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自由のパラドックスを意識しよう

百年も遡るまでもなく、かつては親の仕事の「あとつぎ」という生き方が、当然のことのように考えられていた。もちろん例外もあるし、人それぞれでもあっただろうが、言いたいことは、子どもに向かって、「君のなりたいものになれ。君が仕事や人生を選ぶしかないのだ」というような「空気」が、今や常識のように思われていないか、ということだ。
 
つまり、ここには「自由」が前提されている。「自由なんだから」、自由を使わないと行けない。さあ、仕事、何がしたい? 将来何になりたい? と子どもに迫る。
 
だがこのような「自由」が前提になっているのは、歴史的には非常に新しいことである。誤解なさらないように。だからかつての時代に戻るべきだ、などと言おうとしているのではない。すぐにそのような極論や二項対立に走られると困惑せざるをえない。「自由」はあってよいのである。だが、皮肉なことに、私には、「自由が強要されている」ようにしか見えないことがある、そう思うのだ。言葉遊びのパラドックスではない。世界を悪夢のようなものに変える働きをもつ、怖いことなのである。
 
「自由」は楽園ではない。自分が責任をとらねばならない事態は、息苦しい。誰か決めてくれ、俺は自分では決められない。そういう叫びが無数に聞こえてくる。誰かが決めたことならば、その通りにやった自分は責任を負う必要がなくなる。自分が自由にそれを選んだのではないから、責任がないと論弁できるのだ。
 
そして実際に、そういう坩堝の中に、人々の貴重な「自由意志」が自ら投げ入れられ、溶け込んでいく。それが巨大な勢力となって、世界を変えていく。一人ひとりが、無責任な状態になり、それでも自由な権威を握るが故に、他を圧する力の一部へと利用されていくのだ。ここでもまた、「自由が強要するために用いられる」というパラドックスが生じてしまう。
 
自分が「自由」を任せられるとき、責任回避をしたくなるだけでなく、そもそもその「自由」そのものが恐怖のように感じられることもありうる。キェルケゴールは「不安とは人間の根源的な自由が体験するめまいである」というようなことを言っている。キェルケゴールは、聖書的拝啓からこの構造を説明することになったと思うが、「君は自由だ」と言われることが、深淵を見下ろす細い道にいきなり下ろされ、立ち尽くしているような不安と恐怖に包ませることになるのである。
 
自由の宣言が、生き生きとした希望を生む可能性を否定はしない。くれぐれも、自由一般を否認しようとしているのではないのである。「自由を強要する」構造について、気づいていないことがまずい、と言っているのである。
 
キェルケゴールのように、神との適切な関係の中でこの不安を克服する道を考えるのは、至って当然のことのようにも見えるのは、聖書を基準にして考えるからだろう。すべての人にこの道がいますぐに役立つようには思えない。キェルケゴール本人ですら、『狭き門』の男女逆バージョンばりに、自ら求婚したレギーネとの婚約を破棄するという事件に至ったのも、何か関係している野だろうか。このことの背景が何であるのかは、いまなお分からないとされている。
 
この「自由」の揺らぐ基盤の故に、何者かがその「自由」のもつ権利を奪うために近づいてきて、あるいはそういう時代の空気をつくって、盗み取ることがある。カルト宗教団体がそういうことを実際にしてきたが、政治のような場面のみならず、SNSの世界にもはびこっていると見なさざるをえなくなっている。
 
いまここでその問題を論じ尽くすことなど不可能である。だが、事の重大さと深刻さに気づかれた一人ひとりが、考えて戴きたい問題なのである。気づかなければ、簡単に丸め込まれてしまう、それが「自由」の背理的な、本当の恐怖である。ひとは、自分が自由であると思い込んでいる、その自由さによって、恐ろしい判断を下す、あるいは恐ろしい者の支配下に、簡単に登録され、活用されてしまうのである。
 
聖書を読んでいるから大丈夫。キリストを信じているから大丈夫。残念ながら、そんな単純な者ではない。自分は詐欺には引っかからない、という自信をもつ者が最も脆いことは有名である。同様に、先のような自信を誇示する人が、多分にいちばんのカモなのである。

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