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窓の外の白い世界へ
クリスマス礼拝。ルカ伝2章の最初が開かれた。非常にポピュラーな箇所である。これぞクリスマス、という定番であり、語られるメッセージも同じようなものになる――といった予想は、この教会では成り立たない。神の言葉が、新たに拓かれる。
いつも、舞台に注目させるのが、妬ましいほど素晴らしい。最初に、雪の景色を私に見せてくれる。秋田の教会の話をまず持ち出して、小さなその教会の窓の外に、真っ白な世界を見出すのだ。こうして聴く者は皆、一面の雪の場所を見る。それも、室内から、外の景色として見る。
この銀世界は、私たちが何かをしたからできた、というものではない。私たちが知らないところで、気づかないうちに、すでに始まっていたものである。そして、これがこのクリスマスの出来事なのだ、と宣言する。私たちは、この銀世界が知らぬ間に備えられてたいたことに思いを馳せる。
ルカ伝2章は、このイメージの中で繰り広げられる出来事となる。否、羊飼いたちが積もった雪の中で野宿をしていた、などと言いたいのではない。むしろ、マリアとヨセフが向き合ったのは、人の心の冷たさであったかもしれない。ここの記事には、出産の細かなことは記されていない。記す必要もなかった。身重のマリアのしんどさも、出産の過程も、その難度も、何もここにはない。そして、客間ではなかったであろうその宿泊の中で、嬰児が無事産まれ、飼い葉桶に寝かされた幼子がそこにいた。両親は知っていた。これが救い主である、ということに。だが、宿の主人も他の客も、この出来事には全く気づいていなかった。
説教者は、皇帝アウグストゥスや総督キリニウスの名の記述に注目する。これは歴史の中の出来事なのだ、と強調する。ただの伝説でもないし、そもそも架空の物語であるわけではない。権力者は、統治目的の政策をし、個人の事情や困難などは顧みない。説教者は、世の論理を垣間見せる。決して、政治批判をしているのではないだろう。このことは、少し後で言及する。
確かに、この年を振り返ろうとする。具体的に指摘するのではないが、思い返せば、権力者に翻弄される世界を知ることができるだろう。だが、世ではない神の業を思う時、私たちは示される。神は、歴史の中にすでに手を打っていること。そして新しい出来事をもう始めておられること。しかも、私たちの外で。このことを意識することが、このメッセージを経験することになるだろう。
ここで、話は十字架に及ぶ。人間は、この神の出来事を妨げようとしたのだ。挙句、神の子を十字架に架けて殺したのだ。そしてそこに、私自身が加わっていることを、覚らなければならない。私はそのように感じていた。私がイエスを十字架につけ、殺したのだ。このことを欠いては、クリスマスの意味も分からないのだ。
説教者は、この説教の中で、私たちが部屋の中にいて、窓の外には、いつの間にか雪が積もっていた、という設定をしている。私たちは朝、窓を開ける。そこには、昨日までなかった白い世界が輝いていた。この情景を、幾度か繰り返し、聴く者の心に確かに刻みつけた。
部屋の中がどうであれ、家の中でどのようなものが見えているのであれ、それにより外の世界が変わる訳ではない。この部屋というのは、私の心のメタファーである。まず、心の窓を開けることが必要となる。自分の心の中だけで対話をするのではない。自分の心の中ばかり覗き、あるいは気にしている場合ではない。その心の外で、神は黙々と、その計画を遂行しておられる。窓の外には、しんしんと雪が降り注ぐ。
天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。(マルコ13:31-32)
神の計画について、人が知る由もない、という点は、上の言葉とつながるだろう。だが私は、やはり次の言葉が思い起こされて仕方がなかった。
神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。(マルコ4:26-27)
