江戸期~昭和初期の経済成長から見た日本酒の発展(市場経済側の経済的な視点からの日本酒の発展)
※見出しの画像は関西学院大学所有 灘の新酒番船江戸入江の図
江戸初期から中期までの経済状況
2019年現在の日本の人口は約1億2700万人、GDPは約550兆円となっていて、国民一人当たりのGDPが約433.7万円となっている。普通に働いて生活していれば、少々貧しくても一定のお金さえ出せば、欲しいものは買えるし、余程のことが無ければ食に困ることも、ほぼ無いと言えるといえます。
では、1600年に関ヶ原の戦いが行われた当時、日本の人口は約1230万人、一人当たりのGDPが659ドル(1990年為替が147円)換算で当時のGDPが約1兆2000億円で、江戸の人口が10万人前後です。
その後、1721年の徳川吉宗公の治世の時代まで行くと、人口は約3130万人、一人当たりのGDPが669ドル(レートは上記と同じ)で、GDPが約3兆781億円で、この頃の江戸の人口が約120万人(1750年位武士と町人と半々位と思われる)位で、1600年比で人口が約254%、GDP比で約300%となり、平和な時代には、人口も経済も一定の成長が有ることが理解でき、市場での競争もかなり激しかったことが予想されます。また、この八代将軍吉宗公の時代辺りから新田の開発や農業の技術革新により徐々にコメ余りとなりだし、庶民の生活レベルが向上する代わりに米で給料を支給されていた武家の生活は徐々に厳しくなり、酒造りの技術が進歩するにつれ市場での酒の品質の競争が厳しくなって、酒造株(酒造りの営業特権)を持っていた池田の満願寺屋や摂津富田の紅屋の株は伊丹や灘へ酒造りの技術で勝る伊丹や灘へ貸し出され徐々に衰退していきました。なお、池田酒の衰退のもう一つの理由として1776年に満願寺屋と同じ池田で酒造りを行っていた大和屋との間で借財の返還(約300両 現在の金額で約3000万円)を巡る騒動が起こり、幕府により満願寺屋に対して大和屋からの借財の返還と、酒蔵特権である御朱印が没収された事も大きく影響したようです。
非常に厳しかった市場での酒質の競争
この頃、江戸へお酒を卸すには、上方の銘醸地である伊丹・池田・摂津富田・西宮・灘等の銘醸地の間で熾烈な酒質の競争が行われていて、現代の語の「下らない」の語源は上方から江戸へ下れない酒でありました。仮に下れたところで、上方の酒同士での競争はもちろん、中国酒(愛知県の知多地方や三重県の四日市近辺で造られたお酒)や関東の地回り酒(老中 松平定信公の頃には関東御免上酒というお酒の殖産興業が行われ関東一円でも一定の品質の酒が造られるようになっていた)との市場での競争が行われていました。又、この期間に伊丹では、柱焼酎、進化した手を使った酛摺り、灰を使った濾過等の現代の酒造りに繋がる技術の開発や酒造道具に関する改善が行われていました。
一方で、元禄年間の1702年に5代将軍綱吉公によって行われた前田江戸屋敷御成において、前田家は加賀から酒を取り寄せて用意したようで、江戸市場で伊丹酒は確かに強かったけど、絶対的に強いとまではいかなかったように思われるし、故に製造の現場に置いては腐造と戦いつつ、江戸の市場に置ける需要の増加に伴う酒造りの作業の効率化、お酒自体の品質の向上、並びに酒造りの道具の開発、改善と共に、海運に置いても船の性能の向上、少しでも早くつけるように航路の工夫等が日進月歩で行われていたようで8代将軍吉宗公の治世の頃に新酒を上方から江戸に船で運ぶ競争である新酒番船が始まったようです。そのようなマーケットと物流の進化が進む過程においてシェリー造りの工程やその他を参考に、伊丹オリジナルの柱焼酎や酛立て法から進化した初期の生酛の技術開発が行われたと私は考えています。
江戸期の日本の都市人口の推移
