪を赦す権威はない。「彼らはあなたに逆らったのです」(5:11)というからには、それを憎むことが、ダビデにとっては神と共にいることに外ならなかった。
 
説教者は、語ることを終始「祈り」につなげていた。否、この説教自体が、「祈り」であったのではないか、と思う。「祈り」としての説教、それはある意味で、神の言葉の出来事として、理想に近いような姿ではないか、というようにも、私は思うのだった。

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