【超長文】「堕ちた先はタタールという沼だったんだ・・・」なんてことも、人生においては多々あるよね、というお話
イセンメセズ!(Исәнмесез:タタール語で「こんにちは」)
もしあなたがこのワンフレーズだけでも覚えてくださったなら、このnoteを書いた意味は私にとって大きなものだったと言える。なぜかって?それは、日本語のなかに、タタール語由来の語が当たり前に織り交ぜられる未来を迎えるのが私の夢だからだ。
それはなんだっていい。
タタール料理の名称でもいいし、タタール語の曲名だっていい。あるいはタタールの伝統祭祀の名称でも、それとも有名なタタール語の文学作品でもいい。タタールのものが日本社会でもっとあたりまえのものになればいいな、と心の底から思っている。(写真はタタール料理の代表格オシポシマク:Өчпочмак、その意味は見た目の通り"三角形")
この夢を少しでも現実のものとするために、私のnoteでは日本語を読む人々に少しでも多くのタタールに関する情報を伝えられたらと思う。そのほかにもテュルク世界の魅力もお伝えしたい。
自己紹介記事のはずなのに、すっかり自己紹介を忘れてしまった。
私は最近、世界各地に暮らすタタールがどのようにしてタタール語を継承・復興し、あるいは、どのようにしてタタール語を喪失していったかに強い関心を持っている。分野としては社会言語学で、なかでも継承語や母語がキーワードである。
この8年ほどは特に中央アジアの国々に暮らすタタールのことばに興味津々で、ごく最近「現代タタール・ディアスポラの言語選択:ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンを事例として」という題目で博士論文を出してしまった。私は短命家系の生まれなので、60歳くらいでこの世界から去ると仮定したら、自分の人生の半分はこの仕事に捧げたも同然である。ともあれ、タタール語やタタール文化は私の生活に、人生に深く根付いていて、もはや私を私たらしめる大きな要素である。
こんな暮らしをしていると、よく訊ねられるのは「いったいどうしてタタールなの?」と「どうしてこの研究テーマに行き着いたの?」という2つの質問である。正直なことを言えば、私は最初からタタールに人生を捧げていたわけではなく、元はスラヴィストになりたかった。
・・ということをツイッターで少し書いたら、思ったよりも反応があった。これに気を良くした私は、いかにしてテュルクの、タタールの沼に嵌っていったのか、長々と自分語りをしてみようとこの記事を書くことにした。
この記事が誰かの役に立ってほしいとか、そういった崇高な目標はまったくない。ただ、つい先日28歳の誕生日を迎えたばかりの私は人生の折り返し地点が目前に迫った感覚が強く、少しばかりこれまでの歩みについて振り返ってみたいと思ったのだ。そう、この記事は自己満足ほかならない。
1. 当初はスラヴの森に誘われて
ちょうど10年前、18歳だった私はスラヴ語の世界に強く惹かれていた。
大学で本腰を入れてロシア語を学び始めたのもこの頃だった。スラヴ語の流れるような、柔らかな響きに心がときめき、その当時はロシアとバルカン諸国のポップスも大好きだった。通学のあいだお世話になったiPodには、拡張キリル文字が文字化けを起こして曲名がどうにかなってしまった音楽ばかりが詰め込まれていたっけ・・
すべての明確な始まりは、小学5年生のときの経験に遡る。それは入院先のベッドの上で夜な夜なAMラジオのつまみをいじっていたときのことだった。妙に物悲しいメロディがラジオから流れてきた。どこかに懐かしさを覚えるメロディに一瞬で心をとらわれ、もう、私の世界はそれからまるで一変してしまった。それはロシアのラジオ局マヤークの時報前シグナルに流れる「モスクワ郊外の夕べ」(Подмосковные вечера)のメロディであった。
ロシア語学徒となって既に長いけれども、今なおロシアの歌のなかでいちばん好きなものは変わらずこの歌だ。今となっては、このメロディを聴くだけでせめて私の意識だけはロシアに飛んでいくことができるので、精神的な救いとでも言うべきか。
ともあれ、それから私はロシアの音楽の虜になった。
