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来てください

高校受験の国語を教えることがある。文章読解の場合、本の題や注、設問に目を通してから本文を読む。当然であろう。ではその本文をどう読むか。特に論説文のときは、冒頭の序論を見たら、すぐに最後の結論を読め。そう教える。
 
何故か。生徒たちに問いを投げかける。遠足で、行く先を知っておいてから歩くのと、これからどこに行くのか分からないままに連れて行かれるのと、どちらがよいか。論説文は、筆者が読者を導きたい結論というものがある。書くほうも、それを決めておいてから、道を辿るように論を進めていくであろう。読むほうも、連れて行かれるその結論を知っておくと、途中の議論の意味も掴みやすくなるはずである。
 
黙示録の「連続講解説教」と呼んでよいのかどうか、分からない。ただ、「これから黙示録を開き、共に聴いていきます」と、説教者は先週宣言した。黙示録の冒頭のペリコーペが扱われた。
 
そして今週開かれた聖書箇所は、黙示録の最後の数節であった。国語の読解のセオリーからすれば、これは納得がいく。だが、普通教会の連続説教では、そういうことをしない。
 
そこで、説教箇所の予告がウェブサイトでなされたとき、ある教会員から説教者の許へ、メールが届いたのだという。黙示録を辿る説教が、2回で終わるというのはどうしてですか?
 
黙示録はその全体を一度把握しておくことで、受け止めやすくなるという考え方を、説教者は先週説明していた。だから、最後を知っておいたほうがよい、ということでここを選んだのです、と説教者は断った。
 
だが私は、説教者が気づいていないかもしれない、別のことに目を見張っていた。この教会員は、説教というものに、強い関心をもっている、ということに驚いたのである。説教箇所が予告されても、誰も何も気にも掛けようとしない、そんな教会ではないのである。これから聴く説教に対するこの指向性というものは、それだけ毎週の説教に期待しているということを意味するものであろう。ということは恐らく、毎週受けた説教を噛みしめて、生きる糧としているだろうということである。
 
当たり前ではないか、とお思いだろうか。そんなことはない。なにげなく語られたエピソードではあるが、それは、神の言葉が生きて働いている確かな証しであったのだと私は称えたい。
 
黙示録の最後は、イエスに「来てください」という声が放たれ、「すぐに来る」との返事が与えられる場面である。「ダビデのひこばえ」「明けの明星」(それは未来への希望を示す)としてのイエスは、ここまですべてのことを証ししたと告げた。すると、霊と花嫁とが「来てください」と願う。それを聞いた誰もがまた声を重ねて「来てください」と言うとよい。渇く者よ来たれ、命の水が欲しい者は自由に飲め。
 
説教者は、この聖書の最後のシーンを、旧約聖書の最初のシーンとつながることを指摘した。甚だよかった世界が、こうして祝福されて結末を迎えるのだ。もちろんユダヤ思想は、輪廻のような循環的な時間意識をもたない。だが、一定の叙述は、ユダヤの神器のひとつであるメノラーのように、前後が対称的なものとして対応するようになされることがしばしばある。1,2,3,4,5,6,7とあれば、1と7、2と6、3と5が対応し、中央の4が核心的なものである、という典型的なスタイルがあるのだ。その意味からすると、黙示録という、世界の終わりを描く筆者が、創世記を意識しないはずがない。
 
その世界は、7日間で創造された。正確には6日間であり、次の1日を神は休んだ。安息日の根拠である。聖書に描かれた神と人との歴史は、世界の8日目の物語でもあることが説かれると、はっとさせられた。そう、私たちと聖書とは、対立するものではない。私たちは聖書の中を生きている。聖書の物語を生きている。
 
近代思想での主観と客観は、それ以前とは全く別の意識構造であると言われる。近代以降、当たり前であるかのように考えられている主観と客観という設定は、極めて制限された、新たな見方の一例に過ぎない。そのことはすでにだいぶ以前から気づかれ、修正が試みられている。だが、デカルト辺りで確立したこの捉え方は根強く、私たち現代人をも左右している。
 
