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オオカミ男と晴れ女 第1話
雪が降り続く大地に、一匹のオオカミが座っている。
厚く雲のかかった空を見上げるその首元には、真っ赤なスカーフが巻かれている。灰色の身体に雪を積もらせながら、彼──然り、オスの狼だ──は定期的に白い息を吐いていた。
彼は不意に振り返った。視線の先には、子供の背丈ほどの大きさの半球状の岩が顔を出しており──その先端がぐらぐらと揺れたかと思うと、酒瓶の蓋のようにスポンと抜け落ちた。
「キッド、まだ入らないの?」
そこから声と共に顔を出たのは、二十歳ほどの女だった。短く大雑把に切られた黒い髪と、リンゴのような色の大きな瞳が特徴的な、人間である。オオカミ──キッドは開いたままだった口を一度閉じ、彼女の名を呼んだ。
「エリカ」
無音の銀世界にしっかりと響く、低くて太い声だった。エリカはにっこりと笑い、「どっこいしょ」と半球から出てきて、雪の上に降り立った。
この町——特に名前はついておらず、オオカミは仮に常冬の町と呼んでいる——に住む人々は、地下に住居を作り、寒さを凌ぐ。今エリカが出てきた半球岩は住居への入り口で、雪原には同じような半球がいくつか顔を出しているのだった。
「いくらオオカミでも凍えちゃうよ?」
エリカは言いながら、深く積もった雪をものともせずオオカミのそばまで歩み寄る。そして彼女は、オオカミに薄く積もった雪を払うことすらなく、その身体に毛布を掛けた。
「おい、濡れるぞ」
「あとで乾かしゃいいでしょ」
そして彼女はまたもや「どっこいしょ」と言いながら座りこみ、オオカミの身体にかけた毛布を自らの肩にもかける。伝わってくる暖かさに、オオカミは深く息をついた。
そうしてしばらく、二人は無言で空を見上げ──口を開いたのは、エリカだった。
「……今日も、晴れそうにないね」
「そうだな」
「ぷっ……怒ってる怒ってる」
オオカミはシンプルに答えた。機嫌の悪そうなその声音を聞いて、エリカは笑いながらオオカミの背をバシバシと叩いてきた。
「天下のオオカミ男さんも、ワンコロの姿のままだと可愛いもんよねぇ」
「む……」
彼女を睨みながら、オオカミが呻いた。
彼は、世間でオオカミ男と呼ばれる存在だ。伝承にあるオオカミ男は普段は人間の姿で、満月の夜になると半人半狼の異形の怪人へと変貌し、家畜を襲い、人々を食らう……はずなのだが、彼の場合は少し事情が違っている。
「戻れなくなって、もう半年くらいだっけ」
エリカの言葉に、オオカミは溜め息をついた。
「……明日で七か月だ」
──彼の名はキッド。オオカミ男の末裔。
彼はどうしてか、七か月前からただの喋る狼として暮らしている。
***
二人が出会ったのは7ヶ月前。この町にしては珍しく、太陽が顔を出した日のことだ。
港に魚釣りにきたエリカは、極寒の海で仰向けに浮かぶ男を見つけた。
「うわ。嫌なもん見つけちゃった……」
以前にも一度水死体と出くわしたことがあるせいか、エリカは不思議と冷静だった。
水面に浮かぶその顔立ちを見るに、異国の人間のようだ。年齢はエリカと同じか、少し上だろうか。彫りの深い目鼻立ちで、銀色の髪が海水になびいている。
がっしりとした身体に纏うのは、青い革のジャケットと、擦り切れたズボン。そばにある木材は船の残骸だろうか。
「さて、どうしようかな……」
見て見ぬふりというのも、後味が悪い。せめて陸にあげてやりたい。
そう考えたエリカは、彼を釣り上げることにした。
手持ちの釣り糸を寄りあわせて、手近にあったリンゴほどの大きさの石を括り付け──投げる!
