ヤングケアラーは支援する?救出する?根絶する?
ヤングケアラーが支援対象になった
2024年6月、「改正子ども・子育て支援法」でこれまで法的根拠がなかったヤングケアラーが支援対象として明文化された。多くの関係者・団体が尽力された結果であり、さまざまな感想が出ているなかで、私はちょっと立ち返って2021年発行の『ヤングケアラー 介護する子どもたち』を読み直すことにした。
「ヤングケアラー」という新しい言葉を一般に広げた張本人とも言える毎日新聞取材班の本。この問題を取り扱うことになった経緯や取材の過程、取材したヤングケアラーたちの事例、社会の反応や政治の動きなどを、取材班の視点で描いたドキュメンタリーだ。
ひと言でいうと、この取材の流れがもたらした結果に驚いている。ヤングケアラーは流行語になり、政府主導で調査が進められ、自治体でも対策が始まり、とうとう支援法が成立した。なぜこんなに注目されたのだろう――わかりやすいから?現場で問題が重視されていたから?可哀想な子どもの支援は誰も反対しないから?政治家にとって家族のケアを担う子どもは理想像だから?
記者さんにお会いした頃
実はこの本を執筆された毎日新聞ヤングケアラー取材班のおひとりにお会いしたことがある。2020年2月ごろ、コロナ禍の自粛が始まる直前にソーダの講演会にいらしてくださり、その前後にお話しする機会があったのだ。
私自身は当時「ヤングケアラー」という言葉にあまりピンと来ていなくて他人事のように捉えていた。きょうだい児にもヤングケアラーは多いけど、聴覚障害のような身体・生活上の支援を必要としないケースは当てはまらない気がしたのが大きな理由。その場に「ザ・ヤングケアラー」とも呼ぶべき他の障害種の若いきょうだいが同席していたので、ヤングでない私は遠慮してあまり個人的な話をしなかったと思う。
「きょうだい児」「ソーダ(聞こえるきょうだい)」はしっくりくるけど、「ヤングケアラー」という色は当てはまらないと感じていたかも。ここで「色」と表現したのは、ヤングケアラーには支援すべきとか配慮が必要とか、可哀想とか苦労とか、問題視するイメージがあって、単なる状態を示す言葉じゃないと思ったから。「きょうだい児」をヤングケアラーと同じように捉える人もいるけど、ケアをしても・しなくても、悩んでいても・いなくても、障害のある兄弟姉妹がいればきょうだい児だし、ソーダも同様。立場を示すだけのニュートラルな言葉に対して、ヤングケアラーには最初から色が付いていると思ったわけ。
ヤングケアラーの定義を知って
その後しばらくして、日本ケアラー連盟がヤングケアラーを「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている18歳未満の子ども」と定義していることを知った。
妹に対する「通訳」はケアなのだろうか、直接的な介助とコミュニケーション支援はどう違うか、そのへんのぐるぐるはこちらのノートに書いた。
ただケアラー連盟の定義にある「感情面のサポート」はがっつり当てはまる。ワンオペ障害児育児で精神的に不安定だった母は、私に嫌味や愚痴を言うことでストレスを発散していて、常に母の顔色を窺い、不平不満や悪口を聞かされて罪悪感と責任感でがんじがらめになったことが、私の担った最大のケアだ。弟が若くして事故死したこともその関係性に拍車をかけた。
母への精神的サポートをケアと考えれば、子どもらしさと健全な心の成長を丸ごと代償にしたわけで、バリバリのヤングケアラーかも。私の場合はヤングでなくなってからその影響が現れたが、似たような状況に苦しんでいるきょうだい児は多いと感じる。
記者さんにお会いしてから4年経った今の気持ちはというと――私は典型的ヤングケアラーではなかったが、精神的ケアを担うヤングケアラーの一種であったと思う。私が果たした役割は本来なら父やカウンセラーなど大人が担うべき仕事で、成長過程にある子どもには不釣り合いな重荷であったし、いま思えば若白髪や頻繁な鼻血という形でストレスも表面化していたから。
私のような子どもは救われるのか
新聞によれば、今回の改正ではヤングケアラーを「家族の介護その他の日常生活上の世話を過度に行っていると認められる子ども・若者」と定義するそうだ。
むむっ、ケアラー連盟の定義に比べて狭くなった気がするぞ。「過度に」ってなると私のような子どもはどうだろう――直接的なケアをしていない・ケア負担が少なく見えるきょうだい児で、そこそこ裕福な家庭で教育レベルも高め、成績優秀でほぼ皆勤、親の良き理解者で家事も手伝うし、親は問題ないと思ってる、本人も当時は気づいていない、むしろとても良い子、だけど精神的には非常に劣悪な環境にある――こんな子は対象になるだろうか。
支援ではなく救出?根絶?
今回の法律改正で、困っている子どもがSOSを出しやすくなったり、行政や福祉制度の側から手を差し伸べられるようになって、ヤングケアラー本人が支援の対象になるのは喜ばしい。でもそもそもの家庭の課題が解決できなければ何も変わらないと思っちゃうのは悲観的すぎるかな。
例えば当時の私にも心理的サポートがあればよかったかもしれないけど、状況を改善するには親向けのカウンセリングや家事支援の提供、付き添い前提の障害児教育の見直し、きょうだい児の放課後預け先などが必要――つまりヤングケアラー本人だけでなく、機能不全に陥っていた家庭そのものを支援対象にしないと何も変わらなかったと思う。
本音を言えば、ヤングケアラーは解決すべき課題であって「支援」してケアに従事させるのではなく、ヤングケアラー状態から子どもを「救出」して、大人や社会が担うはずのケアを子どもにやらせるような状態を「根絶」すべきだと思っている。
「根絶」なんて書くと、当事者・経験者の気持ちやアイデンティティを否定するみたいになっちゃうけど、「ヤングケアラー当事者の気持ち」は重視しつつも「社会制度の不備による問題」として取り組まないと解決できないよね。そこまで踏み込める支援体制であってほしい。
支援が新たな抑圧にならないように
そして家族を支えたい・役に立ちたいと思うのも、負担に感じたり逃げたいと思うのも、どちらも一人のヤングケアラーの中に併存し得る自然な気持ちだけど、この「揺れ」の部分が政治家や行政にきちんと理解してもらえてるのか不安なのよ。啓発と称して前者のような「良い子」の面ばかり紹介しそうじゃない?余計に追い詰めやしないかと心配してる。
法制化にあたって調査も行われたし、おそらく経験者や支援関係者が丁寧に説明したと思うけど、昔を振り返って「こうしてほしかった」と考えるのとリアルタイムで感じるのも違うだろうし、都合のよい部分だけ「当事者・経験者の意見」として切り取られて、支援策のお墨付きや行政の実績作りに利用されはしないかと疑ってしまうんだよね。
おわりに――大人として見守りたい
今回の支援法成立が、まさかと思うけど、子どもがヤングケアラーとして成長できるよう支援し、30歳を過ぎたらワーキングケアラーに移行させ、老老・老障介護に至るまで一生を家族のケアに捧げるような、お国にとって都合のいい継続的支援…なんてことにならないように、大人としてちゃんと見張っておきたいと思う。
最後に自治体の支援者の方々へお願い。ヤングケアラーのためにイベントや啓発活動を計画されてるかもだけど、キャンプで焚き火囲んで家族への想いを語らせたり、作文書かせて美談扱いで表彰したり、参加者数や相談件数を目標にしたり、つまり支援する側の満足や実績づくりのための支援はしないでね。そこんとこマジでよろしく。
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