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勝利宣言 (ヨハネ一5:1-5)

◆時代劇
 
以前にも触れたことがありますが、時代劇が流行らなくなりました。それを意識してか、NHKの連続テレビドラマで、時代劇が好きな子が登場しています。懐かしむアダルトたちで盛り上がっているみたいです。忍たま乱太郎が、子どもたちには最も近い時代劇なのかもしれませんが、それももうずいぶん長く放送されており、見ているのは親世代ばかりではないかとも推測します。
 
私も、笛吹童子や(実写のほうの)赤胴鈴之助までは遡れませんが、水戸黄門や遠山の金さん、大岡越前や江戸を斬るこの辺りは知っています。銭形平次も後のシリーズなら分かります。ルパン三世の銭形警部の由来すら、近年のファンは知らないかもしれませんね。
 
時代劇はまた、座頭市や木枯し紋次郎や子連れ狼、あるいは必殺仕事人のような、どこかダークなヒーローとしての描き方も人気がありました。しかし今やむしろ、アシガールや信長協奏曲のような、タイムトリップもので関心を集めたり、人気の若手俳優を使って話題になるというほうが主流でしょうか。
 
大河ドラマで戦国時代を扱ったところで、幅広く盛り上がることはなくなりました。戦や一騎打ちのような場面は、時代物の華でしたが、いまの北条氏の物語も、さてどうなりますか。
 
権力に虐げられる弱者を正義の味方が助け復讐するような、かつての時代劇の典型的な構成は、視聴者に一種のカタルシスを与えていたように思われます。それをルサンチマンと見てもよいでしょうが、正義が勝ち、悪が滅びる。そんな勧善懲悪ものが人気があったのです。しかし、私もその後、別の視点をもちながら時代劇を見るようになっていきました。
 
悪代官が裁かれるのは仕方がないとしましょう。でも、クライマックスで、悪代官の部下たちが、「であえ、であえ」と命じられて正義の味方に斬りかかりますと、ばったばったと斬り殺されていくのです。ドラマによっては、そうした手下には峰打ちをするヒーローもいましたが、概ね、次々と殺されていきます。それは正義の味方の側からすれば、確かに正当防衛ではあるでしょう。あるいは、身分の高さから斬り殺しても罪にはならないという事情であるかもしれません。でも、斬られた部下たちは、本当に殺されて仕方がなかったのでしょうか。
 
彼らは、職務に忠実なだけだったのです。妻子を養うための職業としてそれを全うしたのです。仕えている主君のためには命を棄てるという、いわば殊勝な心がけで、職務を全うしたわけです。それが封建社会の掟でした。忠君の精神から殉死した、それらの下っ端の侍たちは、正義の実現のために殺されて当たり前だった、それでよいのだろうか、というふうに私は思うようになりました。
 
◆ヨハネの手紙
 
ヨハネの手紙を繙きましょう。「ヨハネ」という名前は、新約聖書でも幾度も登場します。イエスの十二弟子のひとりの名です。その弟子が書いたのではないかと歴史的に見られていた、古来「ヨハネによる福音書」と呼ばれる福音書があります。これは、他の三つの福音書とはずいぶん趣の異なる福音書で、一種独特としか言いようがない記事の内容です。
 
この「ヨハネの手紙」は全部で三種類が数えられて遺っており、どれも神の言葉を伝えるものとして昔から教会組織の中で認められてきました。また、このヨハネも、ヨハネによる福音書の著者と同じであり、さらに十二弟子のヨハネと同一人物であろうと素朴に昔から信じられていました。しかし、人物として同じであるということについては、近代の研究は否定的です。また、十二弟子のヨハネという人物が書いたようなものとしても考えられていません。ただ、そのヨハネを大切に思うような神学ないし哲学をもつグループが確かにあったことを伝えるものと考えられています。時にそれは「ヨハネ教団」などと呼ばれることがあります。キリストの弟子たちの共同体の中でも、少し違った理解か信仰かをもつグループであったように思われます。
 
ヨハネの手紙が重んじるのは、どうやらひとつには「愛」ということのようです。今日開きました箇所にも、「神を愛する」という意味の使われ方がなされています。この「神を愛する」共同体は、このヨハネ関係の文書を中心に据え、愛し合うことをモットーとしていたのかもしれません。その福音書には、互いに愛し合いなさい、という新しい律法がイエスの口から言い渡されます。新約聖書が新約聖書である所以のような場面です。旧約聖書が、あれを守れこれを守れというふうに聞こえていたユダヤ人たちの間に、愛し合うという画期的な命令が向けられたのです。
 