その当時は今ほどインターネット上に情報が溢れていたわけではなく、ロシア・ポップスをはじめとするロシアの情報はもっぱら「ロシアンぴろしき」というサイトから得ていた。このサイトを訪ねるようになったのは2003〜2004年ごろだったと思うが、2021年を迎えた現在もなお、当時と変わらぬ姿で運営されていることにはただ驚く。
このサイトの「音楽CD(DVD)レビューのページ」は私が中学生だった2005年のころから更新されずに残っていて、前世代の遺産感がある。むしろ、このまま更新されずに残してほしいと思うほどだ。
余談ではあるが、高校生のころにはロシア・ポップスの世界を飛び越えて、バルカン諸国のポップスにまで手を伸ばしていた。
特に、この頃はわざわざ国外からCDを取り寄せて購入するくらいには「ユーロヴィジョン」の大ファンでもあり、なかでも2007年大会で優勝したセルビア代表のマリヤ・シェリフォヴィチが歌う「祈り」(Molitva)は、意味も分からないまま耳コピして歌えたほどには大好きな歌だった。
今もセルビア出身者と出会ったときには、まずこの歌でつかみにかかる。(そして大概ウケる)
2. ロシア語をもっと学びたくて大学進学
小学5年生でロシア語の音に魅せられた私は、やがてお年玉を貯めてロシア語の教材を手に入れた。最初に手にした我が青春のバイブルは、黒田龍之助先生による『ニューエクスプレス ロシア語』だった。2007年、中学2年生になったばかりの春先のことだった。
高校生になってからも夢中になってロシア語の勉強を続けた。そして独学するなかで、私はある問題に直面した。どうやってさらにレベルアップしていったらよいのか分からない、という問題である。
その当時、市販の学習書の選択肢は今ほど多くなく、特に初級を終えて中・上級に向かおうとする学習者に向けた学習書は少なかった(*1)。ましてや当時はようやくTwitterの日本語版がサービスを開始した頃だったので、ネット空間で誰かと恒常的に繋がったり、情報交換をすることも今ほど当たり前のことではなかった。(チキンだったので2ちゃんねるはROM専にとどまった)
大きな書店が近所にない田舎だったこともあり、これ以上学ぶなら大学でロシア語を専攻するのが手っ取り早い、と思うに至ったのは進学先について本格的に考え始めた時期のこと。
(私はイバラキスタン共和国にある大きな湖のほとりにある村に育った。人間よりも馬とレンコンのほうが遥かに多い、緑豊かな田舎であった)
ところが経済的な事情により、進学できるのは近隣の国公立大学か、授業料がかからない大学校(防衛大学校や警察大学校など)のどれかに限られていた。漠然と、対露関係の最前線か、はたまた日本海側のどこかの街でロシア語を使う将来を思い描き始めたのが高校2年生のころだっただろうか。
それから少し経ったころ、進路指導室に届いたばかりの近隣の国公立大学のパンフレットとシラバスをパラパラと眺めるなかで、たまたま、本当にたまたま、当時の実家から2番目に近かった筑波大学にロシア語コース(*2)があること、ロシア語やロシアに関連する授業も多数開講されていることを知った。その瞬間、私の行く先はここだ!と、強い電波をビビビと受信してしまったのである。思い返してみると、これが人生の転換スイッチを思いっきり押した瞬間でもあった。
もしこの時、例えば模試にだけ書いていた憧れの東京外大や東大に進んでいたなら、あるいは受験した防衛大学校に進んでいたなら、私は今ごろまったく違った人生を歩んでいただろうと思う。たらればの話は何も生み出さないとは分かってはいても、つい考えてしまうことがある。
ともあれ、その当時はロシア語の中上級の学習書が少ないことにも強い問題意識を持っていたし、若さゆえの怖いもの知らずと勢いもあって、これを将来解決したいという気概まで持っていた。また、ちょうどその当時、ウクライナとベラルーシに暮らすペンパルがいたこともあり、筑波大学がこの頃からこれらの国に協定校を持っていたことも決定打のひとつとなった。
2011年4月、震災の影響が強く残るなか、私はロシア語を学ばんと筑波大学の土を踏んだのであった。
3. ウクライナではなくウズベキスタンに留学します
ところで私の人生を大きな影響を与えた人物として、У先生について触れないわけにはいかない。筑波大学に入学して、初めて受けたロシア語の授業を担当されていたのがУ先生であった。У先生はとにかく学生を褒めて伸ばすタイプの先生で、私も例に漏れず、褒めに褒められて伸び伸びと自由に育てていただいた。その結果、気づいた時には博士課程にいた。У先生と出会わなければ、大学院に進むという発想すら持たなかっただろう。結果的に10年間に及んだ学生生活のなかで、У先生は私が最も刺激と影響を受けた人物である。