江戸幕府治世の間で元禄時代以降は、日本の人口は約3100万人前後で推移し江戸の人口も約120万前後で推移しています。その間の主要な藩の人口が、加賀藩内平均で約69万人、仙台藩内、約72万人、岡山藩内、約35万人、熊本藩内、約52万人等、都市では京が約37万人、大阪も約28.2万人、江戸も約81万人(享保期の将軍吉宗公の時代には、ほぼ100万人以上と考えられる)で、地方も主要都市もそれなりの人口はあり、この頃から地方でも藩の中心地では、商業も木工を中心とした軽工業もそれなりに行われていて、参勤交代や伊勢参り等、街道の整備や治安の安定により人の移動もそれなりにありました。上方の酒が江戸、京、大坂で激しい凌ぎを削る間、地方でも市場原理によるそれなりの競争があった事は想像できます。
一方で、この頃に各地方へ進出したのが、近江商人や伊勢商人に代表される上方の商人で、北関東や江戸、日本海側の北前船の停泊地に近江や伊勢を本家とする支店網を形成し、今でいう銀行業務をはじめとして、各地で商業を行い大きな富を形成し、現代でも一部上場企業の大企業には近江や伊勢の商人を祖に持つ会社が多く存在します。
幕末の黒船が来航した1846年(弘化5年)時点での日本の人口は、約3230万人、一人当たりのGDPは131,712円、日本のGDPは4兆2543億円、この江戸年間1700年~1820年の日本の一人当たりのGDPの年平均成長率は0.2%で西欧主要12か国の0.13%よりも実質高かったようです。
※江戸期の貨幣価値や人口、GDPに関しては諸説あります。
現代と大差無い江戸期に用いられていた金融・経済システム
8代吉宗公の享保の時代以降、幕末に掛けて、江戸の酒の市場は徐々に灘酒が台頭してきました。
その間に田沼意次公による商業の改革や、天明期の大飢饉を経て、松平定信公による寛政の改革による経済の縮小、化政期の江戸時代最大の好景気、水野忠邦公による天保の経済改革の失敗を経て、既に江戸幕府の封建米本位制での経済管理は不可能(江戸幕府開府の頃の約3.5倍に経済規模が膨れ上がり事実上の半市場経済に幕末の頃は変化していた)になっており、寛政、天保の改革とは事実上の資本主義であった市場経済を無理やり封建米本位制の経済へ戻して管理しようとして共に失敗しています。
また、この幕末の時代に置いて経済の現場で行われていたのが、江戸と大坂間の金銀の為替、商人の支店と本店の間で信用取引と、帳簿と財務の管理、各藩に置いては事実上の管理通貨である藩札の発行と流通、米や大豆相場に置ける先物取引等、ほぼコンピューターやトラックが無い中で現代と同じような商取引が行われていて、松平定信公による関東地回り酒に置いて事実上の殖産興業である関東御免上酒の実施や、灘に置ける水車による精米の実施や天保期以降の千石蔵の出現(令和現在で地方の酒蔵の生産量は200~500石の間がほとんど)やさらにマニュファクチャーに移行する為の酒造道具の改良等が行われ、1840年には櫻正宗の山邑太左衛門により宮水が発見され、生酛造りに置いては山卸に置いて、この期間に本格的な櫂の利用による山卸が酒蔵の実質工業化により必然となったのが本当の所だと私は推察しています。
この間に灘の酒は市場の求める、しっかり旨味が有って後味のキレが良くスッキリした味わいとなる現代の灘酒がたどる道筋を徐々に一歩ずつ歩んでいたように思われます。
最も、幕末のオランダ船員によれば、当時の日本酒はふくよかでは有るが後味のキレに欠けて、もう一つ美味しいとは思えなかったと記載されており、幕末にフランスからシャンパンが持ち込まれた時には当時、そのシャンパンを口にした幕府の高級官吏に非常に受けが良かったという意味合いに置いて、当時から日本人はスッキリ爽やかな味わいのお酒を潜在的には求めていたように思われます。
江戸期の伊勢参りを中心とした庶民の旅行
