教科書とコーヒーが反発しあって民主主義が生まれた話
教科書を読むことの多い生涯を送って来ました。
by 人間失格でございます。
時に、教科書という言葉には、不思議の力を感じます。
想像してみてください。ビートルズに呼びかけられたかのように。さぁレッツ イマジン!
いかがでしょうか。
不良は教科書を忘れたことを気にしません。学校に置きっぱなしでしょう。モヒカンはそもそも、教科書を持っていないと思われます。そんな彼らが「教科書」と口にすると、どこか可愛らしさ、おかしみを感じないでしょうか。
これが教科書の力です。
不良にモヒカン、〇クザにマフィアに高利貸し、こわもてのオッサンたちに、すべからく可愛らしさをもたらす不思議の力です。
まだあります。
私はこれまで2年以上、欠かすことなく毎日コーヒーについてつぶやいてきました。こんな感じです。
時に日常のことを交えながら、時にというか しばしばというか しょっちゅうというか、コーヒー関係あらへん!という突っ込みまったなしのことを書きながら。noteでも、無理やりコーヒーについて書いています。
そんな無理やりコーヒーの匠たるこの私が、教科書とコーヒーをうまく絡められなかった……
これはあれです、反発力です。「教科書」という言葉は、コーヒーと反発するのです。
この現象を深堀りするために、次の本で歴史を振り返ってみましょう。
コーヒーは15世紀末ごろ、ヨーロッパ、アメリカ、アジアへと急速に普及しました。しかしそれは、順風満帆な旅ではありません。普及した先々で、実は弾圧の憂き目にあっていたのです。
コーヒーがコミュニティ作りに寄与し、思考を深め、議論を活発化させる。そうして大衆が知恵を、力をつけることを、体制側が恐れたのではと言われています。
これを裏付けるように、17世紀のヨーロッパではコーヒーハウスが大流行しています。コーヒーを飲みながら、身分や職業に関係なく、さまざまな議論に参加できる場として愛されたのです。
保険の仕組みがコーヒーハウスで生まれるなど、政治、経済、文学などあらゆる分野にコーヒーは影響を与えました。
話が長くなりましたが、つまりコーヒーの力は、体制を揺るがすのです。
そう、体制と言えば教科書。もうお分かりですね。コーヒーは、教科書の天敵と言ってよいのです。反発しあうのも無理はない。私がコーヒーと教科書を絡められなかったのも納得です。
しかし、そのことを受け入れたのなら大丈夫。現代社会はコーヒーと見事に共存しています。民主主義は、コーヒーの力をうまく取り込んだ産物なのかもしれません。
教科書を多く読んできた私も、見事にコーヒーと共存しています。こうして無事に記事を書き上げることもできました。これはあれです、アウフヘーベンと言ってよいでしょう。
さて今日もまた、なんのはなしですか と落ちをつけるしかない!と腹をくくって書き始めました。モヒカンが出てきたところでお察しです。しかしながら変なところに落ち着いて、ほっとするやら残念やら。
これもコーヒーの力と言って過言ではないでしょう。民主主義を産み落とすほどの偉大な力です。いやそんなはなしですか?。