この頃のУ先生はNIS諸国の大学と学術協定を結ぶことに心血を注いでおられたこともあり、ちょうど私が学部時代を過ごした間には次から次へと各地の大学との学術交流協定が締結された。今現在も、NIS諸国+バルト3国のすべてに協定校を持つのは筑波大学くらいだろうと思う。
協定が増えた結果として、各地からたくさんの留学生がやってくるようになったが、その一方で筑波大学からNIS諸国に送り出される学生の数は例年それほど多くはない。何が何でもこれらの国々に留学したいと思っている人にとっては、留学先の選択肢が多く、他大学よりも学内競争が少ないという点で筑波大学はおすすめできる。ただしロシア語の授業数自体は多くないので(*3)、ロシア語を専門的にがっつりと学びたい場合には、やはりロシア語専攻を持つ外国語大学が最適なのだろうと思う。
大学に入ってからというもの、私は日夜ロシア語の学習に全力投球していたが、辛抱強く付き合ってくれたのはいずれも中央アジア出身の留学生であった。
なかでも特に仲良くなったのはウズベキスタン出身のイルミラ(仮名)という名の留学生で、テュルク諸語に詳しい方ならお気づきかもしれないが、彼女の民族的出自はタタールであった。私自身はちょうどその頃、思春期〜青年期特有の「自分とは誰か」という自問により祖母がタタールであることを強く意識するようになっていたのだが、彼女もまた自身のタタールらしさについて悩みを抱えていたことから、お互いに精神的に深く関わり合うようになるまで長い時間はかからなかった。
イルミラはタシュケントに生まれ育ち、これまでの教育のすべてをロシア語で受けてきた(*4)。彼女の第1言語はロシア語で、タタール語は「母語」(родной язык)だと思っているが(*5)、タタール語で知っているのは、冒頭で紹介した《Исәнмесез》(こんにちは)と、《Әни, миңа ипи бир әле》(母さん、私にパンをちょうだいな)というドラマで聞いたらしいワンフレーズ、それからいくつかの有名な民謡だけだと言う。
そしてある日、イルミラが「そういえば」と思い立ったように話したことが、その後の私の生活を一変させることになった。2012年、ウズベキスタンの首都タシュケントでは無料のタタール語講座が開講される運びとなり、彼女の弟がそこでタタール語を学び始めたのだという。
彼女の呟きを聞きながら、私の頭のなかは疑問でいっぱいだった。
なぜタタールという意識を持ちながらも、イルミラにはタタール語を学ぶ機会がなかったのか?彼女の弟はなぜタタール語を学ぼうと思ったのか?誰が、なぜタタール語の講座を開いているのか?本物のタタールとは何か?タタールらしいとは何か?
今思えば、どこかに自分の姿も重なったのだろうと思う。この時から私は、これらの問いの答えを知りたくてたまらなくなった。結果的に、これらの問いは卒論でも修論でも分からず、足掛け9年目に書いた博論でようやく少しだけ分かった。ここではその内容には立ち入らないが、いつの日か博論を紹介する記事が書けたらと思う。
この時、中央アジア諸国の言語をめぐる諸問題について学び始めるとともに、まずはイルミラの故郷であるタシュケントに行って、タタール語講座で学ぶ人たちに会ってみようと思った。
当時は、翌年度からキエフ国立大学(ウクライナ)に留学する準備を初めていたのだけれど、この手続きを全てストップしてウズベキスタンに留学する方針に切り替えることにした。2012年10月、学部2年生のときのことだった。
(ウズベキスタンの地図。こちらは博論で使用したもので、実は筆者の手書きにより作成された・・)
結果的に2013年3月にはタシュケントで1年間の留学生活を初めていたのだから、この当時の鉄砲玉のような行動力には末恐ろしさすら感じてしまう。
なお、この突発的で無謀な計画の転換は、本項の冒頭で紹介したУ先生と、さらに学部・修士時代にたいへんお世話になったウズベキスタン出身のД先生の多大なるご理解・ご尽力があって実現したものだった。
院生時代は学内の留学相談員として勤務していた経験から書いておきたいが、留学は、渡航の1年前くらいから慎重に計画を立てるのが一般的である。留学は計画的に!
