キコエルきょうだいへのプレッシャーを考えてみた
子どものうちから(キコエナイお子さんと一緒に)キコエルきょうだいも手話やろう者の世界に触れてほしいと思うのは親のエゴだろうかというツイートを見た。
多くの方が「エゴではない、キコエナイお子さんのロールモデルになるし、家族としても大切なことだ」とリプされていて、私もその通りだと思う。このツイ主さんはキコエルきょうだい(ソーダ)のことも理解されたうえで迷いを投げかけておられて、私もすぐイイネを押した。でも単純に「ソーダ当事者としてもエゴじゃないと思います」とは返せずにいる。何かがチラッと引っ掛かる感じ。これってなんだろう?
●ろう者や手話との自然な出会いは大切
私も小さい頃に手話を使う大人のろう者と出会ってみたかった。これは本当。キコエルきょうだいが世間の偏見に惑わされる前に自然な形でろう者や手話に出会うのは理想的だし、医療・福祉目線ではなく言語や文化として手話とろう者の世界を知ることは、きょうだいの対等な関係づくりにもつながると思う。
●親のエゴではないけど、子どものエゴは認めてあげて
だから決して親のエゴではないと思う。紹介されていたような日常での出会いはとても素敵だし、そういう機会を探してきょうだい一緒に参加させている親御さんも、そうした場を提供する活動をされている方々も尊敬する。
ただお願いがひとつ。もしキコエルお子さんが嫌がったり恥ずかしがったりしたら、決して叱ったり言い聞かせたりせず、その気持ちを否定せずに話を聞いてあげてほしい。無理に連れてこられたり、「きょうだいのためなんだから」と強制されると、どこか違和感のある出会いになってしまいそうなので。
●家庭はキコエルきょうだいが成長する場でもある
キコエルきょうだいの抱く気持ちは、親にかまってもらえない寂しさやきょうだい間のライバル心だけでは説明できない。
キコエナイ子に手がかかることはキコエルきょうだい自身も(年齢相応に)頭で理解しているはず。それでも時には子どもの心では処理しきれない不満や寂しさを感じるかもしれない。もしそういう気持ちを親に受け入れてもらえず「お姉ちゃんでしょ」「妹はキコエナイから仕方ないの」と《正論》で否定されてしまったとしたら?……子どもは持て余した気持ちをどうすればいいのだろう。
キコエナイ子の言葉の権利を守るのはあたりまえだけど、家庭はキコエル子が成長する場でもある。常に一方だけに我慢を強いることのないように、オマケの存在のように感じないで済むように…難しい要求だと思うけど一緒に考えていきたい。
●外部からのプレッシャー・親から受けるプレッシャー
最初のツイートのどこが気になったのか?と言えば、まさに親から受けるプレッシャーだと思う。外部の人から「頑張って」「えらいね」と言われたり、通訳を期待されることがキコエルきょうだいのプレッシャーになるのはNG例として分かりやすい。
でも親から感じるプレッシャーには別の側面がある。きょうだい仲良くしてほしい、障害を理解してほしい、将来何かあったら協力してほしいという、親にとってあたりまえの気持ちが、キコエルきょうだいの負担になることもあるからだ。
親がキコエナイ子のために一所懸命になればなるほど疎外感をおぼえてしまうのはキコエルきょうだいの「あるある」だと思う。手話やろう者と接することがキコエルきょうだいの義務や我慢ではなく、ポジティブであたりまえのことにするにはどうしたらいいのだろう?
すべての家族に効く万能な解決策はないのかも。たとえば「キコエナイ子のため」とは言わずに「ウチの家族はキコエナイ人とキコエル人がいる特別な家族だから」と言い換えてみるとか。うーむ、簡単じゃない。だからこそアイデアを出し合っていけるといいと思う。
●おわりに
このツイ主さんのようにキコエルきょうだいの気持ちも考えておられる親御さんの存在は本当にありがたい。大人になったキコエルきょうだいの本音やNG体験は子育て中の親御さんにとってあまり聞きたくないことかもしれないけど、小さなきょうだいさんたちのためのヒントになるなら私たちも救われる。そういう意味で先のツイートにはイイネをいくら押しても足りない。考える機会をくださってどうもありがとう。頑張っておられる親御さんたちにエールを送りたい。
参考:こちら私の大人ろう者との最初の出会い
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