「建築の教育についての講演」を訳して
先日、翻訳第3作目を出せた。
今回訳したのは、エミール・トレラによる「建築の教育についての講演」だ。今回も、アマゾンで販売している。
アマゾンの販売ページの「内容紹介」欄に書いた文を以下に転載。
この講演を訳していて思ったこと等は、訳文に付けた「訳者あとがき」に大体書くことができたので、以下、それをそのまま転載して本記事を終えたい。これをきっかけに、トレラの講演に興味を持ってお読みいただけたら訳者としてはとてもうれしく思う。なお、この note というメディアでは斜字表現ができないようなので、仏語書籍のタイトルは斜字にせずそのままにしてある。
~~ 以下、「訳者あとがき」転載 ~~
訳者あとがき
1878年5月から11月にかけて、第3回パリ万国博覧会が開催された。その会期中、メイン会場であるトロカデロ宮において複数の講演会が行われた。そのうちのひとつ、「建築の教育についての講演」が、このたび訳出したテキストである。同講演は速記され、翌年の1879年に以下の冊子として出版された。訳者が底本としたのも以下の版である。Émile Trélat, « Conférence sur l’enseignement de l’architecture », Exposition universelle de 1878 : Émile Trélat : Trois conférences au Trocadéro, Librairie Centrale des Beaux-Arts, 1879, pp. 49-86. 「建築の教育についての講演」はトレラが行った3回の連続講演のうちの1回であり、7月25日に「博覧会会場宮についての講演」、7月31日に「建築の教育についての講演」、8月24日に「家具調度品についての講演」が行われた。上記書物はこれら3回の講演を収録している。なお、同書はフランス国立図書館アーカイヴサイト、ガリカで全文閲覧可能となっている。(URL : https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k886093f)なお、講演原稿中の「I」から「V」までの各章の内容小見出しは訳者が付けたもので、原文ではローマ数字が振られているのみである。
講演者であるエミール・トレラ(1821-1907)の経歴は次のようなものである[1]。1840年にエンジニア学校の名門、パリ中央学校(École centrale Paris)を卒業し、エンジニアの免状を取得する。設計というよりはどちらかというと建物の修復、増改築の業務に数年携わったのち、1848年にセーヌ=エ=マルヌ県営繕課職員となり、同時にフランス公衆衛生評議会員にも選出される。1854年からはフランス国立工芸院(Conservatoire national des arts et métiers)の土木工学教授に就任し、そこから、トレラの長期に渡る教育活動が始まる。時代は19世紀後半となり、産業技術が発展し大規模なインフラ敷設工事、公共事業が進められる社会情勢にあって、建築教育の牙城であったエコール・デ・ボザールは古典に範をとる旧態然とした講義を頑なに続けていた。1863年にはエコール・デ・ボザールの改革が政府主導で行われたが、学内に多くの抵抗を呼び起こし改革は容易には進まなかった。建築遺産の修復で名を馳せた建築(史)家、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクは、ボザール刷新の使命を帯びる形で同校教授に就任するが、就任翌年の1864年には保守派との軋轢が主な原因となって辞任するに至っている。時代の要請に即した建築教育機関を求める機運の高まるなか1865年、トレラはフランス初となる私立の建築学校、建築専門学校(École spéciale d'architecture(ESA))を創設する。ESA設立の協力者としては上記のヴィオレ=ル=デュクの他にも建築家のアナトール・ド・ボドやエンジニアのウジェーヌ・フラシャ、医師であり発明家でもあったエティエンヌ=ジュール・マレーなど多様な顔ぶれが挙げられる[2]。エンジニアと建築家との両方の経歴を経て、さらに建築教育にも従事していたトレラは、建築専門学校において多様な講義科目を設置する。ESAでは、デッサンや建築遺産調査といった従来通りの建築教育科目だけでなく、物理学や化学といった自然科学、構造計算や機械工学といった応用科学、建築に関わる各種法律学、政治経済学、公衆衛生学などの講義が設けられる。こうしたカリキュラムには、純粋な芸術家としての建築家という旧来のボザール流の建築家像から建築家を解き放ち、同時代の社会的要請に対応可能な実務的建築家を養成しようというトレラの意図が読み取れる。こうした意図は、本文テキストの「建築の教育についての講演」においてはっきりと表明されるところでもある。