4. テュルク世界への入り口は唐突に
タシュケントでの暮らしに慣れたころには当地のタタール民族組織を訪ねるようになり、やがて私自身もタタール語講座に通いながらタタール語を学ぶ人々との交流を持つようになっていった。この講座には10代以下から50代までの幅広い年齢層の、さまざまな社会的立場の受講生が集まっていた。
講師を務めるのは、タシュケントで生まれ育ち、ソ連期にカザン国立大学(当時:現在のカザン連邦大学)で教育を受けたタタールの女性である。彼女は極力タタール語だけで授業を進めようと奮闘していたが、受講生が質問の意味を解さずに黙りこくると、すぐにロシア語に切り替えて再度質問を投げかけていた。印象的だったのは、ロシア語を不得手とする10代以下の受講生が数名いたことである。ウズベク語を解するほかの受講生が時々彼らに助け舟を出すシーンもたびたび見かけた。
写真はある日のタタール語講座(中級クラス)の様子。(参加者の顔が写っているのでぼかし加工を施している)
留学前は「ロシア語ができれば何とかなるだろう」と漠然と思っていたこともあり、ウズベク語は必要最低限の挨拶しか学ばずに来た。ところが今日のウズベキスタンでは、短期の滞在ならまだしも、腰を据えた調査を行う上では、ウズベク語なしではもはや立ちゆかない言語状況へと変わりつつあった。
一般的に、中央アジアのタタールはロシア語を得意とすると言われる。実際に、タシュケントでの調査中に出会ったタタールで、ソ連期に生まれ育った世代の大多数はロシア語を第1言語としていて、タタール語やウズベク語を話す人は少数であった。しかし、独立後に生まれ育った世代の言語状況は大きく異なるもので、10代と20代のなかにはウズベク語で教育を受けた人、受けている人も珍しくない。その中にはロシア語を不得手としていて、少しでも複雑な話題になると耳で多少の理解はできても、話すことはまったくできないという人までいた。
現在のウズベキスタンの前身にあたるウズベク・ソヴィエト社会主義共和国では、ウズベク語とロシア語の2言語は同等の地位にあるとされていた。
ただしその言語状況には濃淡があり、たとえば民族的ロシア人の多くはロシア語モノリンガルで、都市部の住民は民族を問わずロシア語を熟知していたと考えられる。ソ連期中央アジアでは、工業化が進むとともに都市部に暮らす労働者が増えていったが、都市部は民族の坩堝であったことから、生活の適応にはロシア語の習得が必須であった。それだけにとどまらず、ロシア語を話すことが社会的にも政治的にも安全であった社会的背景もあり、ロシア語は諸民族に浸透していったと考えられる(*6)。また、社会的上昇のためにはロシア語の知識が必要だったという指摘もあり、岡(2004)はこれについて、社会構造上やむを得なかったという意味では完全に自由な選択だったとは言えないが、彼らが自ら進んでロシア語を学んだ側面もある、と記述する(*7)。
独立に先立つ1989年に制定された言語法では、ウズベク語を国家語(davlat tili)とし、ロシア語は民族間交流語(millatlararo muomala tili)としての使用が保障されると表記されるのみにとどまった。さらに1992年に承認された共和国憲法と1995年に制定された言語法では、ウズベク語が国家語であることが明記されるのみで、以降ロシア語の法的地位に関する言及はない。
(「国家語をめぐる問題は私たちの国家理念の主要なトレンドのひとつでなくてはならない」-ウズベキスタン共和国大統領シャフカット・ミルズィヨエフ)
留学していた2013年から2014年は独立からちょうど四半世紀を目前に数えるころで、ウズベク語が国家語としてふさわしい使用状況になるようにと、社会のさまざまな側面におけるウズベク語化が推進されていた。学校教育の場においても、ウズベク語学校の設置数を増やすほか、非ウズベク語学校におけるウズベク語の教育時間数が拡大されるといった動きが見られた。また、公務員に対するウズベク語習得の義務づけも行われるようになり、たとえば郵便局や役所などの公共機関ではウズベク語を話す職員が配置され、そのなかにはロシア語を話さない、あるいは不得手とする者も少なくなかったと思われる。(実際に、私が普段利用していた郵便局にはロシア語を解さない若い職員がいた)
ロシア語話者が大多数を占めるタタールのなかには、ウズベク語モノリンガルへと向かう社会状況に強い拒否感を示した人も少なくなかった。なお、( )内に示す年齢は調査当時(2013年〜14年)のものである。
他方で、ウズベク語で教育を受け、ウズベク語を第1言語とする若い世代のなかには、言語的な「近さ」からタタール語に関心を高めるタタールもいた。
