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涙の向こうに

150を数える詩編の中に、「悔い改めの詩編」と称されるものが七つある。6,32,38,51,102,130,143の各編である。悔い改めとは、日本語の漢字で見ると、悔やむことが強く表に出るように見え、また「改心」という言葉があるように、心を入れ替えることのような印象を与える。聖書の元の言葉からみると、立つところや見る方向を換えて、神の方へと向き直り、神に立ち帰ることを意味するのだという。ギリシア語からすると、「方向転換」の意味がそこに含まれることになる。
 
自分で当たり前と思っている自分の心の向きが、決定的に間違っている、と気づかされることが先行する。そうしたかつての自分を超えた眼差しを与えられて、自分がそのままではいけないということを痛感する。それをただ悲しむのではない。これは進行方向を間違っていたと気づいたのだから、別の方向へ進み始めなければならない。基本的には、これまで神に背を向けていた、というところから、神に向かって還ってゆくことになるのだから、イメージとしては、180度転換することになるといえよう。
 
説教者は、詩編を連続して講解している。否、説明しようとするというよりも、味わっている。さらに言えば、詩編の言葉に胸を刺され、そこから生かされる経験を、説教者自身のものとして、そして神の証しとして、私たちに届けているのである。
 
問題は、それが聴く者に命を与えるに至るかどうか、ということだ。そして、そうなるかどうかは、聴く者自身に拠るであろうし、そのことで、聴く者がどう神に扱われるか、が決められてゆくのかもしれない。
 
この朝開かれた詩編は、第6編である。「悔い改め」の詩編の最初である。だが、新約聖書のイエスの告げる「悔い改め」に慣らされている者にとり、この看板はかなり違和感を覚えるものとなる。どこに「方向転換」があるというのだろう。そもそも、旧約の詩編に於いて、「方向転換」なるものが成立するのだろうか。
 
というのは、いずれの詩編も、「主よ」と、最初から主なる神の方を向いて訴えているからである。もちろん、38編や51編のように、自分の罪を自覚し、それを悔やんでいるような心を示すものも、含まれている。だが、概ねこれらの詩は、自分の外から、辛い目に遭っている様子が想像される情景を描いているように見えるのである。
 
だとすると、安易に「悔い改め」と呼ぶことでよかったのかどうか、再検討する価値はあるのではないか。
 
とはいえ、ここに深い苦しみや悲しみ、嘆きといったものが伴っていることは間違いない。そして、それを真っ直ぐに神に向けている。そもそも旧約の時代のこれらの詩人は、そしてダビデは特にそうだが、主なる神へ心が向いているからこそ、これらの詩を生み出したのである。もし、特筆すべきことがあるとすれば、自分の中に苦しみや辛さを、決して自分の内に閉じ込めることなく、神に向かって心を全開して吐露している、ぶつけている、叫んでいる、とそういうところに注目するのがよいのではないだろうか。
 
説教者は、最近起こった自分の身の上の悲しい出来事を語った。悲痛な思いで過ごしたそうである。その内実にはここでは触れないが、誰か他人に関わるものではなく、自分ひとりだけの問題ではあるように思われる。だから、誰かのせいだということでもなく、自分について偶発的に起こった事故のようなものである。だがそのダメージの大きさは、私も想像できる。
 
詩人はダビデである。ダビデが絞り出す言葉から想像される出来事に、私たちの苦悩が、どのくらい重なり得るか、それは傍目からすれば、大袈裟な、と思われることもあるだろう。だが他人から見てどうだということではなく、当人にとって辛いことであれば、それを詩編の言葉に重ねることが、悪かろうはずがない。その詩を通じて、自分もまた、神に叫び、願い、そして神からの声を聴くのである。私たちは、神の言葉として信頼しているこうした言葉によって、神の声を聴く。それでよいのだ。
 
ダビデは、包み隠さず、自分の心を神の前に曝け出した。では私たちもまた、それに倣おう。装うことなく、押し隠すことなく、また偽ることなく、心の内を神に述べればよい。そして、この情況から救われることを、真っ直ぐに願い求めるのだ。この事態が改善することを、神の手で成し遂げてほしいことを打ち明けるのだ。
 
だが私たちは、どこかでその告白にブレーキをかけたくなることがある。これだけは言えない。これは求めてもだめだろう。神にぶつけるわけには行かない。何故かというと――そのように、人間の理屈や自分の恥ずかしさなどを伴う心理が、ダビデのような一途な告白からここまで届いてくるはずの、一連の流れのどこかを遮ってしまうのである。
 