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
 
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。……互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:12,17)
 
今日開いた箇所では「神を愛する」という意味での愛が語られているだけでしたが、同じヨハネの手紙の中には、いま挙げた福音書と殆ど同じような言い方をしているところがあります。
 
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。(3:23)
 
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。……愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(4:7,11,12)
 
◆仕える方
 
こうして見てくると、本日開きました箇所のひとつの構造が明らかになってきます。「イエスがメシアであると信じる人」は、言うなればキリスト者のことです。「メシア」というのはヘブライ語の言い方で、新約聖書ではギリシア語で、それを「キリスト」と綴っています。メシアとキリストは指しているものは同じです。「神を愛する」というのは、このキリスト者をも愛するのだと言っています。これが、「互いに愛し合う」という命令と重なって聞こえてくればよいのだろうと思います。
 
「互いに愛し合うこと」が「神を愛すること」と実質同じことを意味するとき、「神の掟を守る」こともここに同調します。神の新しい掟は、「互いに愛し合うこと」だったからです。こうして、「神を愛すること」が、「神の愛の掟を守ること」につながります。つまり、「互いに愛し合うこと」が如何に大切な原理であるかということを思い知ります。それは、人と人とを結びつけることでありますが、同時に神と人とを結びつけることをも根拠づけるからです。神がまず人を愛したからだ、という存在根拠が確かにあるのですが、私たちが神を愛するようになるという、認識根拠になっていると理解可能な構造がここにあるのです。一応、順序としては、神がまず私たちを愛したという点だけを間違わなければ、あとはもうどちらがどうということを気にすることなく、私たち人間が、神と結びついた関係の中にあることを知るとよいのであり、それを喜んでいればよいのだと思います。
 
ここで突如、先ほどの時代劇のシチュエーションに戻ることをお許し下さい。仕える主君に忠実に、襲ってきた悪漢――視聴者からすれば正義の味方ですが――を追い払うために刃を向けた部下たちは、その正義の味方に斬り殺される立ち回りが、時代劇の華でした。でも、それでよいのだろうか、という疑念が私の中にあったことをお話ししました。
 
彼らは、その主君にどうやって仕えてきたのでしょうか。そのきっかけは個人的にいろいろあったかもしれません。しかし、どこかパラレルであるように見えてならないのです。この、神を愛するヨハネ教団のキリスト者と、神との関係を感じるのです。江戸ものの時代劇では、鎌倉時代の「封建制度」とは形が変わっているにせよ、主君と仕える者との間を結びつけるものがあってこその武士の社会でした。
 
この侍たちは、主君に仕えるが故に、主君に命を捧げるようにして戦います。主君に仕えるその姿勢は、私たちキリスト者もまた、一種見習うべきものがあるような気がするのです。これほどに、私たちは神に仕えているのだろうか、と。
 
もちろん、時代劇で斬り殺された部下たちは、職務には忠実だったのですが、運悪くというか、仕えた主人が犯罪者であったが故に、それに仕える部下たちも同罪として即刻死罪が執行されたようなものでした。
 
いったい誰に仕えるのか。そこが大切なポイントになります。悪魔に仕えつつ悪魔を追い出すような内輪もめをするならば、悪魔の支配する国たるものが成り立たなくなる、という話をイエスがしたことがあります。イエスはこのヨハネ系の文書の中で、父なる神との関係を幾度も幾度も語っていました。神に仕えるのならば、あの侍たちのように、犬死にはしないでしょう。また、正義の裁きを受けることもなくなります。斬り殺されることから、むしろ守られると信じていたいものだと思います。
 
◆世に打ち勝つ勝利が信仰である
 
まだ最後の大切なところを見ていません。いよいよ佳境に入ってきました。まとめのようなところをお読みします。
 
5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
 
三つの言葉に注目します。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」に現われている三つの言葉です。聖書の中で、とくにこのヨハネ系の文書の中で、それらがどのような意味で使われているのかに目を向けたいと思います。
 
まず「世」ですが、ギリシア語の「コスモス」は私たちにもよく馴染んでいます。もちろん花の名前ではありません。花の名は、この原義のイメージを受けて付けられたもので、その元の意味は、この世界ということで、いまのように「宇宙」ということではないようです。但し、聖書で「世」というときには、概して、人間の力ではどうにもならないような、人間を包む大きなものを想定しているように見えます。あの世とかこの世とかいう分け方ではなく、人を支配する大きな力を考えたほうが、うまく捉えられそうな気がします。端的に言って、私たち人間は、この「世」というものに、本来勝てるはずがない、という前提があると言えます。
 