(なお、ここまでに紹介した調査協力者の語りはいずれも博士論文のなかで紹介したものである)
こうなってくると、ウズベク語を学ばないことには研究をさらに進めることは難しい。私は留学先の大学でロシア語グループ(主にロシア語で教育を受ける学生のためのコースがある)の学生たちに混ざって「国家語」の授業を受けることにした。そして、これが私にとってテュルク世界の深みに嵌ってしまうきっかけとなったのであった・・
(「国家語」の初回授業では授業中に頻出するウズベク語フレーズを全て覚えることが課題であった)
タタール語とウズベク語は、ともにテュルク諸語に分類される言語である。テュルク諸語に分類される言語はユーラシア大陸の広い範囲で話されているが、その分布の広さの割にはそれぞれの差異が大きくないと言われる。ゆえに、テュルク語のどれかひとつを知っていれば、別のテュルク語を読み聞きしたときに、たとえこれまでに知らなかった言語であったとしても意味の類推が容易にできることがある。(できないときもある。普通にある・・)
たとえば上に示したのはタタール語とウズベク語のごく平易な文章だが、両者を比べると構造や語彙が似通っていることに気づかないだろうか。私はテュルク諸語の、この、ユーラシア大陸のなかに広がる壮大なパズルのような感覚に夢中になってしまった。なんとロマン溢れるパズルだろうか。
これが同じ語群(例えばカザフ語とクルグズ語、タタール語とバシキール語、ウイグル語とウズベク語など)だとさらに共通性が高く、異なる語群だと低くなる。
テュルク諸語の語彙の共通性と差異については、安くはないが「Dictionary of the Turkic Languages」という本を眺めてみるととても楽しい。テュルク諸語のなかでも主要な8言語(アゼルバイジャン語、カザフ語、クルグズ語、タタール語、トルコ語、トルクメン語、ウイグル語、ウズベク語)の語彙を一気に比較することができる。
ウズベキスタン留学中にウズベク語とタタール語の知識を蓄えるなかで、私はテュルク諸語のおもしろさに目覚めていった。いつしかロシア語は、テュルク諸語の文法書や学習書を読み漁るための武器へと姿を変えていったのであった・・
5. 気づけば私はタタリストでテュルキスト
ウズベク語とタタール語を軸としながら、ほかにもいくつかのテュルク語にもちょっかいを出すうちに、私はもう後戻りできないほどテュルク諸語のおもしろさに夢中になってしまった。
そんなにたのしいテュルク諸語とはいったいどんな響きかしら?と少しでも気になってしまったあなたには、ぜひとも以前書いた記事「耳が旅する自由はある:オンラインラジオ生活のすすめ(テュルク世界を中心に)」に飛んで、適当なラジオ放送を聞いてみてほしい。いくつかのラジオを聞くうちに、似た響きと似ていない響きを見つけるだろう。似たような楽器の音や、旋律を見いだすこともあるかもしれない。あるいは、まったく違う響きが聞こえてくることもあるだろう。
この世界に完全に浸かるにあたって決定打となったのは、2015年に参加した「国際タタール語オリンピック」であった。いくつかの紆余曲折により私は第3回大会から3大会連続で出場することになり、結果的に第5回大会で優勝を果たしたわけだが、これについてもまた別の機会に紹介できればと思う。
タタール語オリンピックにはロシア全土のみならず、世界各地からタタールの若者が集まっていた。
世界のさまざまな場所でマイノリティとして暮らしながらも、タタール語・タタール文化を継承し、あるいは新たに学び、タタールであることにプライドを持つ同世代のタタールと知り合うなかで、私もまた自分自身のタタールらしさ、タタールであることについて、深く考え始めるようになった。そして、タタール語ということばが紡いでくれたさまざまな出会いについても考えているうちに、私の生活はもはや、このタタール語なしでは成り立たないことに気づいてしまった。私の暮らしと共にあり続けるこのことばに、表現できないほど強い愛情を抱くようになったのはこの頃のことである。
かくしてタタール語・タタール文化を研究対象とし学ぶ私は、これらを深く愛するタタリストとなった。そのほかのテュルク諸語やテュルク世界の文化にも愛着を抱き学んでいるので、テュルキストであるとも言えるだろう。(ただ、あえてオチをつけるならば、私は今、大学でロシア語を教えることで飯を食っている。残念ながらタタール語では日本で食えない。ので、この現状を少しでも変えたくてこの記事を書いた。)
(追記)
2022年12月、ひそかに夢見ていた「タタール語の教科書を日本語で出版する」が実現した。