この講演の内容をいま一度振り返ってみると、トレラはエンジニア出身ではあるが、講演中ではむしろ建築家の肩を持っているように見受けられる。そのことから、会場の聴衆の大部分はボザールやアカデミー関係の建築家であったものと察せられる。そこで、講演の論旨は建築家=芸術家の領分に進出するエンジニア=科学技術者という、幾分明快すぎる二項対立で構成されることになる。芸術家としての建築家は何よりもまず、建築物における形態の完璧さを追求する。それと同時に建築家は、配置、形成、組み立てという互いに相容れない3要素の調和をも目指さねばならず、そこに建築家の困難が集約される。エーテル概念を用いてトレラが説明したように、形態の現れの多様性と複雑さを考慮するならば、形態探求者としての建築家の困難はより一層増大するといえよう。それに対してエンジニアは、講演中のトレラによれば、配置と組み立てだけに従事し形態には関与しない。エンジニアは最新の応用科学の知識を武器に、建築要件を明晰に処理し建築物を組み立てる。そのような優位点を持つエンジニアが、旧来の建築家を押しのけるような形で、建設現場を席巻するのである。
トレラの講演中で注目すべき点を挙げるとすれば、当時のフランス建築業界に内在する階層格差に触れられている点である。トレラは講演の冒頭で、パリでは設計、監理、施工業務に関わる人的および制度的資源が豊富にあるため、建築家は従来通りの「芸術家」としての職務に専念可能であるのに対して、それらの資源が圧倒的に不足している地方の建築家たちは、多岐に渡る業務を独力でこなさねばならないため、自らの職業領域を守る余裕はないと指摘する。また、公共の大建造物設計の際には、要職に就いたボザール出身の建築家が事業を担当し、投入される時間と資源は豊富であるのに対し、それ以外の大多数の民間建築は時間も資源も制約されるなかでの設計となるため、それに従事する大多数の建築家はやはり脆弱な立場にあるとも、トレラは述べる。前者はパリと地方の、後者は公共事業的大建築と市井の民間建築との格差が浮き彫りにする建築家の危機である。そのようなトレラの現状認識によって我々は、19世紀後半のフランス建築業界の状況を概略的に知ることができるのである。
またもうひとつ注目に値するのは、エンジニアの仕事の特質として、建設における経済性の追求をトレラが挙げている点である。その見方をとれば、形態における過剰性を執拗に追求する傾向のあったアール・ヌーヴォー建築は、エンジニアによる芸術領域への侵犯に対する芸術家=建築家からの過剰防衛反応として解釈することも可能だろう[3]。とはいえアール・ヌーヴォー建築は鉄や大ガラスといった新しい素材を使用し、また採光や通風の最適化を図り衛生的側面を重視する傾向もあった。そのため、別な見方をすればこの様式はむしろ、エンジニアが建築技術的課題を解き、建築家がその助力を基に建築の美的形態の探求に没頭した、両者の協働の(おそらくは最初の)産物であるとも認識できる。
トレラが目指す建築業界の理想的将来像とは、そのような協働体制であった。建築家とエンジニアが互いの領分を了解し合った上でひとつの建築を造り上げるという体制である。その実現のためには、双方の気質を尊重しつつ、建築家には芸術教育の妨げにならない範囲で応用科学や衛生学、法律の知識を授け、エンジニアとの協働を円滑にする必要がある。エンジニアには時代錯誤の狭隘な建築講義を行うのではなく、形態の探求の重要性とその困難さを説くべきである。そのような教育を目標に掲げた学校こそが、この講演の13年前に創設された建築専門学校である、と、同校の創設者として、トレラは講演を締めくくる。
講演中に繰り返される、建築家対エンジニアという二項対立は今日からするとあまりに単純化された図式であるようにも見受けられるが、それだけ、エンジニアという新たな登場人物の参入が当時の建築界に与えた衝撃の大きさを物語っているともいえる。この図式がのちにどれほど広範に定着したかは、たとえば1916年、フランスから遠く離れた日本で、東京帝国大学が「構造」と「意匠」との甲乙選択制を導入し、建築の芸術性をめぐる議論が起こったことからもうかがえよう[4]。演説中でトレラはまた、エンジニアの業務は形態には関わらないと断言しているがこの点も今日からすると、19世紀後半のフランスでのエンジニア観がうかがえて興味深い。むしろ、坪井善勝やオヴ・アラップ、サンティアゴ・カラトラバの仕事のようにエンジニアの観点から計算によって、感覚に強く訴えかけてくる形態、端的にいって形態美を生み出す例を我々は数多く知っている。このように、建築家だけでなくエンジニアもまた美的形態の産出者たりえるようになった変化には、エンジニアの仕事を実際の建築や土木作品として具現化可能にした、技術の進歩が寄与していることはいうまでもない。とはいえエンジニアの仕事と形態美が結びつくようになった別の理由として、建築家による芸術的探求の成果にだけでなく、エンジニアの複雑な構造計算の結果にも美が見出せることに気付いたトレラの時代以降の人々の、審美観の拡張という側面もあるに相違ない。我々の美的感覚が産業技術の進化から受ける影響は大きい。