聖書を読むにしても、この呪縛から逃れられず、それでいて、自分は自由に解釈する近代人なのだ、と錯覚している人が、思いのほか多い。少なくともそれは、聖書から命を与えられる接し方ではない。しかしそれを絶対視して、正義なる自我を誇っている、という事態が実際にある。
 
説教者は、そのような思い込みからは解放されている。だからこそ、指摘できるのだ。語れるのだ。この聖書の中に生かされている自身と、仲間たちを視野に入れて語っている。いまだそこに入りきれていない人を、その世界へと誘うこともする。イエス・キリストは、いまもここにいるのです、いま共にいてくださるのであり、この方が聖書の示す世界の最初であり、最後なのです、そう叫ぶ。たとえいまは、その途上というか、ある意味で絶望的な人間のもたらした世界の無惨な姿をさらけ出している現実しかないように見えたとしても、イエス・キリストは生きておられるから、ここにあるような世の終わり・目的・完成(これらは一語の中にすべて含まれる概念だと言われる)へと、この瞬間も確かに導かれているのである。
 
どんなに世界が闇に見えたとしても、そこに死の力が蔓延しているように感じられたにしても、私たちは聖書の物語の一部なのであるから、共に叫ぼうでは亡いか。「アーメン、主イエスよ、来てください」と。
 
ところで、霊と花嫁とが「来てください」とまず言っていたことに、説教者は心を留める。花嫁とは教会である。信じる者たちすべてである。だが、霊とは誰か。聖霊のことであり、いわば神でありキリストである。矛盾するようだが、聖霊は、常に人間の側に立って共にいて助ける神の姿であることからすると、私たちがたとえ辛くて苦しくて「来てください」と叫べないようなときにも、聖霊なる神が、助けてくださるのだ。なんと心強いことだろう。なんと勇気を戴けるメッセージであろう。どんなに私が罪に包まれていたにしても、あまりに惨めであったとしても、助けてくださる神が共におられるのだ。
 
平和のために私たちは祈るが、簡単には実現しない。それはまず私自身が平和でないからではないか、という指摘も必要である。だが、自身の問題として論ずることができないほどに、大きな世界的問題はある。いまはロシアに注目が集まっており、ニュースに挙がればスーダンについても私たちは知るだろう。聖書によく出てくる「クシュ」の辺りだと思い起こすこともできる。だが、紛争や戦いは、数知れずある。
 
説教者は、2003年のイラク戦争のときにアメリカにいたという話をした。戦争となると、自国の勝利のために、一斉に教会が祈るようになる。しかし、説教者はその時にいた教会で、提言をしたのだという。イエス・キリストはアメリカ人のための神ではない。それを受け容れてくれたというから、教会というところも捨てたものではない。指摘されなければ気づかないことがあり、指摘されれば神の前に受け容れる懐の広さがあるのである。
 
ネルソン・マンデラの来日公演のことも語られた。不条理ばかりの世の中ではあるが、マンデラ氏は、獄中でも希望を失わず、死の力に負けることがなかった。それはなぜか。彼の答えは、「キリスト者だから」だったのだそうだ。目の前が闇であっても、すでに歩き始めるその道には光がある。新しい命がある。復活の力を与えられたからである。命の水を受けているからである。それが福音だ。イエス・キリストを信じる者の強さだ。
 
「主よ、来てください」と叫ぶのは、まだ来ていないからではないからかもしれない。「すぐに来る」と言った主は、もう来ているとも言えるのだ。二重の意味をこめて、私たちは主に全人格・全人生を賭けて信頼を置く。それは失望に終わらない。そのような勇気を身に受けて、説教者は最後に次のように言って、私たちを世に送り出す。
 
――この礼拝堂から、敵の前へ、出て行くのです。

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