サーモン
全く作家というやつは、おかしなものだ。
次の作まで数年開いたりすると、もうそれは、考察されつくし、いざ発表、それみろ、鑑定と同じことが書いてある、評判が出た晩、その作家は赤面し、近くの川に、その身を―――と言うのは大げさだが、まあそういうところがある。
というのは、昔の話だろうか?
『デンキ街の本屋さん』では、ネットで話の行く末を検分されつくし、血反吐を吐きながら(ちょっと記憶があいまいだが自分の都合のためこうしておく)出版した渾身の一冊、みたいな表現が出てくるが、それは上述の事が現代にも生きているということの証左ではなかろうか。
しかし作家も作家である――――おごるということがある。
まあこれは、そんなにつっこまなくてもいいだろう。
作家の心理など、作家になってみたまえと言うところだ。(僕は、プロフィールにもある通り、美術作家のつもりだ)
だが、こういうご時世なので仕事は、舞い降りてこないことを告白しておく。
だから仕事は自分でつくるしかない――――話がそれた。
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僕は先ほど、家族の真ん中に立っていた。
と言うのは立っているところの真ん前を向いて、右に母、左に父、という構図だった。
そして僕はある宇宙に迷い込んだ。
家族と言うのは、なんという奇妙な不思議な固い絆――――繰り返すと宇宙にいてもお互い繋がっていそうな親和力をこれほどにも持っているかと言うのを感じた。
その上で喧嘩したり、仲直りしたり、慰めあったり、高めあったり、学びあったり――――大袈裟に言うなら、そしてもう一度言うならば、それぞれが宇宙であるのだ。
僕は、ある人から静かにしていても、何か学んでいる―――まあ、ボケっとしていて学習するタイプと言われたことがある。
『それが本当なら』損な性質である。まあ、色々と言い訳めいたことを書くのが面倒だから省くが、僕は今言ったそれをを――――宇宙がうんたらかんたらを、他人に説明できないのだ。
口下手である。
たとえば、父でも母でもどちらでもいい。
僕が宇宙を感じていた時に、
「ちょっと何かやったらどうか。じっとしているばかりじゃないか。」
と、言われた(なるべく中性的に書いたつもりである、母か父かわからぬよう)。
それの返答はそれぞれの想像に任すとして(実は肝心なとこを覚えていない)、
だが、僕は「何かやったらどうか。」という言葉のアンサーとして「これを書いてることには違いない。」