また、この頃に一般庶民による伊勢参りを中心とした国内旅行が盛んに行われるようになっていたようで、現代の旅行会社と添乗員を兼ねたような御師(おんし)がこの頃に登場し、旅の中身を見ると商家や村を抜け出して個人が許可を得ずに行った個人旅行を始め、伊勢講と呼ばれる団体旅行、一部では村を代表して餞別を貰って行われた伊勢参りを始めとする旅行が規模の大小は別問題として行われていたようです。
江戸幕府と言うのは、ある程度本音と建て前を使い分ける政権であり、国内で庶民旅行が享保期以降にある程度行われるようになった結果、各地の宿場町が発展し名物料理と呼ばれる郷土料理がある程度形成され、旅の途中で農民が農村に立ち寄るなどした結果、農業技術が各地に広がり、御師による旅行が行われるようになった結果として一般人にも大名の正月料理のようなお膳が御師の家で提供されていました。
江戸期の給与体系
明治後期の日本酒の技術革新
時は流れて1909年(明治42年)、この頃に日本酒に置ける山廃酛の造りや速醸酛の造りの技術が確立され、速醸酛による酒造りが少しずつ行われだした時期で、この20世紀序盤に置いて全国清酒品評会に置いては、広島酒が圧倒的な強さを見せ、伏見の月桂冠では当主の大倉常吉氏が、他の酒蔵に先駆けて大学院を出た技師を導入し(杜氏制度はそのまま)汽車で飲むための日本酒の小瓶を開発、どこよりも早く海外から精米機を導入、また、美人画のポスターを作り広告宣伝を行って国よりも先に蔵の中に醸造試験所を開設した。
広島県三津の三浦仙三郎氏は自身が酒造業の事業を始めた時に自ら灘に修行に行って、千試百改の努力を経て軟水による醸造方法を「改醸法実践録」に纏め吟醸造りの技術を自らの手で確立し、広島だけではなく日本全国の日本酒の品質の向上に貢献しました。
この1909年当時の日本の経済規模は、幕末期の約2倍まで膨れ上がっていました。
明治後期~昭和初期の日本は世界でも有数の経済技術大国だった
さらに時代をさかのぼり太平洋戦争前の1940年頃の日本の経済規模は、1909年の約3倍にまで膨らみ、現在と全く同じ貨幣価値ではないにしても当時の日本政府と言うよりも、日本人自体が恐らく日本の本当の経済規模に関して気づいていなかったと思われます。この当時のアメリカが日本の経済規模の単純に約10倍って考えると320兆円で、普通に家庭レベルでマイカーや冷蔵庫、テレビが有るのは当たり前だったと思われます。
明治から昭和初期にかけての主な酒造技術の進歩は、品評会、鑑評会に置いて特に優れているとされた酵母に関しては分離され、灘の櫻正宗の協会1号酵母に始まり秋田の新政の6号酵母までの酵母が戦前に分離されていました。1920年(大正9年)には醸造技師の花岡正庸氏により秋田県の渡辺醸造部に置いて現在の形に非常に近い吟醸酒が造られ、大正期には理化学研究所に於いて鈴木梅太郎氏による合成酒が造られ、満州に於いて後の三増酒の技術の基礎になる醪に直接アルコールを添加する第一次増産酒やさらにアルコールや醸造用糖類を多く添加する第二次増産酒の技術が開発されました。
また、明治後期から昭和初期に掛けて、外国の駐在員向けに日本酒が海外へ輸出もされていた。※菊正宗酒造の資料によれば、明治45年~大正6年まで毎年約9千~1万石、昭和10年~14年まで8千~1.1万石を菊正宗酒造1社だけで海外へ移出しています。
2017年日本酒出荷量は1位が白鶴酒造の約317,600石、2位が宝酒造(松竹梅)の約301,600石、菊正宗酒造は8位で87,000石。海外への移出数量は1位が白鶴酒造の約16,700石、2位が月桂冠の約9,300石、菊正宗酒造が5位で4,700石、恐らく現在の日本酒出荷量というのは、毎年増えていると言っても戦前の大正から昭和初期と大差ないように思われます。(数字の出典元は、菊正宗酒造さん通信教育テキスト日本酒の市場、日本酒蔵元の集積と海外展開-飛騨・信州の事例から-1井出文紀(近畿大学経営学部准教授)江戸の家計簿 磯田 道史監修 Wikipedia等)
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