最後に、芸術の領域に侵攻する科学的知見という図式は、19世紀後半において建築だけに限らず他の芸術諸分野でも見られたという点について触れておきたい。1803年にすでに、工兵将校でありパリ科学芸術協会会員であったレヴェロニ・サン=シールは、『精密科学による諸芸術の改良についての試論、あるいは詩、絵画、音楽についての計算と仮説』という著作を発表している[5]。この表題から読み取れるように、前世紀の啓蒙主義精神を先鋭化させる形で、実証科学的思考が自然現象のみならず文化芸術全般をも合理的に扱い得るとする発想が、19世紀、特にその後半を通して普及してゆく。この点に関しユーグ・マルシャルは次のように述べている。「科学は1850年以降、自然科学者たちの言説においては支配的価値を持つもの、判断の絶対的基準となる。それは政治的、倫理的、美的あるいは精神的領域にも適用可能なものとなる。[6]」実証科学のもたらす社会進歩への信頼を信仰形態にまで高めたサン=シモン主義の流行や、産業革命進展による科学技術の恩恵の顕在化といった同時代の事象は、科学の権威をより一層増大させる要因として機能する。こうして19世紀後半には、クリストフ・シャルルの指摘するように、科学者は世間一般にとって一種の崇拝の対象となり、大作家たちがこれまで占めていた権威ある社会的地位が、科学者たちにとって代わられるという事態が起こる[7]。それに対し、詩人にして美術評論家のガブリエル=アルベール・オーリエの発した次のような声明は、科学および科学者たちの勢力拡大という脅威にさらされた芸術家たちの反応を典型的に示している。「今こそ抵抗すべきとき、ヴェルレーヌの言うように『家宅侵入者』、すなわち科学という『祈祷を葬る者』を駆逐し、まだ可能であるならば、侵入者たる科学者たちを自分たちの実験室に押し返すときではあるまいか。[8]」こうした反応は、エンジニアの勢力拡張に対する旧来の建築家たちの態度や、教育改革を求められたボザールの芸術家的建築教師たちの態度と大差ないものであったに違いない。
とはいえ、建築の構造や資材における合理性を重視したヴィオレ=ル=デュクやアナトール・ド・ボド、科学的方法論を建築教育に導入したトレラといった人物がいたように、他の芸術諸分野にも、新たな学問的知見の導入を試みた者は数多く存在した。クロード・ベルナールの『実験医学序説』の実証主義精神に則って「科学的」小説の執筆を試みたエミール・ゾラや、ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールによる「色彩の同時対比の法則」やオグデン・ルードによる「色彩の科学理論」を研究し点描画法を編み出したジョルジュ・スーラや、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの音響学および聴覚理論を作詩法に応用したルネ・ギルなどがその例として挙げられる。そうした潮流は個々の芸術領域の枠内にとどまらない。ソルボンヌ大学図書館司書にしてフランス数学協会会員であったシャルル・アンリは1885年に「科学的美学序説」を発表する。アンリは同論文のなかで、人間の感覚知覚、生理的反応の定量分析を通じ、美的作品が生み出される仕組みの「科学的」解明を模索する[9]。ここで議論の対象となっているのは芸術作品一般であり、文学や絵画、音楽といった個々の分野を越えた次元にまで、科学的知の適用範囲が拡大しているのである。
以上のように、19世紀後半にかけて実証科学的知の進出は建築に限らず文化芸術領域全般に及んだ。新たな知に対する芸術家たちの反応は拒否反応から全面的な依拠、若干無理のある応用まで、多岐に渡った。ここで、若干の無理があると述べた例はルネ・ギルの試みである。ギルの「進歩的=器楽的方法(méthode évolutive-instrumentiste)」は多少の賛同者を集めたものの短命に終わり、アンリからは科学理論とは無関係の「個人的空想」と評される始末であった[10]。その他の創作活動への科学の応用の試みも、建築界で実施された事例と比較すれば、どちらかというと個々の芸術家による単独の営みという側面が強く、方法論として一般化され長続きすることはなかった。その点トレラによる、建築家とエンジニアとの互いの領分を尊重し、各々の気質の違いに応じた教育カリキュラムを経てひとつの建築の完成を目指そうとする理念は、地に足のついた、文字通りに建設的な提言であったという他ない。重力や気象、経年劣化など厳しい外部的諸条件に耐える作品を物理的に築き上げなければならないという制約から、建築はもともと科学的知ととりわけ高い親和性を持っていた、持たざるを得なかった、という面はもちろん否めない。とはいえ、トレラの誠実で熱のこもった教育に関する講演を日本語にした訳者としては、建築家とエンジニアとの協働体制成立の功績の大部分を、トレラのような優れた教育家=建築家に帰したいと思うのである。