人が知らないところで、人が気づくこともないままに、イエスは生まれていた。天使にこのことを知らされた羊飼いは、幸いである。だがある意味で、私たちはいまこの羊飼いと同じである、とも言える。聖書により、主イエスが再び来られる、ということを聞かされている。その知らせに、「そうだ」と立ち上がり、いま魂はベツレヘムへ向かう。もちろんベツレヘムというのはメタファーである。イエスが再び来られるその時が、いつであるのかを知ることはないが、その事実を知っている。まだ見ぬ事実を、知らされている。
私がどうであれ、どのような心であれ、イエスは生まれた。人の世に生まれたイエスがいた。イエスが生まれたことを祝うクリスマスの出来事が、歴史的事実であるのならば、やがて再び来るイエスの出来事もまた、歴史の事実であるのだ。それは、イエスの誕生が、この私の心の中にもあった、という事実が証拠立てている。
説教の話題は突如変わる。今月、加藤常昭先生のクリスマス説教を読んだ、という話である。説教塾の集いで、皆で読んだのである。そこに登場した、パブロ・カザルスのことが、しばらく語られた。世界的なチェロ奏者であると共に、スペインの内戦に翻弄された、カタルーニャ地方の平和主義者である。特にイエスの誕生についての思い入れが深く、代表曲のひとつ「鳥の歌」も、その場面を描いているのだという。
パブロ・カザルスについて長く紹介されたが、それそのものが、クリスマスのメッセージであった。「地に平和」を生きた人である。カタルーニャ州は、スペイン国の一部となっているが、文化が元来異なり、分離独立運動が続いている。2017年には住民投票を実施するも、スペイン政府は自治の停止を強行した。迫害に等しい政策が行われているという。尤も、今年の州議会選挙では、独立派が過半数を得られなかったというから、今後どう動いてゆくのか、余談を許さない。
パブロ・カザルスはすでに1973年に亡くなっているが、その後半世紀を経ても、カタルーニャの平和は達成されていない。だが、カザルスは一貫して、平和を訴えていた。クリスマスの平和の実現を、願っていた。
説教者は、この問題を、私たち自身に還元する。混乱や迫害、分断や悪意、あらゆるものが、自分ではない他人のものであるとか、権力側だけのものであるとか、そう自己義認する私たちが、ここにいる。それこそが、また根本問題ではあるまいか。平和を乱しているのは、この私ではないのか。
だが、部屋の外で、いつの間にか、雪は降り積もる。私の心の外で、イエスが生まれていた。平和が約束されていた。そのイエスを殺したのは、確かに人間だった。ユダヤ人だけのせいにして、自分は関係ない、などと叫ぶこと自体が、正にイエスを殺した罪と同種である。キリスト者が無条件に正しいのではない。キリスト者も同じ過ちを犯すのだ。
私の心を変えて戴こう。心を変えて、イエスの許へ駆けつけよう。羊飼いたちは、その旅に出た。説教者が指摘するのは、権力者は旅をしないことであった。自らは変わろうとしない。それは自らを神と定置することに等しい。暗くじめじめしたこの心の部屋は、いま窓を開けた。解き放たれた視界から、光が射し込んだ。一面の銀世界だ。白い雪に反射された義の太陽の輝きが、この部屋に差し込み、照らす。部屋の空気は一新される。この部屋が、私の心が、変えられるのだ。新しくされるのだ。そして、自らを平和の最大の敵だという点を踏まえて、平和を受ける、あるいは平和を求めることへと旅立とう。平和の歌を歌い続けよう、と説教者は訴えた。
教会では、今年も、多くの友を天に送った。哀しみの中にある家族もまた、この礼拝の中にいる。年末は、その年を振り返る機会となる。去年までは語り合えた、あの人のことが思い返される。いまはその話の続きができない。その姿を見ることができない。
先週、教会で長く牧会した元牧師が急逝した。このクリスマスの時に、見送ることとなった。4月には、牧師の師でもある加藤常昭先生が亡くなった。日本の説教を命あるものにする、そのことのために人生を献げた方であった。
そのどちらの方も、生涯最後の礼拝説教を、この教会の会堂で語ったのだった。
説教者の声が上ずるように響いた。涙が伴う声だった。私もまた、目頭が熱くなり、胸が狭まるような思いで聴いていた。
狭いこの部屋に閉じこもっていないで、そこを出よう。説教者は呼びかけた。雪に反射する光が輝く外に出よう。もう朝なのだから、新しい朝が、きらめいている。イエスが、来てくださったのだ。私の小さなその勇気が、世界を、ごくわずかでも、そして少しずつでも、変えることができるのだ。聖書はそのように約束している。