私たちの側に引きつけて考えましょうか。何が勝てない「世」として私たちを取り巻いているでしょう。社会制度ですか。会社組織ですか。町内のうるさい人ですか。それとも兄弟や親のような絆しのことでしょうか。経済的環境かもしれないし、いまや疫病という敵も厳しい「世」なのでしょう。おや、教会が柵だという方もいらっしゃいますか。ここで配偶者ということは、言わない約束にしておきましょう。私たちがどうにも抗えないもの、おとなしく従っているしかないようなものを、思い起こしてください。本来勝てないのです。それは、究極的には、死という問題であるという意見には、共感する方が多いかもしれません。
 
次に「信仰」を見ます。これはもう、キリスト教信仰というくらいですから、改めて取り上げることができないほどに、大きすぎる概念であると言えるでしょう。いったい「信仰」とは何か。問うまでもない、と言われそうですが、案外これに応えるのは難しいように思われます。これもギリシア語に戻ってみますが、「ピスティス」という語は、日本語で言うと「信」という漢字が合うように思えます。聖書でも、この語は、もちろん「信仰」と訳されもしますが、「信頼」という意味にもたくさん使われています。「信」は「まこと」と人名で読みますが、「誠意」のような意味合いでも用いられる場合があります。
 
「わたしたちの信仰」が必要なのだ、とここで言っているのは、このように、「信頼」や「誠意」のように捉えてみるのはどうでしょうか。この場合、その対象として「神」あるいは「イエス・キリスト」を置くことが求められているのだと思います。そうです、神を相手に信頼することこそが、「信仰」であるはずです。「仰」は「あおぐ」ことですから、尊く高い存在に向けて信頼をもつことと理解すると、そう受け止めて大きく外すことはないと思うのです。
 
小さな子を「高い、高い」とすることは、いまは危険だとされ流行らないのかもしれませんが、私はよくしていました。親が子を上空に放り上げる。傍から見ていてハラハラしますが、子どもはたいていキャッキャッ喜んでいます。そしてもっとして、とせがみます。これ、めちゃくちゃ勇気が要ることですよね。大人になって放り上げられたとしたら、とても、喜べません。子は、親が自分を受け止めてくれることを、100%信じているのですね。信頼の極致です。
 
さらに、私の運転する車に乗っている人は、私を信頼しているわけでしょう。正に「命預けます」という信頼です。私は偉くありませんから、それを「信仰」とは言いませんが、「信頼」には違いありません。ですから、中国自動車道で妻の実家のある京都府に向かうとき、初めのころは後部座席で眠れなかったであろう妻も、そのうちぐっすり眠るようになってくれました。疲れていたのもありましょうが、たいへんな信頼を得たものだと感じたものでした。
 
最後に「打ち勝つ勝利」、その「勝利」に注目してみることにします。ギリシア語では「ニケ」。ピンと来る方もいらっしゃるでしょう。「サモトラケのニケ」という言葉をご存じでなくても、その画像をお見せすると、殆どの方は肯かれることと思います。ヘレニズム期の大理石による彫刻で、首と右腕がありませんが(右腕は後に発見されたそうですが)、左に大きな翼があります。スポーツ用品の「ナイキ」は、この「ニケ」を英語読みにしたもので、その翼をイメージしたマークとなっています。
 
女神となると、聖書でいう偶像ということになりますが、それはこの語が「勝利」を表すため、「勝利の女神」という扱いをギリシア人がしたことに基づくものでしょう。ですからこの語を聖書が用いたからといって、ニケの女神を考えているわけではありません。しかし、女神の名にするほどに、この「勝利」というものが、ギリシア人にとって憧れでもあり目指す大きな目標であったことが窺えます。
 
なお、「打ち勝つ勝利」の「打ち勝つ」という語も、このニケを動詞にしたものです。ここには、徹底的に勝利することが宣言されているように理解できます。
 
◆契約
 
聖書を「テスタメント」と呼ぶことがあります。このとき、言葉の意味からすると、聖書が「契約」であることが強調されるようになります。私たちはいま、神と人との契約書を見ていることになります。だいたい契約書というものは、隅々まで読めるものではありません。いや、法的には大切だから読むべきだというのは正論なのですが、実際そう読めるものではないと思います。
 
2022年4月から、成年の年齢が20歳から18歳に引き下げられます。タバコや酒、ギャンブルについては下げられませんが、注目点は、契約が本人責任でできるようになる、というところだと言われています。聖書という契約書を前にして、私たちも、成年であるならば、自分の責任で契約を交わすということになります。もちろん、それは18歳などといった年齢制限はありませんが。
 