説教者はまた、マタイ伝の、恐らく一番世に投げかけられている言葉をも引用した。
 
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)
 
教会の前に置いた看板に、この句を掲げている教会は珍しくない。疲れた人の目に留まれば、もしかすると教会の門を叩くかもしれない、という期待があるのだろうか。いやいや、そんなことを言うと不謹慎と言われそうだ。この言葉が、人を救う力があると思うから、人の救いのために、世に告げ知らせているのだ。光を枡の下に置かず、世に見えるように輝かせるための、小さな、だが愛に満ちた行いであるに違いない。
 
説教者は、この言葉を軸に、神の招きを豊かに語った。否、必ずしもそれはスムーズな語りではなかったと思う。そして、だからこそ、真実であると思う。理路整然と、苦しみとは云々と語る口を、私は信用しない。教科書の棒読みのようなものだからだ。自分の中には何もないものを、どこかで調べた知識によって、スムーズに語る姿は、偽りである。そういう偽善者について、イエスの態度は厳しい。礼拝は、霊とまことをもって、というのがイエスの知らせてくれた定理である。
 
説教の聴き方について書かれた本があった。タイトルが「聴き方」だから、聴く側がどうすればよいのか、というような点が書かれているように見えた。そこには、説教を語る側には、あるいはその語る言葉には、問題はないのだが、聴く側がどう聴くかによって、恵まれないとか、届かないとかいうことが起こる、というような前提があった。果たしてそうだろうか。本のタイトルからすれば、何も裏切ったことはないのだが、現実には、自分の中に何もない者が、やたらスムーズに人づての知識を話して「説教」と称している場合があるわけだ。そういう例を、私は幾例も知っている。聴く人が恵まれない、という場合に、この可能性を閉じた状態で、「聴き方」という紹介は、信徒を責めることになりはしないか、心配である。
 
閑話休題。訥々と語られる中でも、説教者自身の真実があるとき、それはやはり分かる。そこに「霊の流れ」が存在するからだ。そして、それはなかなか、聴く側には再現できない。それを受け取りました、と証言するしかないのであろう。そして、このような証言を集めることが、新約聖書を形づくる原理であったのではないか、というようにも感じる。
 
この「重荷を負って苦労している者」への助けになる言葉は、マタイその人からすれば、必ずしも私たちがいま受け取っているようなメッセージとは、違う気持ちで綴ったのかもしれない。神の心を聴こうとせず、悔い改めない町が不幸だと散々嘆いた後、幼子たちには、つまり高ぶらず、イエスの言葉を素直に受け容れる者には分かることがある。イエスの言葉を聴け。それを信ぜよ。悔い改めてイエスの許に来て、イエスの言葉を信じるところに、神が与える安らぎというものがあるのだ。それは、単純に安楽になれるというものではない。労苦もあるのだ。しかし、その労苦は、イエスの声を聴き、イエスに従うところで与えられるのであるなら、決して重く続くものではないのである。
 
説教者は、必ずしもマタイ伝の脈絡をすべて辿った上で、このときこの言葉を取り出したわけではなかった。しかし、ダビデの詩が、嘆き疲れ衰えた心の状態で、「癒やしてください」と祈るところに、しっかり同調した中で、休ませるというイエスの言葉を響かせたのであった。ダビデは、自分に対して怒りを以て臨んだような神の懲らしめを、除いてくれと願った。そしてストレートに、神にぶつけた。
 
5:主よ、帰って来てください。/私の魂を助け出し/慈しみによって、お救いください。
 
それでも、「夜ごと涙で寝床を浸し/床を漂わせています」というように、涙が止まらない。ところが説教者は言う。「涙は、神への信頼の証しである」と。神の方を向いて泣いている。神を見ている。神を信頼しているのであって、神に背を向けているわけではない。それは、神に委ねていることを意味するのだ、と捉えるのである。
 
神の前で、素直に涙を流すこと。説教者は、これをメッセージしたかったのではないか、と感じた。ダビデの詩は、これだけで空しくは終わらない。神に対する確信が、そこに与えられる。涙が希望に変わるだけではなく、このように確信に変わることが、神の約束として、いま与えられるのである。

10:主が私の願いを聞き/主が私の祈りを受け入れてくださる。

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