「そりゃっ」
エリカの掛け声とともに、石がキラキラと輝く水面の上を飛んでいく。そして……
ゴンッ
石は見事に、男の頭部に直撃した。
「あっ」
エリカの声が、静かな海に溶けていく。衝撃で水面に起きた波が、男の周囲の木片を押し流すのとほぼ同時に、重石と男の頭部が沈み始めた。そして。
「ゲボッ……ッ!」
水面が大きく波打つ。次いで、男の手足が跳ねた。
「えっ!?」
「ゲホッ!ガバッ!」
状況が飲み込めず動けないエリカの見る前で、男は再び気を失ったのか、水面に沈んでいく。
ゴボゴボゴボと泡が立ち──エリカはそこでようやく動いた。
「いっ……生きてたーっ!?」
慌てて糸を引っ張る。重石がうまく男に引っかかってくれたのか、エリカの手にずっしりとした重みが伝わってくる。
エリカは持てる限りの力を振り絞り、男を岸まで引き寄せた。そして襟首をつかんで引っ張り上げ、男に呼びかける。
「おい! あんた! 起きなさい! ちょっと!」
このまま死なれたら、目覚めが悪いなんてもんじゃない。横たわる男の顔を何度もはたきつつ、エリカは必死で声をかける。
ソリのそばで待機していた二頭の愛犬もなにごとかと寄ってきて、男に向かって吠え立てる。
「う……」
男が呻く。エリカは自分が殺人者にならなかったことを神に感謝しながら、さらに男を揺さぶって意識を覚ます。
「起きて! 寝たら死ぬわよ!」
「うあっ。おあっ。おふっ。ちょっ。あっ」
「よし! 生きてるわね! ユキ! コオリ! 行くよ!」
「「ワン!」」
愛犬たちの名を呼ぶと、彼らはソリの前へ移動して、主が乗り込むのを待つ。
「ん……しょっ」
「うおっ……!?」
ソリまで引きずった男を荷台に放り込み、ありったけの布を被せる。そしてエリカは愛犬たちをソリに繋ぎ、手綱を持った。
「行け! 全速力!」
「「ワン!」」
愛犬たちが元気に応え、走り出す。家までは全速力で十分ほど。
「とりあえず暖めないといけないよね……スープを作って、湯をかけて、あとはー……」
エリカは手綱を握ったまま、ぶつぶつと次にやることを確認する。と──
「──キャンッ!?」
不意に愛犬の様子が変わり、ソリが減速した。
「へっ!? ちょっと!?」
そのまま完全に止まってしまったソリの上で、エリカは戸惑いの声をあげる。次いで、彼女の居るほうを見て、愛犬たちが唸り始めた。その眼にはどこか怯えたような色が宿っている。
「ちょっと、どうしたの?」
愛犬たちの尋常ではない様子に、エリカは彼らの視線を追って振り返って──それを見た。
まず目に入ったのは、毛布の隙間から飛び出ている、水にぬれた灰色の尻尾。そして、大人の男が収まっているにしてはあまりに小さくなっている毛布のふくらみ。
「……?」
愛犬たちが吠え猛る中、エリカは恐る恐る、毛布を捲った。
「……え?」
エリカの声が雪原に消える。
ソリの上に横たわっていたのは、一匹のオオカミだった。
***
「やー、あんときはビビったわ」
ケラケラと笑うエリカを見て、キッドはため息をつく。
「普通なら捨てるだろ、あそこで」
「そうかなぁ? でっかい犬がいる! って気分だったよ?」
「お前みたいに甘いやつがオオカミに食われるんだ……」
なぜ人間の姿でなくなったのかは、正直なところキッド本人にすらわからない。そもそも彼は人間か半狼にしかなったことはなく、完全なオオカミの姿になるのははじめてのことだ。
ニコニコしたままのエリカを一瞥し、キッドはため息をついた。
しばしの沈黙。エリカは、キッドの鬣を撫ではじめた。
「やっぱ、人間に戻りたい?」
「……そりゃあな」
撫でながらのエリカの言葉に、キッドはぶっきらぼうに答え、空を見上げた。雪はいつの間にかやんでいたが、相変わらず灰色の雲が空を覆っている。
「……月が出れば、なにか変化は起こるはずなんだ」
常冬の町にきて以来、満月の夜の嫌な感じを味わっていないことから、雲の厚さや雪の影響で月の力が歪んで作用したのではないか、と想像している。縋るように絞り出したキッドの言葉を受けて、エリカも空を見上げ、「うん」と答えた。
「このままオオカミの姿で生きていくくらいなら……」
「だーいじょーぶ!」
キッドの言葉を遮って、エリカは彼の頭をグリグリと撫でまわす。
「あだだだ。お前意外と力強いんだからそれやめあだだだ」
「大丈夫ー!」
エリカは笑いながら、手を離す。
「あたし、晴れ女だからさ!」
キッドが顔を向けると、エリカの太陽のような笑顔がそこにあった。
不覚にも見とれてしまったことにハッとして、彼はふいと顔をそらす。
「お前……晴れ女の意味わかってんのか」
「失敬な! わかってるよ! 都合のいいときだけ空を晴らせる女でしょ!」
「なんだそりゃ」
あんまりな言い様に、キッドは思わず吹き出してしまった。
「笑うなー!」
「悪い悪い。……なんか、なんとかなる気がしてきた」
「うん。次の満月の日は、きっと晴れるよ!」
「そうかもな」
そうして、一人と一匹はしばし笑いあう。
ひとしきり笑って、エリカは立ち上がり、身体についた雪を払う。キッドも立ち上がり、ブルブルと身体を振って、積もった雪を振り落す。
「戻ろっか」
「ああ」
そして彼は顔を上げる。エリカは、自分の腰の高さくらいのオオカミの顔を見下ろしていた。
目があって、彼女がにっこりとほほ笑んで。
キッドもまた、人間のように笑ってみせた。
(つづく)
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