聖書が契約書であるとき、私たちは神との間に、することとされることとが約束されることになります。なにせ隅々まで読めないほどの膨大な契約書であるので、いまその全部をまくしたてることはできませんが、今日お開きした箇所では、「イエスがメシアであると信じる」「イエスが神の子であると信じる」ことが、当事者の一方である人間の側の責任とされています。ここには、当事者のもう一方である神の側の責任行為が、主語としては表されていません。
 
神は聖書でもしばしば、その名を出すことなく、陰で主体として働くようにしています。陰で糸を操るわけではありませんが、「神的受動態」という言い方をお聞きになったことがある方もいるでしょう。文法的に受動態であって、その動作主が明らかにされていない場合、その動作主は神であるというように考えられている場合が多いというものです。神の名をむやみに呼ばないためにも、神は出来事の背後に、名を出さずに控えて、しかもちゃんと行為しているということが多々あるわけです。
 
そこで今日の箇所から神の側の責任行為を読み取ろうとしますと、やはりここではないかと思います。「世に打ち勝つ」、これが三度も強調されています。もう一度引用しましょう。
 
5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
 
人は、イエスがキリストであると信じる。それに対して神は、人が世に打ち勝つようにしてくださる。「世」は、私たちを包む大きなもので、私たち自身ではどうにもできないものをいうのでした。本来私たちが勝てるはずがないものでした。しかし、この契約は、それに勝つようになることを宣言しています。きっと神がそうさせてくださるのですが、私たちが適わない相手に打ち勝つ勝利を得られるというのです。
 
◆イエス・キリストにある勝利
 
こんなうまい話があるでしょうか。あるんです。但し、これは神との契約によるものです。契約する相手を間違えてはいけません。
 
正統な契約あるいは主従関係であっても、悪しき主君に仕えた部下の侍たちは、その主君の悪を背負った形で、成敗されました。仕事としては真摯に主君に仕えたのであっても、仕えた相手が悪かったのです。そのことの社会的な是非はともかくとして、私たちはここから重大な教訓を得ることができることに気づきましょう。仕える相手が悪かったのです。いうなれば、悪魔に仕えるというのは、こういうことであるのかもしれません。
 
教会も気をつけなければならないはずです。自身が神と契約を結んだのではない人が、講壇に立ってはいないでしょうか。神との契約の中にある人であれば、聖霊の通り管としてはたらき、そこから語られる言葉はひとを生かすことでしょう。まさに神の言葉が語られ、それは実現するでしょう。神の救いの出来事が、そこから起こるでしょう。しかし、神とのつながりのない人の言葉は、ただの人間の言葉です。どんなに聖書の言葉を並べて、誰かが研究した神学をそれらしく語ったとしても、そこに命はありません。神との契約がないからです。神との関係が成立していないからです。
 
残念なことに、そうした説教者は世にいくらでもいます。この私一人だけで、数人出会ったことがあるくらいですから。不幸にしてそうした説教者が、何らかの事情で講壇で神を礼拝する場で語るのを聞かなければならないようになったとしたら、その説教もどきとは別のところで、信仰を養われるほかありません。気の毒なことですが。
 
けれども、そうであったとしても、あなたは、神との関係の内に留まることができます。あなたは誰か人間を間に介することなく、神と直接契約を結ぶことができます。プロテスタントの理念は必ずそうなっています。あなたの主は、この神です。あなたの主は、イエス・キリストです。キリストであるとあなたが告白したところの、あのイエスです。人間の罪により痛めつけられ、ついに十字架の上で私が受けなければならなかった死を、イエスが私に見せてくれました。しかしそれはただ死で終わるだけではなく、復活という形で、私に希望まで与えてくださり、命は死なないのだ、愛は無にならないのだ、ということを確信させてくださいました。
 
あなたが仕える相手は、人ではありません。教会組織でもありません。神です。私はその神を愛すると言います。満足なことは何ひとつできませんし、神の前でズタボロな姿しかお見せできないのは恥ずかしい自分ですが、それでも、神から生まれた仲間を愛する神の命令を契約書の条文として受けています。愛の掟です。それは、世に打ち勝つという約束を含んでいました。イエスがキリストであると信じるだけで、神は私が出会うどんな壁も、どんな大きな勢力も、艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、剣も、討ち破り勝利することが約束されているというのです。
 
もう瀕死の状態であっても、パウロの圧倒的な勝利宣言は、口語訳では、「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ8:37)と鳴り響きました。心に今日留めておきたい聖書の言葉を、もう一度お読みして、今日の私たちの勝利宣言を、いつも掲げておくようにしましょう。
 
5:4 世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

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