【編集長のひとりごと#3】偶然の宿命。「私」の拡張。共感(empathy)と寛容。その①
先日、いわきでトークショーしてきました。
来てくださったみなさま、ありがとうございました。
自分自身、改めてなぜ『たたみかた』を作ることになったのか?
その背景をnoteで綴り、アーカイブに残すことで、読者の方にもその思考の履歴を追体験していただけたら嬉しいなと思うのです。
私と、他者。
『たたみかた』の大前提。
「私」と他者は、言葉や同時代的な体験によって繋がりあうことはできるけれど、“ほんとう”に繋がり合うことはできないという立場に立っています。
(そもそも「言葉」そのものが不思議すぎるのだけれど。まぁ、いいや)
誰しもが、ごく個人的な「私」の世界を生きている。
そんな無数の「私」が集まり、肩を寄せ合っている。
同じものを見ても、聞いても。
私たちは、それぞれが立つ場所から、見聞きしている。「私」というフィルターを通過して、事象を受け取っている。そして、それは決して他者と共有することができない。だから、私たちは、“ほんとう”に繋がることはできない。
この繋がれなさが「私」同士の対立を生んでいるのは間違いないと思うし、孤独や寂しさのタネでもあると思う。「私」を根源的に問うことで、見えてくるイシューも変わってくるように思う。
なにより、『「私」とはなんぞや?』という問いは、誰でも問うことができる究極の共通の話題になりえる。誰しもが「私」については当事者なのだから。
さて、「私」とはなにか?
ごく個人的な「私」という存在そのものが、そもそも謎に包まれている。もうドン引きするくらい、謎に包まれている。
「私」を構成している要素を分解していくと、何も残らない。キャベツのように剥き続けるとなくなってしまうような、不思議な存在である。(玉ねぎにしようと思ったけど、枚数少ないからやめた)
「たたみかた」では、その1枚1枚のキャベツの葉っぱ(私を構成する要素)をひたすら剥がしていこう、と語りかけている。
そのためには、まず“キャベツの葉っぱの集合体”であることに気づくことが最初の一歩になる。中でも宿命として与えられたキャベツの葉っぱについて、より注意深く意識を向けてみようとも囁く。
自分では選択できなかったもの=宿命
生まれる時代、国、出生地、家族……、など。
当然、その要素が内包しているもの。歴史、産業、経済状況、価値観、身体的特徴などなど……。それらも、宿命的な要素となる。
しかも、その重要なキャベツの葉っぱは、“偶然”与えられてしまう。
✒︎
さらに、さらに。
「私」を構成している要素を剥き続けると「無」「透明」になる。これこそが、本書のミソでもある。これは次回以降書くけれど、この「無」「透明」であるという事実は端的な「今」、そして「私」の拡張へと繋がる。そして、共感(empathy)と寛容に結びついていく。
そんな、まどろこっしい雑誌が「たたみかた」です。
ほんと、すんません。
考え続けること、悩み続けること。
それは、本書の核ではないです。
思考を重ねていく道のりの中で、因果の複雑さ、宿命の偶然さに触れることで、何か一つの正しさが存在しないということを、まざまざと思い知る。
その結果、考えつづけないといけなくなる。
悩み続けないといけなくなる。だけなのです。
とっても孤独な雑誌であり、同時に、本当の自由を探求する希望の雑誌でもあるのです。(と、思って作ってます)
続きは近いうちに書きます。
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