[1] エミール・トレラの経歴、およびこの段落の記述に当たっては、以下の論文を大いに参考にした。Frédéric Seitz, « L'enseignement de l'architecture en France au xixe siècle », Les Cahiers du Centre de Recherches Historiques [En ligne], 11 | 1993, mis en ligne le 05 mars 2009, URL : https://journals.openedition.org/ccrh/2768 (2021年12月閲覧。)また、フランス国立工芸院(CNAM)と、建築専門学校(ESA)の以下のページも参考にした。https://culture.cnam.fr/made-in-cnam/emile-trelat-718307.kjsp ; http://www.esa-paris.fr/l-ecole/ecole-speciale/l-esa-en-quelques-dates/
[2] その後、建築専門学校はアカデミズムによらない建築教育をその方針として掲げ、ポール・ヴィリリオやクロード・パラン、オディール・デック、クリスティアン・ド・ポルザンパルクといった建築家、理論家が教鞭を執り、ロベール・マレ=ステヴァンスやジャン・ギンズベルク、フレデリック・ボレルらを輩出した名門校として現在も存続している。
[3] ヴァルター・ベンヤミンはユーゲント様式(アール・ヌーヴォー様式)について次のように表現している。「ユーゲント様式とは、技術に包囲されて象牙の塔に立てこもっていた芸術が行う、最後の出撃の試みなのである。ユーゲント様式は、備蓄してあった内面性をすべて動員する。これは霊媒術めいた線状の言語のなかに、あるいは裸の植物的な自然――技術で武装した外界に対抗するもの――を表す花のなかに表現される。」(ベンヤミン、「パリ――十九世紀の首都」、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』、ちくま学芸文庫、1995年、343頁。)
[4] とはいえ構造科でも意匠科でも、双方の間の講義選択の自由はある程度与えられており、両者の対立図式は、実際にはさほど強固なものではなかったようである。当時の東京帝国大学建築学科のカリキュラムに関しては、以下を参照のこと。加藤耕一、「分離派誕生の背景――東京帝国大学の建築教育」、『分離派建築会100年:建築は芸術か?』〔展覧会カタログ〕、2020年、34-41頁。なお訳者としては、「構造派対意匠派」の対立を実態以上に強調し注目する、そのようなものの見方が普及しているという現象の意味するところに興味がある。
[5] Jacques-Antoine de Révéroni Saint-Cyr, Essai sur le perfectionnement des beaux-arts par les sciences exactes, ou Calculs et hypothèses sur la poésie, la peinture et la musique, Ch. Pougens, 1803.
[6] Hugues Marchal, « Avant-propos », anthologie sous la dir. d’H. Marchal, Muses et ptérodactyles : la poésie de la science de Chénier à Rimbaud, Seuil, 2013, p. 12. 訳は引用者による。なおマルシャルのこのアンソロジーは、18世紀から19世紀を通じての、自然科学的知に邂逅した文学者たちの多岐に渡る反応を収録した大部の著作で、記念碑的労作といえる。本「訳者あとがき」のこの段落以降の記述に当たっては、この書物に学ぶところが大きかった。
[7] Christophe Charles, Naissance des « intellectuels », Les Éditions de Minuit, coll. « Le Sens commun », 1990, p. 34. (クリストフ・シャルル、『「知識人」の誕生』、白鳥義彦訳、藤原書店、2006年、35頁。)
[8] Albert Aurier, « Préface pour un livre de critique d’art », Mercure de France, décembre 1892, p. 309.
[9] Charles Henry, « Introduction à une esthétique scientifique », La Revue contemporaine littéraire, politique et philosophique, t. II, mai-août 1885, pp. 441-469.
[10] Jules Huret, « Charles Henry », Enquête sur l’évolution littéraire [1891], José Corti, 1999, p. 397.
~~ 以上、「訳者あとがき」転載おわり ~~
他にも以下のようなテキストを翻訳しているので、ご興味がありましたらぜひご覧ください。
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